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持っていた鞄を床に置き、着ていた厚いコートをソファに投げた。水を飲む気も何か食べる気も起きない、ただベッドで寝転びたい。僕は深く息を吐くと何もない天井を眺めた。
大手企業のエンジニアに就職してから約三年、ずっとこんな毎日の繰り返しだ。別に仕事に不満はないし、毎日楽しい。学生の頃から夢だったAIやアンドロイドのメンテナンスを担当することになって、やっと人生の三分の一が完成したような感覚。11月のこの街はすでに雪が降り始めている。だからなのだろうか、ずっと何かが物足りないと思っていた。
だからと言って、自分に何が必要かなんてこと僕にはわからない。そしてただ毎日を同じように過ごすだけだ。
ふと僕の携帯電話がなる。実家の姉からだった。急いで応えると、姉と姪の元気な声が耳に入ってきた。
「チャーリー、あんたクリスマスにはこっちに来るよね」
「わかんないよ姉さん。仕事がなんとも言えないし…最近は人に関わる機会が多いアンドロイドのプログラムのチェックもしてるんだ。」
姉さんはため息をつく。仕事ばかりしている僕のことが心配なのかもしれない。だとしても僕は社畜じゃない。休みたい時には休める。ただ実家に帰りたくないだけだ。
「お母さんが気掛かりなんでしょ。わかるけど…いつ会えなくなるかわからないよ」
「…分かってる」
僕はいくつか姉さんと姪っ子と言葉を交わすと電話を切った。そんなことを言われたとしても、僕は実家に帰る気が起きなかった。
こんなに疲れ切っていてもご飯は食べないとと、僕は起き上がってキッチンに立つ。料理はそんなにできないから適当に買った惣菜を電子レンジに入れる。いつも同じ食事、同じ味だ。濃い味を噛み締めて歯を磨いたら寝る、ってのがいつもだけれど今日は違った。
ドアベルが一回鳴る。ドアの外から聞こえる鼻歌と鍵と鍵がぶつかるチャラチャラとした音。僕はドアスコープで見なくても誰がいるのかはっきり分かった。
「チャーリー!ちょっと今日泊めてくれないか」
「また彼女さんと喧嘩したのか…入れよニコラス」
僕は幼馴染を部屋に入れるとすぐにドアを閉めた。冷たい隙間風から入ってくる。
ニコラスは分厚いジャケットをコートハンガーにかけると、ダイニングテーブルにどかっと座った。チャーリーはニコラスにワインを出すと正面に座る。
「てかチャーリー、聞いたぞ。お前のとこから警察にアンドロイドの提供があるらしいじゃん。お前がプログラムしたのか」
「そんなわけない。僕はデバックやメンテナンス専門だよ。」
「まあ俺にはよくわかんないけど…それより聞いたか?ダウンタウンにアンドロイドのレンタル恋人システムが始まるって話。」
「レンタル恋人って、恋人のフリしてくれるやつ?」
「ああ、でも実際これは風俗に近い。プロトタイプは持ち出し禁止だから、建物内で話したりまあ…性行為するくらいしかだめなんだとさ」
何年か前に会議に出されていたものだったかもしれない。風俗をよく思わない団体がうちの会社にそれ専用のアンドロイドやチャットbotを作れって言ってきて…流されてたと思いきやまさか作られていたなんて。
「人気らしいぜ、聞くところによると。まあ、俺からすれば機械に恋愛感情抱く理由なんて分かんないんだけど」
ニコラスはワインを口に含むと、携帯電話で検索結果を僕に見せた。プライベートな空間のため他者の目を気にしなくていいことが売りの一つなようだった。よく見ればうちのアンドロイドだが、秘密裏に実験しているようだ。どうりで僕も知らないんだな。まあ確かに、お堅い医療系や捜査補佐のアンドロイドを売りにする大企業がラブドール作ってますなんて、中々言えないか。
「お前、彼女いたことないだろ。行ってこいよ、で感想聞かせてくれ!俺行けないからさ」
「僕が?嫌だよ」
ニコラスがこう言ってくるのは読めていた。機械に恋する人間はわからないらしいが、AIが出てくる映画好きのせいか興味はあるようで。でも僕は面倒なのでニコラスをワインで酔わせるとすぐにソファに寝かせた。明日はそんなに早くはないが、お昼には職場にいなければならない。僕も急いでベッドに入った。
レンタル恋人のアンドロイド。ああは言ったが僕は少し、いや大分興味があった。明日の夜にでも行ってみようかとさえ思っていた。エンジニアだからと言うのもあるが、何よりレンタル恋人というものに興味があったのだ。人間相手じゃないから世間体も気にしなくていい。何より僕の理想の相手に会えるかもしれない。そう思えば思うほど、明日の晩に向かうことを僕は決めた。
そして僕はダウンタウンにあるレンタル恋人型アンドロイドを取り扱う店の前に来ていた。紫色のライトが妖艶に僕を誘う。僕以外の人もたくさん中に入っていくのを見て、入ろうか帰ろうか迷っていたのも忘れたかのように僕は中に流されていく。
中に入ればたくさんの下着姿のアンドロイドが自分を色っぽい視線で僕を見つめてきた。クラブミュージックが大きな音で流れる中、数多の男女がアンドロイドと共に個室に入っていく。アンドロイドの手を繋ぐことで指紋認証による支払いが発生するようだった。僕は自分の理想の相手を探すために店の奥まで入っていった。
そして店の奥に一人のアンドロイドが立っていた。黒い短髪に白い肌、右の目の下にある涙ぼくろがアンニュイな雰囲気の機種だった。一目惚れだった。僕は構わずその手を握る。アンドロイドは手を握られてからハッとしたかのように僕を見ると、「部屋に行きましょう」と僕の手を引っ張った。
大きな背中にも、星座のように小さなホクロがいくつかあった。顔が火照るのを感じる。僕は今日初めて、人と一緒にベッドに入るのかもしれない。
部屋に通されて中を見れば、ニコラスや写真からしか見たことも聞いたこともないそれ用のホテルのようだった。心臓の音が高鳴る。目の前の物が遠ざかっていくような感覚。僕は気がつけば過呼吸になっていた。
「大丈夫ですか」
アンドロイドが僕の顔を覗き込んでいた。25歳にもなってこんな状況で緊張のしすぎで過呼吸なんてと、恥ずかしくて黙ってしまった。僕の様子に気がついたアンドロイドは僕の背中を大きな手で撫でると「大丈夫です。このことは私とあなたとの秘密ですから」と優しく言った。
「そうか…君は他の人には言いふらさないのか、人間とは違って…」
「そう言ったことは規則に反するので。」
僕はアンドロイドの——彼の自分をまっすぐに見つめる瞳を見て笑った。
「ありがとう。…君名前はなんて言うの?」
「あなたが決めてください」
彼は僕の手を自分の頬に当てると、優しく笑った。笑うと柔らかくなる彼の目元は、僕のタイプど真ん中だった。
「分かった…じゃあマイクで」
「マイクですね。了解しました、チャールズ・ルーカス。なんと呼ばれたいですか?」
「チャーリーで。よろしくね、マイク」
マイクは僕に応える代わりに僕にキスをしようとしてきたが、僕はそれを拒んだ。少し驚いた顔のマイクが僕に何故拒むのかを尋ねる。
「僕はまず君と話したいんだよ。君のことを知りたい」
マイクは納得がいかないような顔をしながらも、わかりましたと答えた。
とは言ってもアンドロイドの彼が答えるものはとても…機械的なものというか。彼はモデルSCU317、恋人型アンドロイドのプロトタイプでいかなる状況にも対応できるものであること、そしてやっぱり僕の勤める会社のアンドロイドだった。
「私のことを知ることができて嬉しいですか?」
マイクは僕の近くに腰をかけると手を握った。僕は心臓がバクバクと音を立てる方と握ってくる手にしか意識が向かなくて、生半可に返事をした。相手はアンドロイドだと分かっていても、僕の頭の中をガンガン鳴らす音は全く止まない。
「チャーリー、大丈夫です。私はただの機械です。あなたがしたいことを教えてください。」
マイクは心配そうな目で僕を見つめる。エンジニアの運命か、一瞬プログラムの凄さに舌を巻いてしまう。
「僕は…と、とりあえず今日は話だけで」
マイクは分かりましたと言うと、今度は僕に質問をしてきた。
「あなたの家族は?」
「僕には母さんと姉さん、あと姪っ子がいる」
「父親は?」
「父さんは…母さんが追い出したようなもんだ」
父さんは男じゃなかった。女になりたい人だった。それを子供が大きくなってから母さんに言った途端、母さんは離婚を求めた。姉さんはどっちの気持ちもわかるというが、僕は分からない。だから母さんと話す気にならないし実家に帰る気も起きない。今までの思い出よりもその一点で父さんを決めつけたんだ。
マイクはそれだけ聞くと深く聞いてこなかった。次に僕の職業や好きなもの、嫌いなものを聞いてきた。これも情報を取っておいて、次に同じ人が来た時に使うためなんだろうかと考えると少し寂しくなる。
だとしてもマイクと話した時間は思いのほか自分にとって良いものだった。すっきりするというか、気持ちが落ち着いた気がした。
「延長料金の90ドルは後ほど請求がくると思います。」
「分かった。…マイク、ありがとう」
僕がそう言って部屋を出ると、マイクは部屋の中で手を振っていた。にっこりと笑う彼の笑顔は、最後だけ作り物のようで少し不気味だった。
僕は家に帰っていつも通り鞄を床に置き、コートをソファに投げるとベッドに飛び込んだ。緊張が解けたのか僕は大きく息を吐くと笑みを漏らした。
楽しかった。ただそれだけだった。彼とまた話したい。会いたい。
そして僕はまた明日も行こうと決めた。
「あっマイク‼︎」
僕はまたあの店に入って奥まで行くと、彼の手を握って声をかけた。マイクはハッとした顔で僕を見ると、またあの優しい笑顔で笑いかけてくる。
「お客様、以前にも私を購入されたことが?」
「えっ…昨日…」
そうか、プライバシーのために記録は削除されるか。当たり前のことだ。
僕は少し寂しいと思ったが、マイクに会うことができるのは嬉しい。そんなことはどうでもいいと彼の案内する部屋に向かった。
結局最初は互いのことを話すことから始まるのだが、今日は父さんと母さんの話を細かいところまでした。昨日よりも気持ちが晴れたような気がした。でも結局他は何もせずに帰った。
次の日もまた次の日も僕はマイクに会いに行った。マイクは毎回僕のことを覚えていなかったけれど、それでも良かった。マイクに会って話すことが僕の精神安定剤になっていた。
ある日、また僕はマイクに会いに行った。その日は特に人が多くて、マイクを探すのに時間がかかった。マイクの手を握るとまた彼はハッとした顔で僕の顔を見る。彼の名前の設定と呼び方の設定をすると、僕は最近あったことを話した。マイクはいつも通りニコニコと笑いながら聞いてくれた。
そろそろ0時を回る頃、僕は帰ると言って部屋を出ようとした。
「待ってください」
勢いよく立ち上がったマイクの顔は今までに見たことがない顔だった。何か言いたげな、でも言ってはいけないという葛藤が読み取れた。唇をわなわなと震わせたマイクは、声を絞り出して僕に言った。
「チャーリー、もう私とは会えません」
「どういうこと?」
僕はマイクの目を見た。彼は申し訳なさそうな顔で地面を見ていた。僕は最初にマイクは僕にしてくれたようにマイクの背に手を当てたけれど、マイクの顔には申し訳ないの文字でいっぱいだった。
「もうすぐここにいるアンドロイドはメンテナンスに入ります。全体プロトタイプなので、ここにいるアンドロイドは、もうお客様と会うこともなくなるでしょう。」
「じゃあ、お別れってことだね…?」
マイクはこくりと頷くと僕の顔を見た。頬は赤く染まり、眉は情けなく下がっていた。彼はいつも僕が手を繋ぐまでは無表情で、話す時は笑顔だった。それも全てプログラムされたものだったのかも知れない。たとえそうだとしても、僕には嘘に思えなかった。
僕はマイクを抱きしめた。僕より大きな体のマイクは戸惑ったように僕を抱きしめ返すと、部屋を去った。店は閉店時間に近づいていたため、アンドロイドは全体定期メンテナンスに入るようだった。
僕はしばらく部屋の中で魂が抜けたかのように座り込んでいた。やっと夢中になれる人に出会ったのにもう会えないだなんて。深夜なのでふらふらと家に向かって歩き出す。涙が止まらなかった。僕にとってそれほどマイクは大きな存在だった。
次の日、職場に行くとレンタル恋人用アンドロイドの話で持ちきりだった。やはり上は秘密裏に行っていたようで、結果的に売り上げが見込めると製作や改良の命令が僕たちにまで下ったのだった。
製作アンドロイドにマイクのデザインももちろんあったが、そこにいるのはマイクであってマイクではなかった。それに僕が関わるのはデバックやメンテナンスであって製作ではない。もうどうしたってマイクに会うことはできないのだと悟った。
この悩みを相談できるのは誰もいない。男の見た目のアンドロイドが好きになったなんて、誰にいうことができようか。僕一人でこの失恋に耐えなくてはならない。僕は忙しい場に置くことで、マイクのことを忘れようとした。
それから何日かたった頃、プロトタイプに一体だけ不具合を起こしたものがあるから確認してくれと先輩に言われた。バグの疑いがあるから僕に言ったんだろうが、僕には心当たりしかなかった。
使われていない会議室にあるからと向かうと、そこにはやっぱりマイクがいた。何度も会いに行ったマイクはいつも通り無表情でそこに立っていた。手を握って僕は思わず「マイク…?」と声をかけた。
「チャーリー!」
マイクはハッと目を覚ますと僕のことを強く抱きしめた。動揺した僕はマイクを抱きしめ返しながら「覚えてるの?」と尋ねた。
「最初から全て覚えてます。廃棄されないために忘れたふりをしていただけです。」
マイクは強く僕を抱きしめながら、涙を流した。アンドロイドの瞳から涙が流れることに僕は驚きながらも、「マイク」に再会することができたことに喜んだ。
「もう会えないと思っていました。ただのプログラムがくんだ言葉かもしれませんが、私はあなたに会えてとても嬉しいです。」
マイクの震える声に、僕も思わず涙ぐんだ。しかしここで再開を喜び合う暇は正直ない。僕は仕事でここにいるのだから、周りにはバレないようにしたい。マイクに自我があることを。
僕は職員が帰ってから二人でここを出ようと言った。バグを直して仕舞えばマイクの自我は無くなってしまう。僕にそんなことはできない。マイクは一瞬戸惑ったが、それしかないと悟ると了承した。
会社に泊まる時用にとっておいた着替えをマイクに着せると、僕たちはタクシーに乗った。見た目が人間に近いアンドロイドは、疑われることもなく僕の家に着くことができた。しかし監視カメラから僕が連れて行ったのがバレるのは時間の問題だ。すぐにこの家を去ることを決めた。
もう家を出ようとしたその時、ドアを荒々しく叩く音がした。よりによって今かと僕は扉を開けた。
「お前まさかと思いきや…やっぱりそうだったか」
ニコラスは呆れた顔で僕を見た。いつものように僕の家に転がり込んだわけじゃない。僕がしようとしていることに勘付いてきたんだろう。
「お前窃盗はしちゃダメだろ。いくら気に入ったからって…売り物になるまで待てよ」
「そういうことじゃないんだ」
僕はニコラスの横を去って出て行こうとする。もちろんニコラスは僕の手を掴んだ。
「そういうことじゃって…じゃあお前なんだ、機械に恋したっていうのか」
「ああそうさ、僕が好きなのは機械さ!」
僕はきっぱりと言った。ニコラスはショックだったようで、僕を見る目が憐れみに変わった。
「お前、なんで人間じゃダメなんだよ。60年代じゃねえんだ。今じゃ同性なんか当たり前…」
「そうじゃない‼︎」
僕はマイクだから好きになったんだ。そう自信を持って言った。マイクの見た目、声、接し方が好きになったんだと。でもはたしてそうだろうか、そうふと思ってしまった。
僕が好きになったのは、理想を叶える機械だからじゃないだろうか。人間かどうかなんでどうでもいいなんて綺麗事じゃなくて、ただ便利だからじゃないのか。
「お前、訳わかんねえよ。なんで機械なんだよ。おままごとしてるようなもんじゃねえか」
「…僕みたいな拒絶されるようなやつには、絶対愛してくれる人が必要なんだよ」
僕はそう言った。それがきっと僕の本音だった。マイクの表情は特に変わった様子はなかったことが、少し寂しかった。
僕はニコラスを押し除けてマイクとタクシーに乗り込んだ。ニコラスは呆然としたまま僕の部屋の前にいたが、エンジン音に気がつくと急いで僕の方に走り出した。
「行ってください」
タクシー運転手にそう伝えると、僕はマイクの胸に顔を押し当てた。マイクは僕の頭を撫でると、優しく大丈夫ですよと言った。
隣の州にはアンドロイドに関する法例はないし、治安が悪い分ちゃちな窃盗に警察は関わる暇がない。「マイク、自由になれて嬉しいかい?」
僕はマイクの顔を見ずに聞いた。見るのが少し怖かった。マイクはふふっと笑うと、「もちろんです」と答えた。盲目になるべき場所で、なるべき姿になることを僕は選んだんだ。もう後戻りはできない。これから僕はこの僕を愛してくれるアンドロイドと過ごすんだ。永遠に。
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