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梅雨霧まことの秘密
ガサガサと、コンビニの袋に酒缶とおつまみを入れて、私は溜息を吐きながら帰路につく。
今日の仕事終わりの上司からの説教も長かった。たまに褒められることもあるけど、上司からの言葉の多くは時代にそぐわない根性論とマウンティング、そして私を追い詰めようとするものだった。
根性論は別にいい。上司がそういう時代の生まれで、そういう考えの持ち主であるというだけだから。
しかし、明らかに自分の方が遙かに上であると見下しているような発言と、私と貶めて追い詰め、自分が言わせたい言葉を言わせるように誘導するやり方はいかがな物かとも思う。
何よりキツイのが、上司が自分を信頼している面が見えないということ。自分の発言はばっさりと否定されるし、信じて欲しいことは信じずに自分だけが正しいとばかりに絶対王政を強いている。
つまり、自分と上司は相性が最悪なのだ。
その上、いまの上司は口が達者で、自分の味方を増やしているため逃げ場がない。
「もういっそ転職しちゃおうかなあ」
せっかくパートから上りつめて社員となり、さらに上を目指そうと頑張っている。やる気だってある。
でも、上司からは説教ばかりされ、他愛のない世間話を振れば馬鹿にされたように笑われ、それを嫌だと指摘されると十倍にして反論され、あまつさえ「自分は戦える人間だから、上層部に掛け合ってもいいよ」と脅される。
こんな現場で何を頑張れば良いというのか。
自分が甘いだけなのか、弱いだけなのか。
実家暮らしの時にそう泣きながら相談したとき、母はそれは違うと言ってくれた。
「まことは頑張っている。いまの時代がキツイだけ」
自分と同じように泣きながらそう言って貰えたので、当時自殺さえ考えていた自分がいったいどれほど救われたか。
心を落ち着かせて考えれば分かる話。要は上司が限界突破型で、自分が限界量を突破できない人間だというだけの話だ。人類平等だと信じている人間と、人間は不平等であるということを知っている人間の価値観のすれ違い。
仕方の無い、相容れない関係なのだ。
しかし、マネージャーすら味方につけているので相談することもできず、ただ追い詰められているだけのいまの現状はまずい。
せっかく資格をとって入った会社なのに、もうくじけそうだ。
運がいいのか悪いのか、自分はオタクである。創作趣味も持っていて、自分の怒りを小説に載せて書いている。そうすれば、多少は心が軽くなるから。
どれだけ嫌なことがあっても、小説だけは続けている。
だからだろう。実家を出て相談者がいないいまも、自殺するほどまで追い込まれてはいないのは。
それに、最近は家に帰る理由がある。仕事をこなし、『彼』にいい思いをさせるためにいま頑張れているといっても過言ではない。
考え事をしていたら、自分が住んでいるアパートに着いた。
自分が済んでいるのはアパートの二階で、部屋は2LDKと広い。
私はアパートの敷地に入ると、階段を上ってアパートの二階に上り、廊下を歩く。「梅雨霧」と書かれた表札の玄関のドアの鍵穴に鍵を差し込み、回した。
「ただいまー」
明るい部屋に声をかけると、中から「おかえり」と低い男性の声がする。
パンプスを脱いで、玄関の上がり框を踏んで、部屋の中に入れば、出汁のいい匂いがする。今日はお吸い物かな。それとも煮物? 心を浮き立たせて台所を覗き込む。
台所の前に、一人の男性が立っている。Tシャツにジーンズ、エプロンを着けた傷だらけの褐色肌のギリシャ人男性だ。
彼は私を振り返ると、にかっと太陽のような笑顔を向けて笑いかけた。
「おかえり、まこと」
私は彼に笑い返した。
「ただいま、アレスさん」
彼――ギリシャの軍神アレスはコンロの火を止めると、エプロンを外した。
「今日は遅かったんだな」
「ちょっと上司に説教されてきちゃって」
「殺そうか?」
「殺さないで」
胸ぐらをつかんでやりたいという気持ちはあるけど、死んで欲しいわけではないので丁重にお断りする。
「荷物置いてくるから」
「わかった」
私は一度自分の部屋に入って荷物を置くと、着の身着のままでベッドの上に横たわった。
ギリシャの神さまと一緒に生活しているなんて、夢みたいな現実だ。
「まさか推し神さまと生活するようになるなんてなー」
首を横に向け、本棚に並べられたギリシャ神話関連の書籍を見ながら呟く。
アレスさんが夕食を食べるかと声をかけてきたので、私は飛び起きて自室を出た。
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