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スパイですが標的の御曹司に求婚されています
市場前駅の改札を抜けると、佐藤すみれは、キャップの上にパーカーのフードを被り、ジッパーを口元まで引き上げた。
スマホ以外の荷物をコインロッカーに預け、軽く足首を回す。ワイヤレスイヤホンから流れるのは音楽ではなく、ミステリー小説だ。聞く読書は、朝ランのお供である。
ペデストリアンデッキで繋がったホテルを通り抜け、リズミカルに階段を駆け下りた。豊洲ふ頭をぐるりと囲む公園へ出たところで、しっかりストレッチだ。
公園は全長四・五キロメートル。すみれが本気を出せばマラソン選手並みの速さで走れるが、あえて流す程度にしておく。決して、他のランナーたちから変な目で見られてはならない。
「犯人が分かるまでに、五周はいけそう」
ミステリー小説のストーリーを気にしながら、いよいよランニング開始だ。
犬の散歩に釣り、ウォーキングやランニングと、早朝でもちらほら人とすれ違う。全身黒っぽいトレーニングウェアに身を包んだすみれは、そんな日常の風景にすっかり溶け込んでいた。
すみれは、ちらりと腕時計型デバイスを確認する。時刻は六時四十五分。今日もスケジュールどおりだ。
毎朝のトレーニングは怠らない。
幸いにも、睡眠は三時間も取れば十分、食事は毎食コップ一杯の完全栄養食で健康を維持できるという体質である。
嗜好品は仕事以外で口にしない。
スポーツ選手でもないのに、二十七歳の女子としてはストイックなほうかもしれない。
しかし、すみれにとっては当たり前のことだった。
なぜなら、すみれはスパイだからだ。
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