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〈満月亭〉が門戸を構える中央区は、街の計画地区として見ると、総合的な概念を扱う商店を中心に固めた区画になる。その為、様々な〈概念〉の溢れ出す影響もあって、計画地区として整備されたはずなのに都市としてのデザインは統一されていないという、奇妙な区画であった。
中世や近世を思わせる西洋の石造りの街並みが広がる区画があるかと思えば、数十メートル離れた隣のブロックでは現代日本の街並みに近いエリアが存在し、或るブロックでは香港の旧居住区のように、住居が密集して建造されたらしい巨大な住居施設が広がっていたりする。
「あの店は、軽食を売っています。お腹が空いているなら、奢りましょう」
少女を連れ立って街を歩く壱原は、ビルの一階を屋台のように改築した店を指さした。壱原のすぐ隣を引っ付くように、恐る恐るという様子で歩く少女は、「何を売ってるお店ですか……?」と尋ねた。
「夢屋の獏から仕入れた、色々な味を詰めたドーナツですよ」
「はあ……?」
「具体的な夢を抽出したものではなくて、楽しい夢を見た感情のエキスを生地に混ぜ込んでいるんです。大好きなペットと一日中遊んだ楽しい感情、感動的な映画を鑑賞して心が洗われた喜びの感情……ドーナツを食べると、注文した感情の質に合わせた感覚を味わえるんです。学生さんには、初恋が叶った時の味が人気ですね。休日は午前中に売り切れるとか」
言われても、怪訝で訝し気な顔をするばかりの少女は、「遠慮します」と小声で丁重に断るだけだ。
「喉が渇いたら、季節のドリンクとかもいいですよ」
「季節? 桜味、とか?」
「それもありますが、夏の海の香りがするサイダーとか、シンプルに冬の味のジュースもあるので、初めてならそれでも……あ、ほら来ました」
言うと同時に、通りの向こうからゆっくりと、可愛らしくデコレーションされたワゴンがやってきて広場前で停車した。てきぱきと店員が開店の準備をすると、どんどんと人の列が伸びていく。
だがそれについても少女は警戒を解ききれないようで、やはり「いいです」と断ってしまった。
……それから、少女は様々な店を案内された。
思い出の景色を「文字通り」切り抜いて保存してくれる店。水晶玉に閉じ込めた小さな宇宙の中から好きな星を抜き出してアクセサリーを作ってくれる店。銀河を閉じ込めた義眼を売る魔女の店。魔女の毒林檎から毒だけを抜いて調理した極上のアップルパイを出す店。
人外の存在も見た。突きたての餅を売る、人よりも大きな体躯をしたウサギ……月狂兎。時々街にやってきてはいつの間にか消えているマッチ売りの少女。後ろ足で立ち、スーツを着て氷を売っているシロクマ。街を覆い尽くさんばかりに空一杯に広がり泳ぐ夢鯨。条例により街の沿岸二十キロ以内で保護されている人魚達。
どれもこれも、「外」には決して存在しないものだった。しかし、それらは間違いなく人間の意識の産物で。
「……ここは一体、何なんですか?」
少女は茫然として、壱原に問い掛けた。
歩き疲れて流石に休憩がしたいと申し出た少女の要望に応え、近くの喫茶店に入った。石畳の通路で出来た西欧風の街並みで、二つ隣にある日本の田舎町のような牧歌的光景の広がる区画から景観の一変した視界に、少女はちょっとしたパニックになっているらしい。手元のメニュー表にも手を付けず、ただ困惑した顔で壱原を見ていた。
「簡単に言ってしまえば、概念のアーカイブです。街全体が、概念と記憶の保管倉庫になっています」
「一体……?」
「人類は、その膨大で無限に広がる想像力、そして創造力を際限無く活用し、文化や文明、思想、人格、歴史を作り上げてきました。イマジネーションはミーム(共通認識)として世界で共有され、具現化し、人々の記憶に刻まれています。例えば吸血鬼や狼男は人間の妄想の産物ですが、数多くの人間がこの怪物の定義を共通認識として意識することで、それは人類という歴史に或る種の真実として記録されます。伝承は時として形になり、ハッキリと私達の前に現れる……イマジネーションとは、そういう存在です。しかし、人類という広範囲で文化的ミームを共有する場合、その容量は莫大なものになります。地球は丸い、という単純な共通認識でさえ、それを常識として認識るう人間の数だけ、人類のイマジネーションという脳の容量は圧迫され、生産性は落ち、やがて衰退を迎える……それを回避する為に、我楽多街は生まれました。謂わば、『概念を保存する為の概念』です」
「概念……」
「はい。人というコミューンが定義する範囲は、地球の人間の総数と同義です。そこに存在する一人一人が自由に想像し、創造する……素晴らしいことですが、それがひとたび意識の上、つまり形而上的に生まれてしまうと、それは一つの意識概念として保存されなくてはいけません。このシステムを身近な存在に置き換えるとコンピューターが分かりやすいでしょう。データファイルは増えていくけれど、それを削除することは許されない。そうなるとドライブをデータが圧迫し、CPUも上手く機能しなくなる……人類という種の概念的死を迎えます。これを避ける為、概念を保存する新たな外付けメモリーディスクが必要になりました。クラウドデータと言ってもいいでしょう……それが、我楽多街です。人が創り上げた想像の全ては、人の脳と、そしてこの街に保存されます」
「街が、概念を保存する?」
「はい。人の想像力は、常識と科学に囚われません。だから、この街は矛盾さえも同居を許される、不完全で完全な世界である必要があります。喋る動物も、物理学を超越した現象も、過去も未来も、生者も……死人も、全てが同時に存在します。そして我楽多街は、概念が集積するこの形而上的世界に存在しますが、概念の全ての生みの親である通常人類の生きる形而下的世界にもアクセスが可能です。貴女は、それにアクセスしてやってきたんですよ」
一旦話を止め、壱原はコーヒーを、少女が紅茶を頼んだ。紅茶は何のオプションも無い普通のものだが、コーヒーは「秋風味」のシロップを追加で頼んでいる。
形而下の世界では味わえない味を楽しむのが醍醐味なのだけれど、と心中で残念に思うが、強要はしなかった。だが、こっそりと二人分を頼んでおくこととする。
それぞれ飲み物が運ばれ、デッキテラスの席に座る二人は静かに唇と喉を湿らせる。さて、と壱原は再び口を開いた。少女は、ずっと黙ったままだ。それでも、初めに比べれば大分落ち着きを取り戻している。
「この街は概念で溢れていますので、貨幣通貨の文化は勿論ありますが、それとは別に概念を対価として利用する業種もあります。ただし、これは貨幣としての対価を支払うというより、購入する概念のもたらす効果に対しての『代償』という方が近いでしょうね。〈概念〉がもたらす効果が大きいほど、当然代償も高くなります……私の店で扱っている商品は全て、この代償を支払う方式で営業しています」
大切なことだと意識させる為に、今までと違うゆっくりとした口調で丁寧に説明をした。少女も自然と背筋を伸ばし、いつの間にやら話に聞き入っている。
「まず一つに、〈満月亭〉には二種類のお客様がいらっしゃいます。一つは、この我楽多街に住んでいる方達です。小道具や、日常生活の補助に必要な特別な力を与えてくれる小物を買っていく方は、殆どがこちらです。そしてもう一つ……形而下世界から来るお客様です。貴女のように」
「でも、私、欲しいものなんて……」
否定しかけたところで、壱原がそれを遮った。
「何も望まない人は、〈満月亭〉の扉を認識出来ません。あの店は、そういうもの(傍点)なのです。何か、人生で大きな岐路にある人。或いは大切な何かの為に強く望むものがある人が、お客様として一生に一度だけあの店の門を潜れます。そして、その願いを叶える品を購入し、形而下の世界へとお帰りになるのです」
「……代償って、何ですか」
気のせいだろうか、若干震えたような声で少女は訊いた。壱原は静かに答える。
「過去未来現在を含む貴女の人生で、二番目に強い願いです」
「二番目……?」
「〈満月亭〉へお越しになるお客様は、人生を通じて最も強く叶えたい願いを胸に抱いた時にいらっしゃいます。そんなお客様から最も強い願いを奪ってしまっては、本末転倒です。ですから、二番目の願いを頂いています。対価として頂いた願いに関して、お客様はその願いを一生叶えることが出来なくなります」
カップに半分残ったコーヒーを飲み干して、壱原は真っ直ぐ少女を見据え、口を開く。
「貴女の願いは、何ですか」
しばしの沈黙。街を歩く人々の、賑やかな声。カフェから流れるクラシックの音楽。それらが辛うじて時間の流れを意識させてくれる存在であるかのように、二人は動かないままだった。
少女は、悩んでいた。苦しんでいるように見えた。しかしやがてその重い口が、ゆっくりと動く。
「……私を、この街に住まわせて欲しいです」
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