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疲労で働かない思考を動かすのを放棄し、ぼんやりと鏡の中に映る自分を見つめる。 いつの間にか顔にはメイクが施されていて、整えられた髪の毛がスプレーで固められていく。 「はーい、できたよお」 「ありがとうございます」 俺を担当してくれたメイクさんに頭を下げて礼を言うと、のっそりと身体を動かして人の輪から離れる。 そうすると部屋の隅に置かれたソファが空いているのが目に入り、静かに近づいていくと思いっきり腰を下ろした。 このまま、このソファに横になりたい。 五分。 五分だけでいいから横になって休めたら、身体の疲れも少しは和らぐかもしれない。 そう思うけど、すでに衣装まで着てしまっているから簡単にはだらけられない。 それでもこの、何とも言えない身体の重さを解消したくておそるおそる太ももに肘をつくと、俯く形をとって目を閉じた。 初めてのアルバムが出てからというもの、各放送局の音楽番組に出て、番宣でバラエティー番組に出て。 グループの冠番組やパーソナリティーをしているラジオを収録して、この前の個人とは別にメンバー全員でSNSの生配信をして。 アイドルとして活動ができて、俺たちを応援してくれる人がいる。 それはどんなに感謝しても返せないくらい有り難いことなんだけど、その気持ちをどこかにやってしまいたいほど限界が来ているのが自分でもわかる。 なのにどうして、俺はこんなに弱いんだろう。 伊織くんはこんなに忙しいのに、合間の時間で映画の撮影をしている。 優成くんは最近、個人でバラエティー番組のレギュラーが決まった。 晃希や諒はハイブランドのアンバサダーとしてイベントに参加したり、コスメブランドとコラボしてコラボ商品をつくったりしている。 俺だって何もしていないわけじゃない。 個人でコマーシャルの撮影をしたし、生配信を見ていた編集さんに呼ばれて小説誌や書籍情報を扱う情報のインタビューをいくつか受けた。 SNSももっと活用をしないといけないと自撮りをしてみたり、晃希のアドバイスを聞いて動画を撮ってみたりした。 だけど、周りを見渡してみれば俺以上に頑張っているメンバーしかいない。 俺もみんなに置いていかれないようにもっと頑張らないといけない。 そう思うのに、頭の先から足先まで疲れ切っているせいか上手く言うことを聞いてくれない。 息苦しい、消えたい……。 「碧」 考えれば考えるほどに精神がどん底へと堕ちていくと、いきなりソファが揺れる。 その瞬間、驚いて上半身を起こせば、横から伸びてきた腕に肩を抱き寄せられる。 「大丈夫か?」 身体が傾くほうへと顔を向ければ、伊織くんの顔がすぐそばにある。 そうか、さっきの声は伊織くんのものだったのか。 ぐるぐると思考が回って真っ黒になった頭がゆっくりと伊織くんを認識していくも、身体を起こせずにもたれたままでいる。 「ああ、うん、大丈夫だよ」 「……まだ時間はあるから休んでろ」 伊織くんの言葉に逆らう力もなく、そのまま体重をかけたまま呼吸だけに集中していると、徐々に息がしやすくなっていく。 だらんと放っていた手を掴まれ、伊織くんの太ももに置かれると、指先から冷たい体温が伝わってきて心地よい。 伊織くんとは、この前の生配信の会話から二人で話すようになった。 伊織くんは忙しいはずなのに毎日のように電話やメッセージで話してくれ、ちょっとずつ打ち解けてきたのもあってグループ活動中の今は表でも裏でも隣同士でいることが増えた。 元々、俺も伊織くんも口数が多いほうではなく、話したとしても落ち着いた口調のままであることが多い。 それもあってそばにいると落ち着け、また伊織くんが頼れる人なのもあって身体に入っていた力が抜ける。 「伊織くん、今日は前髪上げてるんだね」 まだ心臓がバクバクと激しく打ちつけているけど、締めつけられていた胸は和らいで幾分か楽になった。 それもあって気になっていたことを言ってみると、上から被さるように重なっていた伊織くんの手が動き、指を交えた繋ぎ方に変わる。 「ああ、なんかこうなってた」 「なにそれ」 いつもメイクさん任せにしているのは知っているが、あまりにも関心がなさそうに言う伊織くんの姿にくすくすと声を潜めて笑う。 騒がしい楽屋内で俺ら二人だけが隔離されているみたいに穏やかで、これから音楽番組に出るというのに今日はこのままでいたいとさえ思ってしまう。 「碧はなんかふわふわしてるな」 「うん、軽く巻いてもらったんだ」 「かわいい」 今、伊織くんがかわいいって言った? どんなに可愛いともてはやされている女性アイドルや猫を前にしても無表情でいた伊織くんの口から「かわいい」が飛び出してきたことに驚き、ちらりと伊織くんへ視線をやってみる。 そうすると今までずっと伊織くんは俺のことを見ていたらしく、何の隔たりもなく目が合った。 「碧はいつもかわいい」 顔を向かい合わせると、念押しをするようにもう一度言う。 その瞬間、じわじわと頬が熱くなっていき、苦しいのとかどこかに行ってしまった。 伊織くんが「かわいい」と言うたび、胸の奥がムズムズして落ち着かない。 「あっ、ありがとう」 そのムズムズを意識してしまうと伊織くんとくっついているのが恥ずかしくなってきて、勢いよく身体を起き上がらせる。 支えがなくなると少しくらっとしたけど、最悪だったときよりずっと回復している。 「もう大丈夫なのか? まだもたれててもいいんだぞ」 ふうと大きく息を吐き出すと、伊織くんが俺の顔を覗きこんで顔色を確かめる。 その顔からは本当に俺を心配してくれているのがわかり、胸に歓喜が広がるのと同時に逃げるように目を逸らしてしまう。 「うん、治ったよ。ありがとう」 「それならよかった。碧はいつでも甘えてきていいんだからな」 ぎこちなく返事をすると、身体と一緒に離れた手が引き寄せられ、しっかりと握り直される。 大きな手に包まれながら甘やかす言葉を言われると、少しだけ残っていた気怠さや気持ち悪さがなくなって楽になった。 多分、この言葉のままに伊織くんに甘えていたら苦しまなくて済むんだと思う。 だけど、それじゃあダメで。 それだけはわかっているけど、どうすればいいのかわからない。 「お前ら、最近仲良いな」 逡巡からもう一度伊織くんと目を合わせようとしたとき、いきなり別の声が二人の中に入ってきた。 「うわっ」 「優成、邪魔するな」 驚いて小さく飛び跳ねれば、つながった手に力が込められる。 それでなんとか我に返ると、伊織くんが名前を呼んだことで目の前に現れた声の持ち主に焦点を合わせた。 「伊織が誰かとくっついているのって珍しいな」 優成くんは人好きのする爽やかな笑顔でそう言うと、俺と伊織くんの肩をポンポンと叩く。 伊織くんに甘えている姿を見られたと恥ずかしくて目を逸らせば、伊織くんはわかりやすいほど顔を歪める。 そういえば、練習生のときから優成くんは伊織くんを気にかけていた。 一匹狼の伊織くんをどうにか輪に馴染ませようと引っ張り出したり、頑張りすぎているときにはさりげなく休憩を取らせたり。 元来、優成くんは誰に対しても世話焼きな人ではあるけど、グループのリーダーとして伊織くんが一人にならないように心配していたのかもしれない。 それに、伊織くんは気づいていないかもしれないけど、優成くんを相手にしているときは遠慮せずに感情を表に出している。 だからきっと、伊織くんも優成くんには心を許しているのだろう。 そんなことを考え、そっと伊織くんに視線をやる。 するとすぐに俺の視線に気づいたのか、顔をこちらに向けながら嫌悪を露わにした表情から柔らかな笑顔へと変えていく。 「碧のことは気に入ってるからな」 伊織くんは俺の目を見つつ、砂糖を何杯にも溶かしたような声でそう告げる。 その甘すぎる好意を真っ正面から受けたせいで心臓が大きく跳ね、どう反応していいのかわからず顔を伏せた。 「だから、邪魔するな」 「邪魔とか言うな! 伊織も碧も俺の大事な仲間なんだから」 一変し、優成くんには強い口調で言い放つと、つながっていた手を離して俺の肩を抱き寄せる。 されるがまま伊織くんにもたれれば、優成くんは何でもないように笑って躱しつつ、セットした髪型を崩さないように軽く俺の頭に手を置いた。 「伊織もそうだけど、碧も自分のことを積極的に話すタイプじゃないのはわかってる。だから、無理に話せとは言わない。だけど、特に困ったこととか不安なことがあるなら、どんなに小さなことでも話してほしい。一人で抱えるのは辛いからな」 優しく頼りになる言葉の数々に応えるように顔を上げてみると、目の前に立った優成くんと目が合う。 その微笑みに胸の辺りが温かくなると、どこからともなく気力が湧いてきた。 「うん、ありがとう」 「こいつには話さなくていい。俺に言え」 「今、すごくいいところだったじゃん」 二人のやりとりに声を出して笑うと、どんどん明るい気分に染まっていく。 そのおかげで心も身体も軽くなっていくと、出演の時間が来るまで三人で他愛もない話をして笑い合った。
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