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Ψ
あれから、ひと月後。
そろそろ潮時だ、とすみれは唇を噛み締めた。
東京湾を進むクルーズ船の上で、潮風に頬を撫でられる。
すみれは、プライベートデッキから真っ黒な海を覗き込み、何気なく二の腕をさすった。いざとなったらこの海へ飛び込まなければならない、と覚悟を決めながら。
濡れるのも、冷たいのも、本当なら避けたい。
すみれは、気づかれないよう小さくため息を吐いた。
顔を上げれば、夜に浮かび上がる美しいレインボーブリッジ。
しかし、のんびり見惚れている余裕はない。ウェットスーツを着込んでいるせいか、ドレスの裾がやたらと足へまとわりつく。咄嗟の動きが鈍るのを危惧して、素早く整えなおした。
背後から近づいてくる人の気配。濃厚で甘いダマスク香が鼻腔に届く。やがて、大きな花束を抱えた長身の男性が、すみれの隣に立った。わずかな明かりの下、男性のスーツが光沢を帯びているのが分かる。
男性は、すみれの恋人、秦颯真である。
「待たせたね」
エンジン音と波の音にかき消されないよう、颯真はすみれの耳元で言った。
「改めて言うよ。僕と結婚してください」
すぐさま、真っ赤な薔薇の花束が、すみれへと差し出された。薔薇の数は目算で百本。おそらく正確には百八本だろう。〝108=永遠に〟という語呂合わせから〝結婚してください〟という意味がある。
颯真の爽やかな笑顏を、すみれは厳しい顔つきで見つめる。
「そろそろ、こんな茶番劇終わりにしませんか?」
「茶番劇?」
「颯真さんは、私が何者か知っているんでしょう?」
「ああ、そのことか」
颯真は柔らかな表情のままだった。
「私に組織を通じて仕事を依頼してきたのは、おそらくあなたの父親よね? あなたの父親は何者なの?」
「もう分かっているんだろう? 僕の父は、君の上司の部長で、時にホテルマンで、はたまたウェイターで、たまにバーテンダーをしている、伊賀忍者の子孫だ」
すみれは驚く様子も見せず、ただ頷いた。
「やっぱり。私をどうするつもり?」
「父は、命を助けてくれたすみれを気に入り、僕の結婚相手にしようと企んだんだ。僕は当然、最初は断るつもりだった。だけど、すみれの鮮やかな仕事ぶりを見ているうちに、すっかり心を奪われてしまって」
「あなたも忍者なのね」
「もちろんさ。僕たちきっと気が合うね。君はもう、ひとりじゃない。僕と結婚して幸せになろう」
「颯真さん……」
颯真に抱きしめられ、すみれは心底ホッとした。海に飛び込む必要はなくなったようだ。
「それにしても、競合他社のスパイの田中を、退職に追いやってくれた手腕はさすがだった」
「あ、ああ……」
田中が産業スパイだったのは知らなかった。
あまりにも仕事が遅いので、業を煮やしたすみれが勝手にプロジェクトを進めただけのことだ。三重県伊賀市の養鶏農家と巡り合ったのは、偶然か運命か。
ちょうどその頃、SNS上では、すみれが手掛けた〝忍びの国のたまごプリン〟が大バズリしていたのだった。
了
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