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スパイとはいえ、映画みたいに変装マスクは使わないし、ボディスーツも着ない。ただし、謎めいた秘密組織には所属している。
耳に流れる小説は、いよいよクライマックスに突入。
「探偵を雇った依頼主が犯人だったとはね」
三週のランニングで犯人は分かってしまったが、すみれは残り二週を走りきることにした。
そこで、ベンチに座る六十代ほどの男性が、苦しそうに胸を押さえているのが目に入る。
すみれは、その光景に既視感を覚えた。
ほんの数週間前にも、同じように道端で苦しむ男性を助け、救急搬送の手配をしたばかりだ。不審に思いながらも、イヤホンを外して、すみれは男性に近づく。
「大丈夫ですか? 救急車を呼びましょうか?」
すると男性は、がしっと、すみれの腕を力強く握ってきた。
「あなたを、探していました」
思ったとおり、以前助けた男性と同一人物だ。
スパイの言葉に、一度目は偶然、二度目は奇跡、三度目は作戦、というものがある。繰り返し同じ人物と会う場合、注意を払わねばならない。
すみれが身構えると同時に、ベンチの後ろから黒ずくめの男たちがあらわれた。
「一四二六二七」
男性は、暗号を使って新規の顧客であることを告げる。敵ではないようだ。
「原則、組織を通しての仕事しかしておりません」
すみれは冷静に答える。
「組織に話は通してあります」
男性は茶封筒をすみれへと差し出してきた。
「すみれさん。あなたを一流のスパイと見込んでお頼みいたします。とある会社の膿を取り除いてほしいのです。まずは手付金に三百万円ほどご用意しました」
すみれは札束の入った茶封筒を受け取ると、片眉を動かす。札束の重量感に、思うところがあったのだ。
「報酬は電子マネーでいただけませんか」
「そんなことをしたら足が付くのでは?」
「問題ありません。スパイ業法に則り、届け出をして営業許可を取っています。お見積りを後日お出ししますので、いったんこれはお持ち帰りください」
すみれはそう言うと、茶封筒を男性に返すのだった。
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