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店に「閉店」の看板を下げ、壱原は少女を店の中央、丸テーブルの椅子へ導いた。ハーブティーを淹れ、二人分のカップに入れたそれをソーサーに乗せ、自分と少女の前に置く。少女のソーサーには、先程のカフェから持ち帰った秋風味のガムシロップを乗せる。少女はカップに手を付けず、動揺を隠せないまま体を震わせていた。
そうして、ゆっくりと尋ねた。
「私は、どうして……どうやって、この店に来たんでしょうか。記憶が……記憶がありません」
対して壱原は、諭すように優しく、ゆっくりと話し始める。
「私は貴女の、『自分の家から逃げたい』という願いは叶えられないと言いました。それを可能にする道具が店に無いわけではありません。物理的にそれを譲れないわけでもありません……貴女はもうその願いを叶えています。だから私には、何をどうすることも出来ないんです。それは、貴女が一生に一度にすべき願いではありません」
「じゃあ私は、どうして、どうやってここに」
「貴女は二次性徴を迎えて尚、お母様に理解を得られない生き方を歩んでしまった。失礼ですが、そんな方の身だしなみや所作、外見が整っているだとか美しいと思われるだとか、そうしたことは有り得ないと思っています。しかし、私の前に居る貴女は美人で顔色もいい。とても、現在進行形で虐待を受けている方の容姿ではありません」
ギョッとした顔をして、少女は自分の頬に無意識に手を触れる。顔を青ざめさせて、低い声で言った。
「疑うんですか。私のことを」
「違います。制服を着ている貴女が何故学校鞄を持たないのか。何故容姿が変わっているのか。何故店のドアを出ても形而下世界ではなく形而上世界……この我楽多街にアクセス出来たのか。その答えを示す、貴女に必要な商品は……これです」
壱原は立ち上がり、近くの棚に置かれていた鏡を手に取る。手鏡よりも大きい卓上サイズのそれは、全身を映すことはないが、顔をはっきりと映すのには十分な大きさだった。「魔鏡というほどのものではありません。隠された真実を映すという大層な力もありません。これが見せるのは、本人の忘れている姿です。忘れてはならないものを映し、それで幸福を掴むための一品です」
鏡を手にして再び席に座る壱原に、少女はますます顔色を悪くさせた。
「お願いです、止めてください……」
「これは貴女にどうしても必要なものです。貴女が本当に必要としているのは、『安らげる場所へ向かうこと』。そして対価として頂く次に強い願いは、『我楽多街で生きること』……」
鏡を少女に向け、角度を調整し、壱原は鏡面を少女に見せた。止めて、と涙を流しながら懇願する少女は、しかしその場を動けず、顔を手で覆い隠すことも出来ない。まるで、何かの呪縛を受けて体の自由を奪われているかのように。
鏡面に移された虚像は、少女ではなかった。いや、そこには少女と同じセーラー服を身に着けた別の少女が居る。顔の造形は同じだが、髪艶は悪く乾燥し、濃いクマが目元に出来ている。肌も荒れ、そばかすもあった。顔色も悪く、およそ今壱原の目の前に座っている少女とそれが同一人物のものとは思えないほどに陰気で、死相さえも出ているようだ。
瞬間、目の前の少女の顔がドロリと崩れて溶け落ち、髪の毛が抜けていく。床にそれらが落ちては消滅し、溶けた皮膚と髪はほぼ同時に再生を始めた。浮腫が湧き上がるように悍ましく膨れたかと思うと縮小し、髪の毛は乾燥したそれへと見る見るうちに生え変わっていく。
数十秒も経った頃には、目の前の少女は鏡の中に映った虚像と同じ姿に変化していた。瑞々しい肌は枯葉のように乾燥し、ぷくりとしていた腕や足は棒切れのように細く、痛々しい。ああ、と悲痛な声を漏らし、少女は両手の中に顔を埋め、泣き始める。そんな少女に、慈悲を込めて壱原は言った。
「貴女は、もう亡くなっています。学校の五階から飛び降りて」
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