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※前後編の内の前編となりますが、この前編単体のみでもお楽しみ頂けます。 後編は11月の文学フリマ東京の新刊に収録予定です。  我楽多街の一角に店の門戸を構える、〈満月亭〉は今日も客が入らない。時々、三月海月ランタンの燃料が切れたという客がやってきては、色々な燃料を買っていくばかりだ。  それでも、店主である壱原侑子は状況を憂うこと無く、今日も一日本を読む。長く伸びた髪を後ろに束ね、しかし右の眼を隠すように前髪を伸ばしているその髪型は本を読みずらくしているようなものであるが、本人はその前髪を払う素振りが全く無かった。カウンターの上では、飼い猫の金之助が丸くなって眠りこけている。  夏が過ぎ、秋口の涼やかな風がようやく入るようになった。店の窓を少しだけ開けて換気をすると、天井に吊るすガラス細工の魔除け、ステンドグラスアート、季節外れの風鈴、サンキャッチャーなどが心地の良い音を奏でる。  その他、〈満月亭〉の中は雑多な小物とそれを収納する棚で溢れており、十畳ほどの店内はまるで小さな迷路のようであった。  その迷路の中で、店内フロアの中心にだけ、ぽっかりと空間が開いている。丸テーブルに、向かい合うように椅子が二脚あり、その他に余計な装飾品は無い。店主である壱原が客人をもてなす時や〈満月亭〉への「来客」との対話時に使用されるだけのそれは、しかし店内の雑然とした雰囲気と対極にある単純化された空間であるが故に、何処か聖域のような印象を与えた。  ……そんな店の来客を告げるドアベルが、からん、と乾いた音を立てた。  読んでいた本から顔を上げ、壱原は店の入り口を見た。女子高生だ。セーラー服を綺麗に着こなし、手入れのされた腰まで伸びる黒髪を揺らせているが、学生鞄を持っておらず、手ぶらだった。呆然とした顔でウェルカムカーペットの上に立ち、自分が迷い込んだ店をキョロキョロと見回している。  そう、迷い込んだのだ。チリチリン、とドアベルを鳴らして来店する客は、皆そうである。いつの間にか見付けた店の門、店のドア。そのドアノブを押して入店し、彼ら彼女らは自分が求める「商品」を探しにやってくる……  少女の姿を見た時、壱原もまた驚いた。その姿は、髪を下ろした若い頃の自分にそっくりだったのだ。  だが、それは外見だけの話だ。それで性格や中身まで同じだと断ずるのは尚早だ。心の中に湧いた、或る一つの考えを早々に思考の隅へと追いやり、壱原は静かに声を掛けた。 「いらっしゃい」  突然の声に驚いたようで、少女は「えっ」と声を漏らし、壱原を見た。 「どうぞ、ごゆっくりご覧ください」  言うが、しかし少女は当惑して尻込みする。 「あの、ごめんなさい、間違えて入ってしまったみたいで」 「いいえ、この店に入ったということは、貴女に必要な物がここにあるということだから。見付かるまでゆっくりしていってください。今、お茶でも用意しますね」  言って、壱原は立ち上がる。百八十を超える長身に、再び少女は委縮してしまったらしい。あわわ、という動揺の声が聞こえそうな慌て方をして何度も頭を下げ、早口でまくし立てた。 「済みません済みません、お金も持ってないのでこれでお邪魔しますしました!」  言いながら向きを変え、彼女は自分の入ってきた店のドアノブを引き、外に出る……  カラカラカラ  鳴ったのはドアベルではなく、ドアベルと並んで吊るされていた木板の束の方だった。 「え?」  それは、彼女が〈満月亭〉の店主となってから初めての出来事だった。「外」から来た人が、我楽多街に出ることはまず有り得ないことだからだ。  過去に一度だけあったのは、壱原が店主となる前の……  壱原は店の奥へ向かおうとして振り返った姿勢のまま、しばらく固まっていた。呼吸が荒くなり、心臓の鼓動が急激に加速する。  まさか……遂に、来たのか。そういうことなのか。  汗を流し始めた壱原に向かって、声が掛けられる。カウンターの上で寝そべっていた黒猫からの声だ。 「おい、店主」  ぶっきらぼうな声。金之助はその黒い毛並みを湛えた尻尾をふりふりと揺らしながら、静かに壱原を見上げている。「追いかけろよ。呆けてる場合じゃないぜ」 「え、ええ……」  呼吸を整えて、心を落ち着け、壱原はゆっくりと店の出入り口へと向かう。深く息を吸い、吐き出して。  ドアノブに手を掛ける頃には、もう彼女はいつもの平静な態度を取り戻していた。  カラカラ、と乾いた木板の音が再び響く。店の前では女子高生が、来店した時同様に茫然と突っ立ち、周囲を見回していた。壱原はその後ろ姿を見守り、しばらく無言で立つ。  やがて、驚愕の表情を浮かべた少女はゆっくりと振り向き、壱原に問う。 「ここは……何処ですか?」  対し、壱原は冷静に答えた。 「我楽多街ですよ」  何処にでも存在し、同時に何処にも存在しない街。  人間のイマジネーションが作り出した、ミームのアーカイブ。
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