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3
少女は、虐待されて育った。
明確な暴力があったわけではない。体に残る傷があるわけではない。しかし母は高圧的に物を言い、自分の要求と全ての責任を少女本人へと押し付けた。
父親の顔は知らない。小学校に上がる前には、既に親というものは少女にとって、母親以外に存在しないものだった。十七で少女を産んだ母は、少女にとって唯一の家族だったのだ。
けれど母親にとって、娘は唯一ではなかった。母と、居なくなった父との間に何があったか、少女は知らない。けれど度々父のことが話題に上がる度、「あのクソ野郎」と口汚く忌々し気に罵っていたことを思うと、お互い碌な関係を築いてはいなかったのだろうと思う。幼児期の頃こそ育児に奮闘していたものの、保育園に子供を預けられるようになると、奪われた青春を謳歌するように男と遊び始めた。時には一夜限りの関係だったり、時には複数の男と並行してデートをしたり。いずれも、長く続かなかったが。
とにかく、母にとって娘は唯一ではなかった。保育所でも口数少なく、消極的な子供だった少女は、時として昼間から男と遊び、酔って自分を迎えに来る母との距離を感じては一層殻に閉じこもってしまう。
あのクソ野郎が、子供欲しいっていうから産んだのに。
家に迎えに来た七人目の男にそう愚痴を言っていたのを聞いてから、母に期待することを止めた。小学二年生の頃だった。
いつも古い、少し臭いのする服を着ていることをからかわれた。自分だけ給食費を払っていないことに、他の児童はおろか教員からさえも揶揄されたことが苦しかった。香り付きの消しゴムや可愛い柄の鉛筆を使う女子を傍目に、ずっとちびて薄汚れてしまった文房具を使った。
中学で早めに胸が大きくなりブラジャーが必要になったが、酒と煙草のヤニで汚れ始めた母は少女に嫉妬を矛先を向け、当たり散らし、下着を買わせなかった。必死にアルバイトをして、高校で初めてこっそりと安物のブラを買うまで、ずっとスポーツブラで我慢した。母と違い生理が重かったが理解されず、学校を休みたいと言えば学費泥棒と罵られ、腹を蹴られた。
臭いを、古さを、野暮ったさを揶揄われ、学校では誰も自分を気に掛けてなどくれない。優しい王子様なんて現れなかったのは、きっと彼らは萎れた雑草ではなく、綺麗な花ばかり探して愛でているからだ。栄養剤どころか水も与えられない雑草では、都合よく助けてくれる恋人も友達も、居るはずがなくて。大人に頼ろうにも、一番身近なはずの母親から否定され続けた少女が、教員を信頼など出来るはずもなく。
だから、逃げたいんです。
少女は、涙を滲ませた目でそう言った。
「だから、この街で生きたいんです。私にはもう、何処にも逃げる場所がありません」
少女は、すっかり冷めてしまった紅茶に二回目の口を付け、半分ほどを飲んで話を終えた。
秋の日は西に傾き、街の屋根の向こうへ沈もうとしている。伸びた影が街を覆い、子供達が家路に就き始めていた。店のデッキテラスに明かりが灯ってから、壱原はようやく、しかし残念そうに口を開く。
「ごめんなさい。貴女のその願いは叶えられない」
「お願いです。どんな仕事でも働いてみせます。どうか……」
「その歳で人生に絶望して、逃げ出したくなるくらいに苦しんで、悩んでいることにはとても同情します。けれど……貴女の本当の願いは、それじゃない」
奇妙なことを言う壱原を、少女は訝し気に見る。睨むような目で恨めし気に、怒気を孕んだ声で問う。
「どうして? 現実世界に逃げる場所はまだあるから? 何処に相談すればいいの、警察? 児相? 問題無く生きられてる時点で、誰も本気になんてしてくれなかった! もうやることは全部やったもん! 誰も助けてくれなかったもん! だから私は……私は……あれ……」
急激に言葉から熱が無くなり、少女は困惑し始めた。頭を抱え、必死に一点を集中して見つめる。だが、生まれた動揺は消えなかった。
壱原はゆっくり立ち上がり、優しく言葉を掛ける。
「店に戻りましょうか……もう一度そこで、お話ししましょう」
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