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ダイヤルを右に三回、それから左に一回まわした。軽い柔軟運動のつもりで、ディスクを動かす。金庫破りに必要なのは、知識や技術ではない。いかに、金庫と一体化するかだ。ディスクが円滑に動くかどうか、癖はないか、切欠きはどの位地にあるのか、そういった特徴を一つひとつ調べる。その呼吸までもがわかるぐらいに、金庫と会話ができるようにならないといけないのだ。
ダイヤルを0に合わせる。ゆっくりと息を吐き、左手でレバーをつかんだ。いざ仕事にとりかかろうとしたとき、及川が戻ってきた。「早苗さん、ちょっといいですか」
早苗はしゃがんだまま、後ろを振り向いた。のんきにハンカチで手を拭いている及川が立っている。邪魔されたことに苛立ち、思わず強い口調で言った。
「なんなのよ?」
「さっき言っていたルマークの指環って、何なんですか?」
「ルマークの指環?」
「そうです。この家に入ったとき、言ってたじゃないですか」
「あのね」早苗は立ち上がった。鼻息を吐きながら腕を組む。「見てわからない? 私はいま、金庫を開けようとしているのよ。そんな話、いつだってできるじゃない。なんでいま、わざわざその話をするわけ」
「いや、違うんですよ」及川があわてて手を振る。「ちょっと緊張をほぐそうかなと思ったんですよ。指環の話をしていたとき、早苗さん楽しそうでしたから」
「馬鹿じゃないの。いま、一番集中しないといけないときじゃないの。そんなときに緊張をほぐしてどうするのよ。男って、ほんとうに馬鹿よね」
「すみません」及川がか細い声をだす。
早苗は集中力の糸が切れるのを感じた。人間は一度その糸が切れると、再びつながるまでに時間を要する。たまにワイヤーのような強靭な糸を持っている人間もいるが、そういうのはプロスポーツ選手や、偉大な才能のある芸術家に限られている。
仕方なく、壁によりかかって窓の外を眺めた。空は曇っていて、月や星の明かりはまったく見えない。天上の光を覆い隠したいかのように、黒々とした雲が空にはりついていた。仕事をする夜はいつも晴れていたのに、今日に限ってはひと雨きそうな雰囲気だった。
「もう、余計なことは口にしませんから」
及川がそう言った。心底申し訳ないような、反省した声だった。
早苗はちらと視線を向けた。それから溜め息を吐き、ゆっくりと喋りだした。「ルマークの指環はね、ルマークっていう伝説の泥棒がとある女性に贈った指環なのよ」
早苗が口を開くと、及川は嬉しそうな顔をした。しかし、それからまたかしこまった表情をする。暗がりであまり表情は見えないが、及川はまた機嫌を損ねないように神経を使った。
「とてもロマンチックで、すてきな話じゃないですか」
「そうなのよ。ルマークは天才的な泥棒でね、ありとあらゆる盗みを一人で成功させたわ。ルーブル美術館、ジュネーブ銀行、ブリュッセルのダイヤ取引所、それから――」
「ちょっと待ってください。そのルマークさんて、いつの人なんですか?」早苗の言葉をさえぎり、及川が言った。
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