第13章 脱出

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エンジンのついてる船は集落にはないから。わたしはこの手のボートの実物は初めて見た。TVでは見たことあるけど。 「…集落の人。誰か、音で目が覚めちゃったりしないかな」 船の甲板はほとんど素通しなので夜の海の風がどっと全身に当たる。まだ夏場とはいえさすがに体温が一気に奪われて歯の根が合いづらく、かちかちという音混じりにそう呟くと服の包みを持ってきてくれた高橋くんがわたしの不安を払拭しようとしてか、至極落ち着き払った態度でその疑問に応えた。 「大丈夫でしょ。だって俺たちも集落にいたけど。この船があの崖際まで乗りつけてきたときの音、全然聴こえてなかったし」 そういえばそうだ。 彼は穏やかな声で先を続けながら服の入った包みを、手のかじかんだわたしの代わりに開いてくれる。 「海からみんなの住んでる辺りまでは意外と距離あるし。音も崖に跳ね返されて海面に散るから、言うほど届かないんじゃないかな。起きて真剣に耳を澄ませてる人がいればだけど。時間的に寝てる人が殆どだろうしね」 「そうか、…わたしたちも。この船が来たときはまだ、寝てたのかな…」 時間になるのをじっと待ってすぐに出てきた、と思ってたけど。自分で思ってたよりは案外眠ってたのかも。 そう言ってる間も、船は海面を切り裂くようにしてすごい勢いで集落を置いて遠ざかっていく。これ、わたしが生まれてから乗ったものの中で。間違いなく一番スピードの速い乗り物かも。 てかよく考えたら乗り物自体乗るの初めてでは。漁に出る手漕ぎ舟も見るだけで乗ったことはないし。集落は道が舗装されてなくてアップダウンがきついから自転車もない。子どもの頃に父が台車に乗せてくれたのが唯一の…。 …つん、と鼻の奥と目に来るものを感じて慌てて俯いた。考えちゃ駄目だ。 もうあそこには戻れないかも、なんて。今考えたら。前にはとても進めない…。 「…純架。そっちの陰に回って、なるべく風の当たらないところで。全身着替えちゃった方がいいよ。俺たちはそっち絶対見ないから」 わたしがうずくまって黙りこくってるのを気遣ったのか、高橋くんが少し身を寄せて優しい声で力づけるように促してくれた。 「船の上は風がきついし。濡れた服のままじゃとてもじゃないけどもたないよ。…俺もこっちの反対側で今から着替えるし。あいつは操縦でそっち見てる余裕全然ないから、今のうちにね」 「…大丈夫です!仮に見れても女の子の着替え覗くような真似。絶対にしません!」 運転席の男の子がやけに声を張り上げて同意したのは、少し離れた場所からエンジン音に負けないようにってことと多分まじで操縦に気を取られてるからだ。 その少年のような顔には割と本気の緊張感がみなぎっている。もしかして、言うほど船を操縦した経験がないのかもしれない。 わたしはこくこくと無言で頷き、促されるままにやや風を避けられる物陰に身を落ち着けた。全身着替えなきゃってことは、下着もか。 まあ、ブラもパンツも全部ずぶ濡れだし。その上に無理矢理服着たらそれも濡れちゃうレベルだから。言われるまでもなくここで替えるしかないか…。 袋の中には新品のパンツとブラ付きタンクトップもしっかり入ってた。これがブラジャー代わりか、と思いながら濡れた服を剥ぎ取った身体を急いで拭き、四苦八苦しながら上から被る。結構きつきつ?って思ったけど、実際着てみると意外にぴったり身体に合っていた。 普通のブラじゃないのは何でだろうと一瞬考えた。でも着てみてわかったのは、これってカップのサイズとか曖昧でも多分まあまあ何とかなるってこと。 さすがに身長はともかく、わたしの胸の大きさまで訊いて確かめる気にはなれなかったんだろうな。あと、高橋くんの仲間のスタッフが何人いるのか知らないが。もしもこの男の子がこれを用意してくれたんだとしたら、ブラジャーよりはこっちの方が男性でもまだ買いやすいってこともあるのかも。 新しい下着を身につけて、急いで袋からアウターを取り出した。ハーフ丈の柔らかい生地のデニム風レギンスと、ゆったりした大きめのコットンのTシャツワンピース。着やすくて肌触りがよく、造りもしっかりしてる。これがユ●クロか。TVでしか見たことなかったけど、恐るべし。 「…おお、似合ってる似合ってる。よかった、全然女の子の服わかんなくて適当に買ったから。サイズは大丈夫っすか?」 濡れた服を代わりにそのビニール製のバッグに突っ込み、物陰から出ていくと運転中の男の子が横目でわたしの全身をざっとチェックしてから安心したように叫んだ。 叫んだ、って表現は剣呑だけど。ボートのエンジン音がすごいからそれに負けないように声を張り上げたってことだ。わたしもこくこく頷き、近くに寄って頑張ってなるべく大きな声でそれに応える。 「ちょうどいいです。どうもありがとうございます。…すごいですね、これ。量販品なんでしょ?お洒落で品質がよくて」 思わず変な職業意識が頭をもたげて、自分の身なりを省みて余計なことをつい呟いてしまう。
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