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 少女は、しばらくの間我楽多街で過ごした。自分の本来の姿を取り戻した後、速やかに成仏させられるのであれば、それが一番良かったのだろう。  しかし壱原は、このまま少女を送り出すのがしのびなかった。三度の食事を与え、身だしなみを整えさせ、化粧を教え、髪の手入れの仕方を教えた。街を歩き、沢山の商品や人に触れ、沢山の美味しいものを食べた。  うつむき気味だった少女の顔は徐々に前を向くようになり、以前よりずっとよく笑うようになった。服や化粧品をねだることも増え、壱原はそれを買ってやる。金之助もしばしば彼女と戯れて遊び、しまいには彼女の座る膝の上で寝るまでに懐くようになった。  二週間も経つ頃には、少女はそばかす以外、初めて〈満月亭〉に来店した時同様に美しくなっていた。 「そばかす、嫌だな」  ぶうたれる少女に、壱原は微笑んで頭を撫でる。 「素敵ですよ。私は好きです」 「……じゃあ、いい」  小声で言った少女を、壱原は優しく抱き締めた。〈満月亭〉の店内は今日も雑然として、換気の窓から入る風が、天井から下がる様々な品を揺らせて涼やかな音を奏でている。  晴れやかな、旅立ちにはうってつけの午前の一日だった。 「餞別です」  壱原は言って、ポケットからバングルを取り出し、少女の腕に付ける。彼女は少しだけ困った顔をした。 「もう、払える願いなんて無い」 「これはただの贈り物ですよ。何の特別な力もありません……たまには、私のことを思い出してください」 「ううん。いつでも覚えてる」  答え、少女は自分の腕のバングルを見つめてから、朗らかに笑って壱原を見上げた。と、その顔が曇る。どうしたんですか、と壱原が問うと、少女は逆に尋ねた。 「……どうして、泣いてるんですか」  指摘されて初めて、壱原は自分が涙を流していることに気付く。完全な無意識だった。しかしそれを自覚した瞬間、彼女はその原因を理解し、胸が苦しくなる。 「わ、私は……」  息が詰まりそうになり、答えられなくなった。少女は気にせず、自分より年が上の壱原を、今度は彼女の方から、妹を慰めるように抱き締める。  言葉は無かった。それでよかった。しかし同時に、壱原の心の中に生まれる罪悪感は色を濃くする。  私は、貴女に感謝されるような人間じゃない。そんなに優しくしないでくれ、と。 「ありがとうございました」  少女は言って体を話し、ゆっくり壱原から体を離す。そうして振り返り、店のドアノブを引く。ドアベルも木板も、揺れているのに音を出さない。  ドアの先には、暗い階段がずっと下へ下へと伸びている。ドアと同じ高さと横幅の、石をくり抜いて作ったような通路だった。階段は、一定間隔で設けられたランタンの明かりに照らされながら、十メートルほど先から右へと螺旋状に歪曲している。 「さよなら」 「……さよなら」  お互いに震える声で最後の挨拶をして、少女は躊躇いがちに一歩、また一歩と階段へ足を踏み下ろしていく。腕に巻いたバングルが、ランタンの明かりを受けてオレンジに輝いた。  螺旋に階段が曲がる、本当の最後の瞬間。もう一度だけ少女は振り返り、微笑んで手を振った。壱原もそっと手を振り、そして……少女は、姿を消す。  ゆっくり、惜しむように壱原はドアを閉める。かちゃん、と音がした後にもう一度ドアを開くと、そこにはいつもの、我楽多街の商店通りの道が広がっていた。 「行ったか」 「うん」  丸テーブルの上に座る金之助と短く言葉を交わした後、壱原はその場に座り込み、膝を抱えて子供のように泣いた。  少女との別れが惜しかったわけではない。無事に送り届けられて、心底安心していた。  泣いたのは、怖かったからだ。この街に残りたいと彼女が決意した瞬間に、壱原は困惑し、恐怖したのである。  亡霊となった彼女を街に導いたのは、彼女の願いの為ではない。それは副次的な要素だった。  街に残ると決意するような人間だったからこそ、彼女は呼ばれたのだ。街ではなく、〈満月亭〉に。  あの子の魂を永久に〈満月亭〉へ幽閉することも出来た。それが、〈満月亭〉が私に与えたチャンスだった。  私が、現実世界へ帰る為の。  あの子を犠牲にすれば、自分は帰ることが出来ただろう。竜の遺伝子を体に刻んでしまった矛盾など、この街は、そして〈満月亭〉は、どうとでもしてしまう。壱原が模索していたのは、そのいずれの手段にも頼らず、誰の犠牲も出さずに現実世界へ戻る方法だった。その為に、努力をしてきたはずだったのに。  いざ『生贄』を目の前に出された時、壱原は激しく動揺した。  一人の魂を犠牲にすれば、自分はあの世界へ戻れた。身寄りが無くとも、友達が居なくとも、孤独でも……どれでも戻りたいと願っていたあの世界へ。  辛うじて踏みとどまれたのは、少女が自分に似ていたからだ。あの日、この〈満月亭〉にやってきた頃の自分に。  誰かを生贄にすることの罪悪感と恐怖が、壱原に一線を超えさせなかった。それで良かったのだと繰り返し自分に言い聞かせて、ようやく自制心を解放させることの出来たこの瞬間に、安堵の涙を流している。  私は、醜かった。あの子がその瞳に映す外見とは全く違う醜さが、自分の心にある。  それが、苦しくて仕方がなかった。  泣き続ける壱原の傍に、静かに金之助がやってくる。体を擦り寄せ、彼女の手に自分の頭を持っていき、撫でろと催促をする。涙を拭いて顔を上げ、壱原がその通りにしてやると、黒い雄猫はボソリと呟いた。 「俺は、お前がここに居てくれて良かったと思っているよ」  帰るなと言っているわけではない。残れと言っているわけでもない。ただ、傍に居てくれて良かったと、彼はそう言った。  それが余計に心を締め上げて、壱原はまた少し泣く。  店の時計が、開店時間を告げようとしていた。 (了)
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