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Ψ
スパイ組合から、マルシン物産への潜入調査という任務を与えられたすみれが、営業事務として中途採用されて早二ヶ月。
すみれは、毎朝同じ時間に、社員証を翳しゲートを通り抜ける。いつものように人の流れにのって、エレベーターで七階へ向かった。
エレベーターを降りると、たまたま一緒になった営業部の田中に、「おはようございます」と挨拶をする。しかし、田中はぺこりと頭を下げるだけで、どこか他人行儀だ。おそらくすみれのことを、配置されたばかりの派遣社員かなにかだと思っているのだろう。
そしらぬふりでデスクに着くと、すみれはパソコンで出勤時刻を打刻した。今日もぴったり八時四十五分だ。
すみれの仕事は、取引先から注文や取引の前段階である引き合いを受け、仕入先を探すというものである。今は、新商品のプリンを売り出したい食品メーカーのために、濃厚な玉子を取り扱う養鶏農家を探しているところだ。
一応、田中のアシスタントという立場であるが――。
「佐藤さんどこだっけ?」
田中はアシスタントの佐藤、つまりすみれを探して、あたりを見回していた。
「ま、チャットでいいか」
田中は、諦めたようにパソコンの画面へと視線を戻すのだ。
すみれは、とんでもなく存在感が薄い。
感染症の流行もあって、中途入社の歓迎会がなかったせいもあるが、部内の人間から呼ばれるときも「すみません」とか「ちょっと」などで、まだ名前も覚えられていないようである。しかし、潜入調査には好都合だった。
気配を消すのは、すみれにとって容易いことだ。自分を無にすればいい。しかし、完全に無になると欠勤扱いされかねないので、あえて、たまにあくびをしたり、強めにキーボードを叩いたりしている。
それでも、斜め前の席に座る田中は自分の仕事に夢中で、すみれのことなど眼中にないようだった。
これ幸いと、すみれは、同じフロアにある企画開発部の、島型にレイアウトされたデスクへと視線を移す。
ロックオン。
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