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ほんの半年前には考えてもみなかった事態。
そんな場所で、わたしはちゃんと適応できるんだろうか。
とてもじゃないけどそんなたくさんの人の顔なんて覚えられる気がしないし。いつまで経ってもそんな激しい環境に慣れなくて、結局何もできなくて。ひとつも成し遂げられた成果もなくすごすごと、ただ高橋くんに送ってもらって無為に元いた集落へと戻るだけって結末になりかねないんじゃないのかなぁ。
楽しげにわいわい言い合いながら交替し、やがて無事に高橋くんが操縦席に入ってハンドルで舵を取り始めた。不安がって見せた割には安定してて危なげのない運転だ。滑らかに波に乗って水面を走っていく。さっきより海面の状態が落ち着いたからかもしれない。
さ、純架さんもおひとつ。と満面の笑顔でいそいそと自分は缶ビールを片手にジュースのペットボトルを差し出してくる神崎さんと、それを横目に、おい何があるかわからんからまだアルコール入れんな!とびしっと指導する高橋くん。
何もできないわたしは、この先この二人に盛大に負担をかけるばっかな気がするなぁ。と早くも先が思いやられて、とりあえずその場は曖昧に笑ってオレンジ色の冷えたボトルを受け取るわたし。なのだった…。
うっすらと夜が明け始める頃合いに、ようやくわたしたちの乗った船は目指すマリーナに到着した。
夜通し交替で船を操縦していた二人はだいぶお疲れ気味で、だけどその割にはまだ余力のありそうに見えるちょっと楽しげな様子で弾むような言葉をかけ合いながら船を停泊させて繋ぐ。そのあと高橋くんに丁寧に手を添えられて降りながら、この船はここに繋いどいていいの?とどちらにともなく尋ねると、ひょいと背後から首を伸ばして寄せて来た神崎さんが答えてくれた。
「もともとこれを俺たちに貸してくれた人がここのマリーナと契約してるんだ。だから、この船は自分ちに帰ったってこと。鍵をあとでその人に返しに行って、それでおしまい。そんなに頻繁に乗るわけじゃないから、いつでもいいって」
「あの人、前に俺にこの船買わないか?って言ってたよ。最近めっきり乗る機会なくなったからって」
高橋くんもどうやら貸し主とは面識があるようだ。お前どう?と冗談ぽく振られた神崎さんは、滅相もない。とばかりに肩をすくめた。
「いやぁ、俺には維持費がきついし。お給料ばんと上げてくれたらあるいは、どうかなぁ。…うーんそれでも、この素通しの船はきついわ。ダイビングスポットへの往復か、沖釣りにしか使えないやつっすよね?もっと快適で、女の子を乗せていっても喜んでもらえる船ならまあ。セレブが持つようなかっけークルーザー船とかさ」
「バブリーな発想だな。てか、クルーザー船どころかさ。お前の場合まずは車からだよね」
辛辣に突き放された神崎さんは思いきりむくれる。
「だから。…まず給料アップからですってば。当然それも」
高橋くんにあえなく黙殺されてその会話は終わった。
純架、歩ける?疲れたでしょ?と何くれとなく気遣う高橋くんと、純架さんやっぱり一回どっかで休んでいきます?この辺ホテルってあったかな、とスマホ(スマホ!)を取り出して何やら調べ出す神崎さん。二人に支えられるように挟まれてマリーナを離れながら、さっきのやり取りについてぼんやり取り留めもなく考えていた。
会話の内容から推測するに、高橋くんと神崎さんはおそらく同じところで働く同僚で一方がもう一方の上司。年齢を考えてもまあそれが妥当だ。それに神崎さんは確か、上司には丁寧語を使え。と高橋くんに注意されたと言ってたし。
それは早い段階で推測できたけど、今の給料の件からさらに深読みすれば。
少なくとも、高橋くんには部下の神崎くんの給料の額を決めるくらいの権限がある。もしくは、そういうのが冗談として通用する程度には社員の査定に関わってるってことか。
一体この人たち、何の会社に勤めてるんだろ。国から調査を非公式とはいえ請け負うんだから、それなりに大きな会社なんだよね?…ああ、でもそういえば。
さっきまでの会話のどっかで、神崎さんは確か『事務所』って言ってた。だとしたら、全国組織の調査会社とかそういう感じじゃないのか。
よくは知らないけど。大規模企業とか組織って印象じゃないよね、事務所って。案外小さな職場なの?
「…あんまり。この辺に適当なホテルないなぁ…」
てくてくと歩きながら俯いてずっとスマホと格闘してた神崎さんが、ふとため息混じりに1人後のように呟いた。
「駅近くまで行けばあるんじゃない?ここから新幹線停まる駅まで。そんなに遠くないし…。歩くとなると結構あるけど」
高橋くんも彼のスマホの画面を横から覗き込んで、一緒になって考えてる。
「純架も昨夜は一睡もしてなくてそんなに長い距離は歩けないだろうから。タクシー拾うか呼ぶかして、もう新幹線の駅まで行っちゃうか。そしたらさすがに休むところ何かしらあるんじゃないの?」
「うーん。でも、そこまで行くんなら。中途半端なホテルに入るよりも。もういっそ、新幹線乗って一気に東京行っちゃうのはどうです?」
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