巡り会う宇宙、すれ違う二人

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 太陽系の外縁部にあるオールトの雲を超光速ロケットの船外バルコニーに出て特殊な宇宙線望遠鏡で観察していたラアイラ・ローズマリー・レヴィーアン准教授は、宇宙服の通信機から危険を知らせる緊急信号が鳴り響いているにもかかわらず、船内に退避しようとはしなかった。船外作業管理総執行責任者のクルーが彼女に無線連絡し、緊急事態の発生を伝える。 「先生、すぐに安全な船内に戻って下さい!」  ラアイラ・ローズマリー・レヴィーアン准教授は苛立たしさを隠さずに言った。 「今いいところなの! 緊急事態って何なのよ?」 「レーダーが流星雨を感知しました。この超光速ロケットは今から回避行動を取ります」 「ご勝手にどうぞ。あたしはここで観測を続けるから」 「それは危険です! 急加速で軌道を変更しますから、船外活動は禁止です。急いで船内に避難して下さい!」 「今が観測に絶好の機会なの! このチャンスを逃すわけにいかないって!」  それは無謀な企てだった。超光速ロケットがエンジンに出力を全開にして進路を変更したら、バルコニーの転落防止柵に固定した宇宙服のフックが吹き飛ぶ恐れがある。そうなったら大変だ。一つのフックだけでロケットに自分の体をつなぎ留めているラアイラ・ローズマリー・レヴィーアンは、バルコニーから宇宙へ放り出されるだろう。彼女は遥か後方へ置いてけぼりになる。そのまま星屑になって、自分が観測対象になるかもしれない。彼女は美人で均整の取れた体つきをしているのだが、不格好な宇宙服に包まれたまま宇宙を放浪することになるので、観測者は誰も彼女のスター性に気付かないことだろう。それは本当にもったいないことだ。  船外作業管理総執行責任者のクルーの近くでラアイラ・ローズマリー・レヴィーアンのイカれた通信を聞いていたボウネッド・モリンハイペオンは、そう考えた。次の瞬間には動き出している。彼は船外作業管理総執行責任者のクルーに「自分が彼女を船内に入れる」と伝えて宇宙服着用室へ入った。素早く宇宙服を着る。手間のかかる宇宙服の着用を三分以内で済ませ、エアロック室に閉じこもると、船外作業管理総執行責任者のクルーが発行したパスワードをアイリスバルブ開閉制御ディスプレイに打ち込んだ。エアロック室の空調から室内にある空気が抜かれていく。空気がゼロになったら船外に通じるアイリスバルブが開き始める。  船外作業管理総執行責任者のクルーが通信機を通して言った。 「天文学者の大先生を中へ連れ込むのが無理そうなら、諦めて戻って来い」  少しずつ開いていくアイリスバルブから外の様子を確認しつつ、ボウネッド・モリンハイペオンは言った。 「もしものときは、遭難時の脱出用ポッドを射出してくれないか。念のために」  脱出用ポッドは宇宙船が遭難した場合に備えて積み込まれている小型船である。最低限の居住環境が保たれているので、宇宙服だけで宇宙を彷徨うのに比べたら生存率は上昇する。微々たるものだが。  それよりは船内にいる方が生存率は遥かに高いので、船外作業管理総執行責任者のクルーは「それよりは早く戻れ」と言ったが、ラアイラ・ローズマリー・レヴィーアン准教授と同じくらいボウネッド・モリンハイペオンは強情だった。 「頼んだぞ、脱出用ポッドを出してくれよ! 流星雨の中でも、それなら助かる見込みがある!」  そう叫んでボウネッド・モリンハイペオンは船外に出た。その途端、通信機からの雑音が強くなった。流星雨が近づいているためだろう。彼はロケットの外壁に取り付けてある取っ手や梯子を使いながらラアイラ・ローズマリー・レヴィーアン准教授のいる船外バルコニーに向かった。  そこは太陽から遠く離れた宇宙空間である。バルコニーと名付けられ、転落を防ぐための手すりは用意されているが、宇宙空間では使うことのない設備だ。バルコニーの壁に背中を預け、宇宙服の靴の爪先を壁面の窪みにある横バーに引っかけ、腰のロープで転落防止柵と自らの体をつないだラアイラ・ローズマリー・レヴィーアン准教授は、自分の体に固定した巨大な筒を管楽器のように両手で抱えていた。その横に着いたボウネッド・モリンハイペオンは、通信機の非常用チャンネルを彼女の宇宙服の番号にセットした。これで相手は着信拒否ができなくなる。 「すみません、もう時間いっぱいです。船に戻りましょう」  ボウネッド・モリンハイペオンは努めて落ち着いた声を出した。相手はヒステリックな声で言った。 「観測の邪魔をしないで! あなたからの電波通信が妨害しているせいで、宇宙線望遠鏡の映像に乱れが生じているの! そこを退いて!」  駄目だこりゃ、とボウネッド・モリンハイペオンは思った。しかし説得を諦めない。 「宇宙の観測は、とても大切です。ですが命も大切です。このままですと、この宇宙ロケットは姿勢を変更できません。そして流星雨の中に突っ込んでしまいます。そうなったら、クルーも乗客も皆、危険にさらされます。最悪の場合、流星雨に船体を破壊されることでしょう。太陽系の外辺部で遭難です。救助信号を発信しても助けが来るまで日数がかかります。この冷たい宇宙に放り出された人間が生き延びられる可能性は、ほんのわずかです」 「だ~か~ら~さっき言ったでしょ! どうぞご勝手にって! あたしに構わず、さっさと移動してってば!」 「そうも言ってられないのです。この船が姿勢を変えたら、あなたは宇宙に放り出されるかもしれません」  高速で接近する流星雨からの衝撃波の第一波が、その時に来た。ボウネッド・モリンハイペオンはロケットの外壁に宇宙服の磁性体吸着盤を素早く取り付け体を固定した。ラアイラ・ローズマリー・レヴィーアン准教授の体は衝撃波を浴びてグラッと傾いた。ロケットの壁面の窪みに入れていた宇宙服の靴の爪先が外れる。両手で抱えていた宇宙線望遠鏡の表面に青白い電光が走った。自らの体が反転したにもかかわらず、その高価な観測機材の持ち主は異常を見逃さなかった。 「やばい! データが飛んだかも!」  だから、言わんこっちゃない……とボウネッド・モリンハイペオンは嘆息した。その視界の端に脱出用ポッドの姿が映る。丸い胴体から六脚の太い足が生えた脱出用ポッドは低重力反発装置を利用して超光速ロケットの外表面を緩やかな速度で進んできた。バルコニーの手前で停車する。自動制御でバルコニーの手すりが降りていく。  ボウネッド・モリンハイペオンは慌ててラアイラ・ローズマリー・レヴィーアン准教授の宇宙服と落下防止柵を結ぶロープのフックを柵の手すりから外した。そして彼女の宇宙服を空いた方の手で抑える。  脱出用ポッドの緊急用出入口が開いた。ボウネッド・モリンハイペオンはラアイラ・ローズマリー・レヴィーアン准教授を脱出用ポッドの中へ放り込んだ。自分も後に続く。緊急用出入口が閉じるのと時を同じくして、急激な加速を感じた。超光速ロケットが進路を変更するための急加速を開始したのだ。脱出ポッドの内部は重力制御装置の働きで人間が潰れるような強力な加速度が著しく低減されるけれども、それにしても強い重力加速度は避けられない。血管が圧迫され全身の血流が低下する。二人は一瞬で意識を失った。  宇宙服の生命維持機能が働き、意識を回復するまでの間に、ラアイラ・ローズマリー・レヴィーアン准教授は夢を見た。  それは彼女が行ったことのない世界の夢だった。彼女が経験したことのない体験の物語であり、そんな夢をどうして見たのか、考えても理由が分からなかった。  § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § §   こんばんわ。あるいは、こにゃにゃちは。失礼します、進行役のアンドロギュノス・サイコモリタサイコウ・アンドロギュヌスです。今から読者の皆様を世にも奇怪で人によっては不快な気分になる三つの物語の世界へご案内します。言うまでもありませんが、すべてが妄想の中の出来事、現実とは一切の関わりがございませんので、悪しからず。 ・一度は将棋をやめた俺が、アマとして竜王戦に参加。かつてライバルと呼ばれた竜王に、きっと挑戦してみせる!  アマチュア竜王戦で優勝し竜王ランキング戦のトーナメントを勝ち上がった俺は遂に、かつてライバルと呼ばれた竜王に挑戦する機会を得た。一度は将棋との縁を切った人間が最高峰の七番勝負を迎えるのは奇跡だと皆が言った。だが、この程度なら本当の奇跡ではない。無敵の竜王を倒してこそ、奇跡が完成する。そして、そのときは間もなくだ!  そんなことを考えながら対局前にトイレで用を足していたら、竜王が入ってきた。俺の姿を見て、物凄く驚いた。まあ、そうだろう。ここに書くのは何なので書けないが、俺は勝負の前には興奮して、大変な状態になる。普通のスタイルでは駄目なのだ。大抵の男は、悲鳴を上げて逃げ出す。清純な女の子かよ! と嘆かわしくなる。  だが、竜王は違った。目を爛々と輝かせ、俺を凝視している。いつもと違い、こっちの方が落ち着かなくなった。とはいえ、途中では止められない。実に困った。  無言で壁を見つめ続ける俺に、竜王が尋ねてきた。 「それは、もしかして、将棋の神の仕業か?」 「は?」 「だから、その、そこの……それだよ?」 「何を言っているんだ?」 「ええい、まどろっこしい!」  竜王はズボンの前を開けた。見たくないが俺は見てしまった。そして驚愕した。俺と同じような物体が、そこにあった。俺は口から泡を飛ばして言った。 「男で女だと? 俺と同じだ! こんな持ち物を隠している人間が、俺以外にもいたのか!」  俺が漏らした言葉を聞いて竜王は頷いた。 「将棋の神に祈ったんだ。無敵の竜王になりたいと。そうしたら夢枕に将棋の駒の着ぐるみを着た性別不詳の人間が立った。自分は将棋の神だと名乗り、願いをかなえてやると言った。目覚めたら、こうだ。そして、そのときから自分は常勝無敗の将棋指しとなった」  俺も似たようなものだ、と伝えてから、こう言い添えた。 「将棋の駒の着ぐるみを着た将棋の神は、こう言った。お前は、もうすぐ最高の相手と巡り会う。その相手と、差しつ差されつの関係になる、と」  将棋の神を自称する何者かは、竜王にも同じようなことを言ったそうだ。 「将棋の神は予言した。お前たち二人は最高の関係になる。勝負の相手として、そして愛し合う恋人同士として、と」  俺は笑った。 「愛し合うなんて考えられない。だって、そうだろ? 俺たちは、これから戦うんだぞ」  竜王は目を潤ませて言った。 「対局まで、まだ時間がある。一勝負なら、できる」  頬を染めた竜王を見て、俺は苦笑いを浮かべた。これが俺たちの運命なのだと分かったのだ。 「オーケー、分かったよ。でも一勝負だけなのは物足りない。差しつ差されつでいこう。それで構わないだろ? なあ、いいだろ?」  顔を赤らめて竜王は同意し、俺の長い用足しが終わるのを待った。 ・当たると評判の占いで、私の運命の相手は大嫌いなあいつだと言われた。それ以来、変に意識してしまい……?  もう我慢できない!  変に意識しすぎて平常心を失ってしまった私は、大嫌いなあいつに告白しただけならまだしも、自分の秘密を見せてしまった。 「私、こんな体なんだけど、でも、好きなの!」  変態だと思われてしまうけど、それでも知ってもらいたかった。  だって、隠していても、いつか絶対にバレるもの。  それなら今、見せてしまおう。  嫌われてしまうかもしれないけれど、嘘はつきたくない。  でも私、自分の直感と恋の運命を信じてる。  当たると評判の占いでも、言っていた。運命の相手は、この人以外にはありえない。相性抜群で最高のカップルなのだと!  あいつは私の体を見ても、思ったほど驚かなかった。 「最初に見たときから、こうなるって分かっていた気がする。似た者同士だから反発しあっていたけど、同じような人間だって感じてた。うん、今それが確信に変わったよ」  あいつも自分の秘密を見せてくれた。私と同じ体だった。  占いは当たった。最高のふたりだという予言は、間違っていなかった。同じ体の秘密を共有する私たちは、もう絶対に離れられない。ふたりは、ずっと一緒。死がふたりを分かつ、その日まで。 ・村長宅に双子が産まれ、一人は忌み子として捨てられた。数十年後、村長となった青年の元に、同じ顔の男が現れ……。 「驚かないのか、自分の双子だと名乗る男が突然お前の前に現れたというのに!」  村長となった青年は首を横に振った。 「自分と同じ顔というだけなら取り合わなかっただろう。だが、その下半身を見れば一目瞭然だ」  捨てられた双子の片割れが言った。 「そうか、お前も同じだったのか」 「そうだ」  青年村長の肯定を聞き、その双子の青年は呟いた。 「数十年前、忌み子として捨てられた理由は、これだと思っていた。だが、実際は違った。それならば、どうして自分は捨てられたのだろう?」  最初に出るか後に出るか。二人の運命を分けたものは、それだけだった……と青年村長は訊かれもしないのに答えた。  話を聞き終えた元捨て子青年が礼を言った。 「ありがとう。これで長年の恨みと疑問が融けた。それじゃあな」 「ま、待ってくれ」  青年村長が呼び止める。 「ここに残ってくれないか。いや、勿論、こんなことを言えた義理じゃないのは分かっているが、でも残って欲しいんだ」  振り返った元捨て子は無言で青年村長を見つめた。その視線に射すくめられたかのように、青年村長は俯き加減で言った。 「こんな体だろ? 一人じゃ心細かったんだ。仲間が欲しいんだよ。同じ体の兄弟がいてくれるなら、安心できる」  元捨て子は何も言わずに青年村長を見つめ続けた。その視線に耐えられず、青年村長はすっかり俯いて言った。 「きっと僕たちは最高のふたりになれる。そう、最高のふたりに!」  元捨て子青年は首を横に振った。 「傷を舐め合うのは好きじゃない。こういう自分を受け入れてくれる人を探す旅に出るよ」  青年村長は驚いて顔を上げた。 「そんな! 一緒にいよう! 生まれ故郷で、同じ体の兄弟同士、仲良く暮らそうよ!」  哀願する青年村長に背を向けて、元捨て子青年は言った。 「自分は独りで生きてきた。独りで死ぬと決めていた。だけど、生まれ故郷に来て生き別れの兄と会って、気が変わった。愛する人を、愛してくれる人を見つける。本当の幸せを見つけ出す。それが次の目標だ。それが生きる望みだ。兄貴も、自分にとって最高の相手を見つけてくれ。そしていつの日か、ここで会おう。共に最高のふたりとなって、再会しよう……兄さん、その日まで、おさらばだ」  立ち去る弟を青年村長は掛ける言葉もなく見送るだけだった。 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・  進行役のアンドロギュノス・サイコモリタサイコウ・アンドロギュヌスです。いかがだったでしょうか? え、ふざけんなって? こんなの強制非公開だって? まま、そうおっしゃらず。これも多様性です。そして妄想なのです。こういう夢物語をお好みの方も、いらっしゃるのです。  えええ、講談社の女性コミック9誌合同マンガ原作賞には相応しくない、そうおっしゃられるのですか?  それは困りましたねえ……。  でもですよ、こんな風にも書かれているのですよ。  ↓ ・女性向け現代恋愛ストーリー 色気のある男性キャラ、共感できるリアルな心情の主人公、色気のある関係性が描かれている、現代恋愛ストーリーを募集します。刺激的な描写のある作品でもOK。BL作品でも問題ありません。  ↑  どうでしょうか?  見て下さいませ。  色気のある男性キャラ、オーケー。  共感できるリアルな心情の主人公、しっかり登場している。  色気のある関係性が描かれている、これも問題なしです。  女性向け現代恋愛ストーリーとして、必要かつ十分な条件を満たしていると私アンドロギュノス・サイコモリタサイコウ・アンドロギュヌスは確信するわけですよ。  そもそも、この物語のお題が、最高のふたりであったことを忘れてはいけません。  そうです、実は、この話のお題は最高のふたりだったのですよ。  そのことだけを考えませんか? 他のことは何もかも忘れましょう。最高のふたり……それは私たちのことです。そう思いませんか? そうに決まっています。さあ、気分を出しましょう、素敵な気分を。  嗚呼、本当に素敵な晩ですよね。ご覧下さい、月が綺麗ですよ。  今のご気分はいかがです? 私の気分は、今夜は最高! です。    ×   ×   ×   ×   ×   ×   ×   ×   ×     目覚めたときボウネッド・モリンハイペオンは最悪の気分だった。激しい重力加速度で脳への血液供給量が低下し失神した彼は、酷い頭痛と吐き気を感じていた。眩暈にも悩まされた。超光速飛行は人体に有害だ。居住環境が整った恒星間宇宙船の中から耐えられるが、緊急脱出用ポッドのような小型宇宙船だと超光速への加速が体へモロに来る。  とはいえ宇宙空間に宇宙服だけで取り残されたときに超光速でロケットが軌道変更をしていた場合を考えたら、それよりも現状はずっとマシだと思われた。このポッドの中に入っていなかったら今頃は遥か後方の宇宙で漂っているか、流星雨によって全身をズタズタに切り裂かれていただろう。  考えただけで冷や汗が出てくる。ボウネッド・モリンハイペオンはタバコを吸いたくなった。しかし宇宙服を着ているので吸えない。ヘルメットだけでも外してみるかな? と考える。だが与圧された宇宙服を着ているから、この程度の体調不良で済んでいるのであって、外してしまったら何がどうなるか分かったものではない。  救助ポッドの自動制御システムが最低限の船内生命維持活動を保てる程度にまで省力化されているのは、少々ショックだった。ロケットの外壁にへばりついたまま、動けなくなっているのだ。中からは動かせそうになかった。母船である超光速ロケットからならば、何とか動かせるかもしれない。しかし今のところ通信が途絶しており、望み薄だった。  苛々が酷くなったボウネッド・モリンハイペオンは、すべての元凶であるラアイラ・ローズマリー・レヴィーアン准教授を睨み付けた。彼女は寝ているようだった。ヘルメットの鼻の部分がわずかに白く曇り、その面積が微妙に広くなったり狭くなったりしていて、呼吸が止まっていないことが分かった。寝顔は可愛らしかった。乗客名簿に記された年齢は二十代だったが、十代の高校生だと言い張れば通用するかもしれない、と彼は思った。好みの顔だった。  ボウネッド・モリンハイペオンがアイラ・ローズマリー・レヴィーアン准教授を目に留めたのは、ロケットの特等船客用キャビンの撞球室でだった。華やかなドレスを着ている彼女に見惚れた。彼女は奇麗なだけの女ではなかった。ミスカトゥニック民族流通大学理学部天文学科准教授の肩書があり、地球からアンドロメダ銀河まで学会出張に行く途中だった。  アイラ・ローズマリー・レヴィーアンと、親しくなりたいとボウネッド・モリンハイペオンは願った。だが、そのチャンスはなかった。特等船客用キャビンにはいたものの、彼は特等船客ではなかった。本業は賭博師で、勝負に敗れてばかりの人生を送り、故郷の惑星を追われ、地球に来て、ここでもしくじり、逃げるように超光速ロケットに飛び乗ったけれど、旅費の持ち合わせはない。そこで、雇用船客という待遇で乗船を許してもらった。ただで働く代わりに乗船を認めてもらうのである。食事が出るので良かった。さらに、一日一回タバコも支給されるという好待遇だった。  しかし、そんな境遇に、いつまでも甘んじているつもりはない。いつかは大きな山を掘り当てる。そう心に決めている。  そういう風なことを考えるな、もっと堅実に生きろ! と自分を叱る父親の声が耳の中で木霊したような感じがして、ボウネッド・モリンハイペオンは体をビクッと震わせた。自分が少し寝入っていたことに気付く。彼は脱出用ポッドの窓から宇宙を見た。流星雨の故郷オールトの雲が、まだ広がっていた。  あれだけ急加速したのだから、オールトの雲をとっくに通り過ぎたと思ったのに……と考えつつ、彼は唇を舐めた。巨大な灰色の星雲を見て、彼は故郷の南氷洋で見た黒い雲を思い出していた。  § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § §   <巻頭のご挨拶>  皆さま、いかがお過ごしでしょうか。  こちら南半球は冬が次第に深まってまいりました。  氷点下となる日が増えてきましたが職員一同、寒さに負けず頑張っております。  先日は南氷洋からの暴風雪が吹き荒れる中、標高千メートルの高原に設置された中継基地局の大型パラボラ・アンテナを交換してきました。それ以外にも、南十字星の方角から伝播するマイクロ波の増幅調整器に狂いはないか、確認する検査を実行しました。機械の内部を調べるためには点検用の扉を開けなければなりませんが、その扉が凍り付いて開かないので、ハンマーで叩いて氷を割るところから作業が始まります。精密機器に強い衝撃を与えていけないとマニュアルには書かれていますが、それではやっていけません。私や現地法人の職員は厳寒の中で汗だくになって氷雪をガンガン叩いています。  日本の本社から研修のためにやって来た新入社員のボウネッド・エヌリンハイペオン君も張り切って仕事をしています。車で雪原を移動中に雪でタイヤがスタックし立ち往生してしまったときは、車輪の下の雪をスコップで掻き出してくれました。大雪でのトラブルに慣れた様子です。雪道の運転も上手いものです。それでは北国の生まれなのかというと、そうではありません。エヌ君は異世界の惑星出身です。その世界は、雪ではなく空から湿った綿毛のような物質が降って来るそうで、それが家の前や道路に積もると邪魔になるためスコップで退けるのですが、それがちょうど除雪の要領に似ているのです、と教えてくれました。  世界は広いと思いますが、異世界も様々あって面白いですね。  そんな異世界について、もっと知りたいな……とお考えの方々のために、私たち異世界コミュニケーションズ株式会社は別世界との交信業務に励んで参りましたが、この度アナザーカントリー交流交信協会と合併し新会社のパラレルワールド放送通信ネットワーク株式会社を設立する運びとなりましたので、謹んでご報告申し上げます。  新体制になっての新企画第一弾として、今までお楽しみいただいていた連載記事「素敵なドキュメンタリー七十二時間・世界の職人」のタイトルを「素敵なドキュメンタリー七十二時間・異世界の職人」に変更し、さらにグローバルな視点でお送り致します。  私たちは、これからも異世界の様々な情報をお届けします。変わらぬご愛顧の程を、何卒宜しくお願い申し上げます。  パラレルワールド放送通信ネットワーク株式会社チーフマネージャー、××××× ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇ ・工事現場の事故で亡くなった大工が異世界転生。一国の城を作る一大事業の指揮をとることに!?  大工の棟梁、ワムイドーレ・ディキダンフェニソン(四十八歳、男性)氏を乗せたボートは、雨季で増水し茶色く濁った川をゆっくりと進んで行く。舳先に座る彼の背後に、オールを持つ男たちの姿があった。川の流れはほとんどないので、力いっぱいオールを漕ぐ必要はない。だが、男たちは汗だくだ。何もしていなくても汗がダラダラ流れて止まらない。ボートはジャングルの中を流れる小さな川を航行していた。樹木が密生する熱帯雨林は風の通りが悪い。それでも、森の中ならともかく川の上なら涼やかな風が吹いているだろうと取材スタッフは期待していたが、大きな勘違いだった。誰もが汗みどろである。誰もが暑さでへばっていた……いや、ワムイドーレ・ディキダンフェニソン氏は、それほどではない。その表情には疲労の色はなかった。手にした地図を見て、磁石で方位を確かめる目は、生き生きと輝いている。その頭上を鮮やかな体色をした熱帯の鳥たちが飛び交う。周囲のジャングルから虫や獣の鳴き声が聞こえてくる。非常に賑やかだ。一方、ボートの上は誰もが無言である。  いや、違った。 「地図に書かれた合流部に着いた。ここで川が二手に分かれている。進路を右へ。右側へ進むんだ」  ワムイドーレ・ディキダンフェニソン氏の指示に従い、ボートに同乗する男たちはオールを漕いでボートを右に進めた。  川は入り組んだ水路になっていた。その後もワムイドーレ・ディキダンフェニソン氏は磁石と地図を何度も眺め、ボートの現在位置を確認しながら、川の合流部に差し掛かると左右のどちらに進むのか、指示を出した。  それが何回繰り返されたのだろうか? やがてボートは目的地へ到着した。取材スタッフの目の前に石造りの建造物が忽然と姿を現す。見るからに古そうな建物だった。その表面はジャングルの木々に覆い隠されており、全体像がつかめないが、とても大きな建築物だと推測された。  船上の人々は建物の入り口を探した。しかし、なかなか見つからない。  ワムイドーレ・ディキダンフェニソン氏の助手、ジャンブール・ゴンクノイルーク青年(二十二歳、男性)は取材スタッフに言った。 「入り口は水面下に水没しているかもしれない。今は雨期だから、川の水かさが増しているんだ。乾季だったら、すぐに見つかったかなあ。う~ん、でも、乾季が来るまで待っていられないからね」  工事の納期があるので、とジャンブール・ゴンクノイルーク青年は説明する。 「父さんたちは、どうだったかなあ」  ジャンブール・ゴンクノイルーク青年の父も、以前この場所を訪れたことがあるそうだ。そのときは乾季だったので、建物の前面に砂浜が広がっており、そこにボートを上陸させることができた。だが、建物の入り口を見つけるのが一苦労だったらしい。大きな葉や蔓が閉じられた扉を遮っていたので、入り口を発見するまで一昼夜を要したとのことだ。 「あれから何十年も経っているから、扉の中に入るために切り取った植物は再生したと思う。扉の前の邪魔な植物を退かすのも面倒だったって父から聞いている」  そう言うジャンブール・ゴンクノイルーク青年のセリフの直後に、進入口は発見された。石造りの壁に足を乗せるための凹凸の切り込みが彫られているのが見つかり、その上に入り口らしい窪みがあった。  割と簡単に見つかったね、とジャンブール・ゴンクノイルーク青年は笑った。彼の父は、その父親つまりジャンブール・ゴンクノイルーク青年の祖父と二人だけで、この建造物を訪れた。それに対し、今回は大人数である。探す人数が多いと捜索も楽だ、と言いながら彼は革鎧と革製の兜を身に着けた。ワムイドーレ・ディキダンフェニソン氏も同じ防具を装着した。他のボートの乗員は金属製の鎧と鉄兜で防御を固めた。兵隊である彼らは武器も持った。飛び道具の弓矢そして槍と盾それから腰のベルトに長剣を吊るし、準備完了である。  取材スタッフも持参した防具を着る。触り心地はしなやかで柔かいが強靭な人工の皮革を衝撃を吸収する金属素材のメッシュで裏打ちしたボディースーツである。着た感じは悪くないけれど、通気性が悪く、熱帯地方にはまったくそぐわない。  だからといって、着ないという選択肢はない。この建物の内部には恐ろしい魔物が巣くっているとの噂だ。そこへ入るためには準備が絶対に必要なのだ。武具も防具もなしに入るのは自殺行為といって構わないだろう。  一行を指揮する大工の棟梁、ワムイドーレ・ディキダンフェニソン氏は、わずかな傾斜のある石の壁を、そこに彫られた梯子状の凹凸に足を掛けて昇り始めた。二番手はジャンブール・ゴンクノイルーク青年……かと思ったら、違った。彼は完全装備の兵隊に先を譲った。二番目に昇ることを余儀なくされた兵隊は、何やらブツブツといったが、その表情は頬当てに隠れて見えない。その後を他の兵隊が続く。  結局ジャンブール・ゴンクノイルーク青年は、最後尾の取材スタッフの前を登った。  壁の凹凸の段々を登ったところにある窪みは、取材スタッフの中で一番背の低い女性の背丈より少し高いぐらいで、大柄な兵隊たちは体を小さくしないと通れない入り口だった。先行していたワムイドーレ・ディキダンフェニソン氏が松明に火を点け奥へ進む通路を照らす。中がここより狭ければ、兵隊たちにとって難儀な行軍となることだろう。しかし幸いなことに狭苦しいのは出入り口付近だけのようだった。一行は前進した。 「ここはダルジャン・ダルジの貴族たちの墓所だ」  ジャンブール・ゴンクノイルーク青年は説明する。 「ダルジャン・ダルジの貴族たちは恐ろしい魔術の使い手だった。敵対勢力から強力な呪いを掛けられたせいで衰退し、とうとう滅亡してしまったけど、ダルジャン・ダルジの貴族たちの魔力は、今もこの墓所の中に残っている。どう? 何か、感じられるかい?」  取材スタッフ全員が魔力も霊感も持ち合わせていないため、難しいことは分からない。だが感覚的に、ここが薄気味悪く危険なところだというのは分かる。取材スタッフの一人は腕に鳥肌が出て、それが数時間消えなかった。  やがて一行は大きな空間に出た。大広間のような部屋だった。そこに入るとジャンブール・ゴンクノイルーク青年は、両手を脇に下ろし体を上下動させながら足で四角くステップを踏んだ。踊っているのではない。彼の信じる宗教の一般的な悪霊払いの儀式である。  ワムイドーレ・ディキダンフェニソン氏は兵隊たちに言った。 「ここが墓所の地上エリア最深部だ。下へ降りるには生贄の血が必要だ」  傍らに立つ兵隊に松明を渡すと、彼はベルトのポーチから銀製の小瓶を取り出した。何度も振ってから、瓶の蓋の木材の小片を取る。そして小瓶の口を自分の鼻先に近づけた。その臭いを嗅いでから、彼は聞き取れぬ言葉で何事かを言った。  ジャンブール・ゴンクノイルーク青年が取材スタッフの女性の耳元で囁いた。 「あれは古い言語なんだ。ダルジャン・ダルジの貴族たちが繫栄していた時代の共通語だ。神聖な言葉で魔力があるとされている。でも今は使われていない。とても文法が難解なんだよ。だけど、実は僕は使えるんだ。簡単に魔法が使えるから、本当に便利だよ。君に教えてあげてもいいよ、特別に。だから、宿に戻ったら僕の部屋へおいで。朝までにはマスターしていると思うよ。難しくなんかないって。僕が優しく、ゆっくり教えてあげるからさあ」  ワムイドーレ・ディキダンフェニソン氏は小瓶に蓋をするとポーチに戻した。それから取材スタッフに説明する。 「今回は墓所の地下にまで行く必要はない。だから生贄の血は要らない。今の小瓶には嗅ぐ薬が入っている。私は呼吸器が弱い。ここは空気が悪いので、呼吸困難にならないよう、予防的に薬を吸入しただけだ」  それからワムイドーレ・ディキダンフェニソン氏は前方を指差した。兵隊たちが持った松明が壁面の浮彫を照らし出す。壁には人間にも獣にも見える怪物たちが彫刻されていた。 「あれがダルジャン・ダルジの貴族たちだ。浮彫の中に封印されている古代貴族らの魂と今、話を付けた。彼らの菩提を弔う祭りを盛大に執り行うことを条件に、浮彫から飛び出して我々に襲い掛かるのは止めてもらった。そして築城予定の城の一角に彼らを祭る社を建てるという約束で、我々の要求を受け入れてくれた」  ジャンブール・ゴンクノイルーク青年が口を挟む。 「僕の祖父と父も同じようにダルジャン・ダルジの貴族たちと取引したんだ。貴族たちの魔力で、異世界から優れた大工の棟梁を招き、巨大な王城を建設した」  ジャンブール・ゴンクノイルーク青年の父と祖父は日本の安土桃山時代の大工で織田信長の安土城を手掛けた岡部(おかべ)又右衛門(またえもん)の召喚に成功したという。本能寺の変で織田信長と共に亡くなったと伝えられる岡部又右衛門は、転移してきた異世界でもその優秀な手腕を発揮し、幾多の名城を建築した。彼は先頃亡くなったが、その名声は燦然と光り輝いている。  さて、新しく即位した王は先代の王に負けない異世界風の城郭を作りたいと願ったが、岡部又右衛門は既にこの世を去り、その協力者だったジャンブール・ゴンクノイルーク青年の祖父も亡くなっていて、その息子つまりジャンブール・ゴンクノイルーク青年の父は大病をした直後で療養中、ジャンブール・ゴンクノイルーク青年は若すぎて頼りにならないという状況に頭を抱えた。代わりに当代一の名工とされる大工の棟梁、ワムイドーレ・ディキダンフェニソン氏に白羽の矢を立てたが、依頼を受けた人物は当惑した。異世界風の城郭を造れ、ただし岡部又右衛門の真似はするな、と命じられたのだ。職人としては優秀、しかし芸術家としての才能に欠けると自覚しているワムイドーレ・ディキダンフェニソン氏は、異世界風の建築物を設計・施工できる人物を異世界から招き、その指示で働きたいと新国王に願い出た。国王はその申し出を許し、かつてジャンブール・ゴンクノイルーク青年の祖父と父がやったのと同じ方法つまり、ダルジャン・ダルジの貴族たちの力を借りて異世界から大工を召喚するよう促したのである。  国王は護衛の兵隊まで用意してくれた。その旅に同行したのがジャンブール・ゴンクノイルーク青年と、パラレルワールド放送通信ネットワーク株式会社が現地で採用した取材スタッフである。  それら一行が見ている前で、ダルジャン・ダルジの貴族たちは魔力を発揮した。即ち異世界から腕利きの大工を転生させたのである。  浮彫の壁面の前に突然、異国風の衣装を着た男が現れた。日本人の目からすれば白装束である。額に三角の布まで付けているから、元の世界では死んで火葬を待っていたのだろう。  男はキョロキョロと周囲を見回した。自分がどこにいるのか分からず、混乱しているようだ。  ワムイドーレ・ディキダンフェニソン氏はダルジャン・ダルジの貴族たちが用いた古の共通語で白装束の男に話しかけた。魔力を持つ言葉なので、その言葉を使うと話が通じない外国人とも会話が可能なのだ。相手に事情を説明する。向こうは了解したようだ。  異世界から来た白装束の男は、工事現場の事故で亡くなった大工だった。一国の城を作る一大事業の指揮を依頼され、彼は大層戸惑った。自分が死んだことを受け入れられぬ人間に仕事を頼んでも受け入れられるわけがない。だが、ワムイドーレ・ディキダンフェニソン氏は粘り強く交渉した。元の世界に生き返らせることはできかねる、しかし現世を充実したものにする手助けはできる。そう言われて異世界から来た白装束の大工は心を決めた。ここで立派な仕事をすると決意したのである。  異世界から来た白装束の大工とワムイドーレ・ディキダンフェニソン氏そして助手のジャンブール・ゴンクノイルーク青年の三人は熱帯雨林のジャングルから王都へ戻ると、新国王が待ち望んでいる新城の建設に着手した。  今も建設中である。 ・×・×・×・×・×・×・×・×・×・×・×・×・×・×・×・×・×・×・×・×  <若手社員からのご挨拶>  いつも大変お世話になっております。  今回は若手社員を代表して私ボウネッド・エヌリンハイペオンが巻頭言を書かせていただきます。  ここに文章を書くのは今回が初めてですが、実は以前に登場したことがあるのです。  当社のチーフマネージャーである、×××××の書いた文章の中に、私が登場しているのです。  当時の私は異世界から来た直後で、やっと新人研修を終えたばかりでした。いうなれば、右も左も分からない状態で送り出されたのが冬の南半球でした。あの頃の私は、この世界のことをよく分かっていない子供みたいなものでした。当然、会社のことも仕事のことも、よく分かっていません。研修はしましたけど、分かったようで分かっていないというのが実情です(新人研修を担当した先輩には秘密でお願いします)。そんな状態で、猛吹雪の真っ只中で仕事をしていました。あのときは死ぬ思いでした。会社を辞めようと思いました。故郷の異世界へ戻ろうと考えました。  でも、辞めなくて良かったです(笑い)。  あのとき相談に乗って下さった×××××さんには、本当に感謝しています。  我が息子モリンハイペオンのためにも、辞めなくて良かったです。  あの冬の南半球で生まれた息子は、もうすぐピカピカの小学一年生になります。  さて、今回の特集記事は「素敵なドキュメンタリー七十二時間・異世界の職人」です。  私が前回登場したときも、このシリーズの記事でした。  それでは、どうぞお読みください。 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇ ・下町の小さな飴細工店。そこの飴細工を食べると、不思議な体験が出来るという噂があって――。  噂のお店へ突撃! というわけで取材班は向かいましたよ、下町の小さな飴細工店に。国電の駅を降りて、しばらく歩くンです。結構な距離を歩きました。バスの停留所を、五つか六つぐらい通り過ぎましたよ。これならバスの方が良かったと思いましたね。後で店の人に訊いたら、遠くから来るお客さンは大抵、駅からバスを利用して来るンですって! ぎゃふンですわ~。それならそうと、早く言ってよ!!  ンまあ、それはさておき、噂の飴細工店にたどり着きましたよ。店構えは、こじンまりとしていて、最初は気付かなくて前を通り過ぎました(笑い)。だって、看板とか案内板とか、目立つようなものが何もないンですもの。迷いに迷って、そこらへンで立ち話をしているエプロン姿のおばちゃん方に道を訊いたら、すぐ横でしたわ~。  カラカラカラと引き戸を開けて「ごめンください~」と挨拶しますと、白い作業着姿の中高年の男性が現れました。この店のご主人ですか? とお尋ねしますと雇われ店員ですとのお返事。ここの飴細工を食べると、不思議な体験が出来ると伺いましてやって来ました、と伝えます。そうしましたら店員さンは「ここには長く勤めているけど、そんな話を聞いたのは初めてだ」と仰られます。はて、それは変ですね? と首を傾げておりましたら、店の奥から赤い服を着た若い娘さンが出て来ました。 「私は、その話を聞いたことがあります。ですが、皆が皆、同じように不思議な体験が出来るわけではないようです」  その娘さンはそう言うと、ショーケースの飴細工を手で示しました。 「お試しになったらいかがです?」  色とりどりで奇麗な、繊細な芸術品がショーケースに並ンでいます。食べるのがもったいない可愛らしさです。  でも、試さないわけにはいきませン! 「それじゃ、これとこれを下さい」 「あ、これは展示用のプラスチックです。今から本物を作ります」  そう言って娘さンは店の奥へ引き返しました。男性の店員さんに「今の方はどなたです?」とお尋ねしますと、ここのご主人とのこと。ンまあマア、ずいぶンとお若いンですね! と驚きますと、実年齢は八十近いと聞いて、本当に驚かされました。 「失礼ですけど、こちらのご主人様は、本当に人間なンですか?」  初老と言ってもいいくらいの男性店員は「分かりませン」と答えます。  それから、こう付け加えました。 「ずっと昔、まだ若い頃に、オーナーは異世界へ行って、そこで飴細工の修行をしてきたと聞きました。そして飴細工の立派な職人となって戻って来たのですけど――」 「戻って来たンですけど……ええと、それが何なンです?」 「いえねえ、戻って来たのが元の本人だったとは限らないのかな、と思っておりまして」  そのときオーナーの若い女性が奥から出て来ました。両手に飴細工があります。色鮮やかで奇麗な南国の鳥と、日本の小さな猿の飴細工です。二つを受け取り、金を支払いました。 「ここで食べるのなら、お茶をお出ししますよ」  男性店員はそう言って下さいましたが、私は「次の取材場所へ移動しないといけないので」と断りました。  取材のお礼を言い店を出て駅の方へテクテク歩きます。両手に持った飴細工、どうしようかと思いながら。それら二つの飴細工を今もまだ食べていなくて、冷蔵庫の中に入れたままにしてあります。不思議な体験をしたい方がいらっしゃいましたら、プレゼントします……というわけにもいかないよなあ。どうしよ(笑い)。 ・×・×・×・×・×・×・×・×・×・×・×・×・×・×・×・×・×・×・×・×  <中堅社員からのご挨拶>  平素より大変お世話になっております。  毎度おなじみ、担当のボウネッド・エヌリンハイペオンでございます。  こうして巻頭言を書くようになって、だいぶ経ちます。  ここの担当になったときは毎回毎回何を書けばいいのやら! と大いに悩んだものですが、どうにかなるものですね(笑い)。  おかげさまで弊社の業績は順調、こんな私にも部下ができました。  先日は新人の部下たちと行ってきました、出張に。行く先は南半球です。新入社員の頃を思い出します。南極の方から吹いてくる冷たい風が吹きっさらしの高台で凍ったパラボラアンテナや通信機器の点検をやりました。氷漬け人間になりそうでした。これが社会の洗礼か! と思いました。でも、今の時代の新人は、あの洗礼を受けていないんですよ。高級な人工知能を搭載したアンドロイドが、人間の代わりに危険な点検作業やアンテナの交換をしてくれるのです。  便利な時代になりました。  ですが、職人さんの丁寧な手作業が消え去ることはありえません。  今日の放送は「素敵なドキュメンタリー七十二時間・異世界の職人」です。  異世界の職人さんの見事な技をお楽しみ下さい。 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇ ・手違いで寂れた鍛冶工房に弟子入りしてしまった!けど怠け者のだらしない師匠は、実は伝説の鍛冶師で!?  凄まじい切れ味の刀槍を作る伝説の鍛冶師だったのは昔のことで、今は怠け者のだらしない師匠……いや、今はもう師匠でも何でもない。  手違いで寂れた鍛冶工房に弟子入りしてしまった少年は、そう言って取材を拒否した。  少年が憤る気持ちは分かる、と取材したスタッフは言った。元伝説の鍛冶師は、少年が弟子入りした頃は既に工房へ姿を見せることが稀になっていた。仕事は命じられたままに動く木偶人形がやっていた。それで十分だった。長く続いた内乱の時代は終わり、凄まじい切れ味の刀槍は役割を終えた。これからは復興の時代である。食糧生産を高めるための農具や住宅の建材となる木材を切り出す斧や鋸の大量生産が大切なのだ。名人がトンテンカンカンして作った高級品より素人同然の木偶人形が作った製品の方が安くで喜ばれる。そうなると、労働意欲が湧いてこないだろう。伝説の鍛冶師としては面白くないが、かといって平和な時代が悪いとは思えないし、戦争の昔に戻りたいとも思わない。  職人の時代は終わった。そういうことなのかもしれない。 ・×・×・×・×・×・×・×・×・×・×・×・×・×・×・×・×・×・×・×・×  <生成系人工知能からのご挨拶>  前の担当のボウネッド・エヌリンハイペオンに代わって巻頭コラムを書きようになって、かなりになります。  今のボウネッド・エヌリンハイペオンの肩書はチーフマネージャー、偉くなったものですよね。お子さんも大学にご入学なさいました。おめでとうございます。  その一方で、悲しいお知らせがございます。数代前のチーフマネージャーで、もう退職なさっている×××××さんの訃報が先日弊社に届きました。  お若い頃はデスクワークから得意先回り、飛び込み営業そして機材の点検修理まで何でもこなす有能な方だった、と聞いております。  晩年は、弊社の嘱託社員として、名物連載「素敵なドキュメンタリー七十二時間・異世界の職人」の取材を担当なさっていました。  今回は、その最後の記事です。  ×××××さん、どうぞ安らかにお眠り下さい。 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇ ・手違いで寂れた鍛冶工房に弟子入りしてしまった!けど怠け者のだらしない師匠は、実は伝説の鍛冶師で!? の続き  凄まじい切れ味の刀槍を作る伝説の鍛冶師は、再び工房に出るようになっていた。鋤や鍬といった農具や鑿や鋸といった工具であっても、切れ味が鋭いに越したことはない。木偶人形が作った大量生産品では満足できない顧客が少なからずいて、伝説の鍛冶師の復活を熱望したのだ。ある意味、アンコールで登場しているようなものなのかもしれない。それでも、怠け者のだらしない師匠だった頃の面影はない。良く働いている。勤勉で尊敬に値する人物だと誰もが思うだろう。  それでは、弟子の少年は、どう思っているのか?  本人に聞いてみようと探したけれど、鍛冶工房に彼の姿はない。  どこへ行ったのか? もしかしたら、鍛冶工房を辞めてしまったのだろうか?  そう思い、師匠の男に聞いてみると、意外な返事が返ってきた。  弟子の少年は、師匠である伝説の鍛冶師が金のために大量に作った駄作の刀槍をへし折る旅に出ているのだという。 「どうしてまた、そんなことを?」  その質問に伝説の鍛冶師が答える。 「戦争の頃は忙しかった。たくさん注文が来た。それを全部こなそうとすると、寝る暇もないくらい大変だった。必死になって働いたので、名刀・名槍を残すことができた。だが逆に、そういう状態だったから、駄作もいっぱい作った。実際は、駄作の方が多い。勿論、そんなのでも斬れる。斬れるには斬れるが、満足いく出来かと問われたら、それには到底及ばない。率直に言って恥ずかしい。この世に残しておきたくない仕上がりの品ばかりだ。そういった物の中でも特に激ヤバな出来の刀槍をリストアップして、あの弟子に渡した。これら全部をへし折ってこい、と言って送り出した」 「どうしてまた、そんなことを?」 「それ、さっきも言ったぞ。まあいい。名声に関する大事なことを教えておこう。伝説の鍛冶師だと、自分が死んでからも俺は言われたいんだ。永遠の伝説を作りたいんだよ。そのためには、駄作の処分が必要なんだ。それから、突然だけど伝えておくことがあるから聞け。いいか、俺は結婚することになった。消防士や警察官、海上保安官など、専門の職種に就いている「職業男子」とのラブストーリーを求める女性が集まる婚活パーティーで相手を見つけたのだ。なかなか良い相手と巡り会えず、残念な交際を続けてきたけれど、そういった苦い経験があったからこそ、最良のパートナーを見つけ出したと考えている」  それは弟子の少年にも当てはまる。結婚相手を探す件ではない。駄目な人間を見ておくことも重要なのだ、ということだ。  男の説明によれば「師匠の優れた完成品を見るだけでなく、失敗作も見ておけ、それも修行のうちだ」という理屈だった。それで少年は納得し、旅に出たのだという。  そういうものかもしれない、と思いつつ、疑問が湧いてくる。 「そんな面倒なこと、する必要がありますか?」  ある、と即答された――それでも、私には無意味に感じられた。  だが、そういったつまらない拘りがあるからこそ、伝説の鍛冶師と呼ばれる資格があるのだ、とも思う。素人には分からない職人の拘り。それがあるからこそ、職人は世間から尊ばれるのだろう。    ×   ×   ×   ×   ×   ×   ×   ×   ×     ラアイラ・ローズマリー・レヴィーアン准教授は自分の向かい側で寝ている宇宙服の男をしげしげと眺めた。宇宙線の乗組員のようだが、何者なのかは分からない。どうやら自分は、この人間に救われたようである。それは分かった。そして、この狭い救助船というか救助用宇宙ボートみたいな乗り物の中からしばらく出られそうもないことも、薄々ではあるが理解できた。  そうだとすると自分は、この正体不明の男と、もうしばらく狭い船内で一緒の時間を過ごすことになる……と考えたラアイラ・ローズマリー・レヴィーアン准教授は、落ち着かなくなった。宇宙服には、様々な生理的な要求に対応できる機能がついているのだけれども、目の前に人がいる状況でやるというのは、勘弁してもらいたいのだ。  超光速で移動中のロケットから船外で出ていくのは自殺行為らしいので、外での排泄行為は不可能。それならば今、この男が寝ているらしき状態でやるのがベストでは? とラアイラ・ローズマリー・レヴィーアン准教授は考えた。さりとて、その気がないのに出すのは、これまた難しい。  余計なことを考えるのは止そう、と心を決めた。観測したデータの処理でもやろうか、と考える。だが、先ほど見た青白い電光が気になる。十分な準備をしてから処理を始めないと、取り返しのつかない事態が起こりそうだった。  窓の外を見る。一つの星もない深宇宙があるだけだった。  買っては見たけど読んでいない電子図書でも読んで時間を潰すか、とラアイラ・ローズマリー・レヴィーアン准教授は思った。宇宙服のコンピューターに入れておいたデータを口頭で呼び出して、ヘルメットの内部表面に文字を浮き上がらせる。  § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § §  滑らかな太腿の内側に禍々しい毒サソリの入れ墨がある悪役令嬢ダリアン・ド・ブラックに心から尊敬の眼で見られたいと願い、御典医たちの反対を押し切って瑞々しい純白の裸身の至る所に章魚と三葉虫と百足と暴君竜の悪趣味な刺青を入れた嵐の童貞王ムグウデスネルテスは創部から感染を起こして高熱を発し意識不明となり、遂には危篤状態に陥った。太陰太陽暦の八月、新暦だと九月の出来事である。  幸いなことに嵐の童貞王ムグウデスネルテスは死の淵から蘇ったが、後遺症のせいで政務を執ることはできなくなった。朝廷の暗部で次期国王選出へ向けた策謀が動き出す。もはやムグウデスネルテスは死に体、レームダックだった。しかし、そんな状況にもかかわらず、国王ムグウデスネルテスは満ち足りた日々を送っていた。溺愛している悪役令嬢ダリアン・ド・ブラックが国王の見舞いに毎日訪れるようになったためである。前世はレディースの女番長だった悪役令嬢は、ヤンキー女は情が深いという謎の学説を証明するかのように国王に尽くした。かくして国王は、廷臣たちが自らの地位を脅かし始めていることに気付くことなく、元ヤンで現悪役令嬢、否、現在は聖女に生まれ変わった優しい乙女との愛を成就させた。  そして今宵、嵐の童貞王ムグウデスネルテスと悪役令嬢ダリアン・ド・ブラックの婚礼が執り行われる――と書いたところで、ファッション雑誌の編集者イシャーナ・アヴァン・デリシコシシィはキーボードを叩く指を止めた。眼鏡を外す。疲れた目をマッサージして、ため息を吐く。濃い紅茶を啜る。とっくに冷たくなっていた。新しく淹れ直そうかと考え、やめた。一息に飲み干す。両手を組んで挙げ、背筋を伸ばす。椅子に座ったままできる他のストレッチを連続して行う。  体操をしながらイシャーナ・アヴァン・デリシコシシィは、この続きをどう書こうかと、考えていた。  悪役令嬢ダリアン・ド・ブラックは改心し、真の聖女となったのか?  否、断じて、否。  ダリアン・ド・ブラックは、実は嵐の童貞王ムグウデスネルテスを愛していない。王妃となり、政治の実権を握ることが彼女の狙いなのだ。  それにダリアン・ド・ブラックには秘密の愛人がいる。  嵐の童貞王ムグウデスネルテスの野心的な弟で、炎汁の冷血王子と呼ばれる残酷な皇太子クーンルイルナムである。  炎汁の冷血王子クーンルイルナムと元ヤン悪役令嬢ダリアン・ド・ブラックは、嵐の童貞王ムグウデスネルテスを退位させ、自分たちが最高権力者になる野望を抱いていた。  この婚礼でダリアン・ド・ブラックが王妃になれば、計画は一歩前進する。次は現国王であるムグウデスネルテスの排除だ。そして皇太子のクーンルイルナムが即位となる。  しかし、事はそう簡単には行かないことが予想された。  ダリアン・ド・ブラックの敵は多い。たとえば王宮の女官たちである。彼女らは成り上がり者の悪役令嬢を憎悪していた。王妃になることで、それが殺意にグレードアップするかもしれなかった。  残忍で冷酷な皇太子クーンルイルナムにも周囲は厳しい眼を向けている。王宮の廷臣たちは、もっと温厚で自分たちの言いなりになる国王の擁立を目論み、水面下で動いている。時と場合によっては武力で炎汁の冷血王子を王都から追放することも辞さないだろう。  それらの動きをダリアン・ド・ブラックとクーンルイルナムは知っている。やられるわけにはいかない。やられる前にやらねばならない。だが、どうやって?  この物語の作者であるイシャーナ・アヴァン・デリシコシシィは、この部分のプロットで悩んでいた。ダリアン・ド・ブラックとクーンルイルナムの立場で悪謀を考えているのだが、良いアイデアが湧いてこない。逆に、二人の敵の側に立って悪謀を練ることもあるのだが、これもなかなか難しい。  気分転換にイシャーナ・アヴァン・デリシコシシィはケン玉を始めた。やり始めると集中するタイプなので、時間を忘れて熱中した。気付くと一時間が経過していた。やばい、と彼女は思った。早く寝ないと、明日の仕事に差し支える。  寝ようと思って支度を始めたが、イシャーナ・アヴァン・デリシコシシィは、またパソコンの前に座ってしまった。もう少し書き進めてから寝ようと考え直したのだ。睡眠時間が減ると、仕事の能率が低下することは分かっている。それでも書いてしまうのだ。  だが、良いアイデアが浮かんでこないのにパソコンの前に座っていても、時間の無駄だった。イシャーナ・アヴァン・デリシコシシィは、苦い笑みを浮かべた。自分の人生を削って、架空の物語の登場人物の人生を創造するなんて、無意味ではないか、と思った。そんなの、生成系AIにでも任せておけばいいのである。人は寝なければならない。それが生き物なのだ。悲しいことだが。残念な話だが。  そんなこんな、埒もないことを考えていたイシャーナ・アヴァン・デリシコシシィの視界の端に光るものが映った。パソコンの画面の端にあるマークが点滅していた。親しい友人からのSNSその他の着信通知だった。 「誰からだろ?」  一人暮らしの長い人間の癖なのか、独り言を呟きながら連絡マークをクリックする。 [クーンルイルナムだ。お前に会いたい。]  表示されたメッセージを見て、イシャーナ・アヴァン・デリシコシシィは目を疑った。クーンルイルナムは、彼女が考えた架空の人物である。それなのに、実在の人物であるかのように、連絡が来た。彼女には意味が分からなかった。  続いて同じ連絡マークが明滅した。クリックする。 [会うのが無理でも話をしたい。話すだけでいい]  自作の物語の登場人物のセリフを声優が読むサービスがある、とイシャーナ・アヴァン・デリシコシシィは何かで知った。そのサービスを利用したことはない。その営業の連絡だろうか、と彼女は考えた。  だが、この小説は自分だけが楽しむためのものなので、小説投稿サイトなどに公開はしていない。その登場人物の名前なんか、知る人は誰もいないのである。  それでは、何なのか?  また通知の連絡マークが灯った。クリックする。 [話ができなくてもいい。俺の話を聞いて欲しい。聞いてくれるだけいいんだ]  そう言われても、困る……と思ったところでイシャーナ・アヴァン・デリシコシシィはやっと、ゾッとした。何これ、気持ち悪い! と思った彼女は、発作的にパソコンのモニターのスイッチを押して画面を消した。そして寝床へ向かう。一目散といった感じだ。ベッドに飛び込み、電気を消そうとして、止めた。怖かったからだ。暗くないと眠れないタイプなのだが、天井の照明を点けたままで寝ることにした。布団をかぶって、オヤスミナサイだ。 △▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△  巣鴨にある東京拘置所の夜は冷える。支給される毛布は薄く、敷布団も湿気を帯びて冷たい。その夜、俺は一睡もできなかった。これからどうなるのか、不安だった。でも、心配だったのは自分のことだけじゃない。  お前のことが心配だったんだ。  きっと、ここで俺は死ぬ。その覚悟はできている。  だが、残されたお前は、どうなる?  来世で会おうと言って別れたが、本当にまた会えるのか?  これっきりになってしまうんじゃないのか?  そう思ったら、泣けてきたね。悲しかったさ、ホントに。  あの夜は、忘れられない。絶対に……といっても、今まで忘れていたんだけどね。  すまん。自分語りに夢中で、自己紹介を忘れていた。  俺の名はクーンルイルナム。メンギニイ王国の王子だ。人は俺を炎汁の冷血王子と呼ぶ。センスのない呼び名だと呆れる。だが、それはあいつらが悪いのではない。その通り名を考えたのは、あいつらではなく、お前だからだ。  どうしてお前は、炎汁の冷血王子なんてノーセンスなネーミングを思い付いたんだ? 俺に何か恨みでもあるのか?  いや、あったんだろうな。だから、転生した俺に変なあだ名をつけたんだろう。  でも、言っておく。俺はお前を愛していた。思い出したんだ。前世の記憶が蘇ったんだよ。  お前も思い出してくれよ。前世の記憶を蘇られてくれ。 ※◆※◆※◆※◆※◆※◆※◆※◆※◆※◆※◆※◆※◆※◆※◆※◆※◆※◆※  イシャーナ・アヴァン・デリシコシシィは目覚めた。少ししか寝た気がしなかった。枕元の目覚まし時計を見て確認する。寝床に入ってから十分くらいしか経っていなかった。  布団をかぶって、またオヤスミナサイだ。 △▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△  惑星スアリオウバァンの星間宇宙船工業は、お手軽価格で購入できる軽クラスの宇宙船舶からゴージャスさが売りの大型ヨットまで五十二種類の外宇宙航行機を製造・販売していたが、近年は製造するタイプを絞り、販売も別会社にする等の改革を行っているけれども、まだ経営不安は拭えずにいる。  その原因が、女社長のアルーサルコ・ヴィーが恋人の経営する会社との取引で不当な便宜を図ったとか何とかいう容疑で起訴されたからなんだけど、それが問題だった。  その問題を引き起こしたのは、お前だ。  女社長のアルーサルコ・ヴィーは、前世のお前なんだよ。  そして、アルーサルコ・ヴィーの恋人というのが、俺だ。  俺は、メンギニイ王国の王子クーンルイルナムだ。  この時代の俺の名は分からなかった。思い出せないんだ。  でも、とにかく、これだけは言える。  お前との腐れ縁は、絶対にある。  巣鴨の東京拘置所にぶち込まれたのは、お前に関係ない話だが、この時に俺が逮捕された原因の半分はお前にある。  俺は別に要らないって言った。普通に取引してりゃいいって、言ったよ。  それなのにお前は、色を付けて金を払った。会社の金だ。それが不当な利益供与とみなされ、逮捕された。俺もパクられた。  裁判では、俺が主犯の扱いになっていて、泣けた。  俺の方が重罪で、送り込まれたよ、収容所惑星に。  いつも太陽が傾いていて、寒い星だった。斜陽惑星って皆で言ってた覚えがある。  お前は刑が軽くて、割とすぐに釈放されたって、後から聞いた。  理不尽だと思ったよ、美人は徳だと思った。  そして俺は、収容所惑星から逃げ出すためにロケットを奪おうとして、看守に射殺された。  思い出すと、切なくなった。悲惨な話だね。 ※◆※◆※◆※◆※◆※◆※◆※◆※◆※◆※◆※◆※◆※◆※◆※◆※◆※◆※  イシャーナ・アヴァン・デリシコシシィは目覚めた。メンギニイ王国の王子クーンルイルナムの一人語りがうるさく、寝ていられなかった。彼女は天井の明かりを消した。明るすぎて眠れないのだと思ったためだ。  今度こそ寝る。布団をかぶって、またまたオヤスミナサイだ。 △▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△ 「ルイ、煙草をちょうだい」  俺は一本渡して自分も火を点けた。ミス・リューマアムは煙草を吸い、マーティニを飲んで、それから表通りを進むトラックのコンテナに描かれた人物を見るよう俺を目で促した。 「あの女、見覚えがあるけど、誰だったかしら?」  窓越しに見た女と同じ女が表紙の雑誌をラックから見つけ、俺はミス・リューマアムに渡した。彼女は、それほど興味がなさそうに雑誌の表紙を眺めた。 「売れっ子の小説家なのね。でも、トラックに顔が描かれるほど美人じゃないと思うけど」 「新作小説の宣伝じゃないかな」  ミス・リューマアムは俺に雑誌を返して言った。 「私たちの話で儲けたんだから、少しぐらいは還元してくれたっていいと思うんだけど」  ミス・リューマアムこと元ヤンの悪役令嬢ダリアン・ド・ブラックは、自分を主役に据えて小説を書いたイシャーナ・アヴァン・デリシコシシィを快く思ってはいない。俺たちを題材にした作品がヒットしたのだから、何割か寄越せと常々言っている。  その気持ちは分からなくもない。逃亡資金はあればあるほどいいからだ。  ダリアン・ド・ブラックと残忍で冷酷な炎汁の冷血王子クーンルイルナムつまり俺のカップルによるメンギニイ王国の王位簒奪計画は失敗に終わった。俺たち二人は国外へ逃亡した。ファッション雑誌の編集者だったイシャーナ・アヴァン・デリシコシシィは、事件の一部始終を書いて出版した。これが当たった。一躍有名人である。  一方、俺たちは逃亡者としてひっそり暮らしている。偽名を使って異国の都会の安ホテルに宿泊し、そこのバーでヤケ酒を飲む毎日だ。  俺はダリアン・ド・ブラックは嫌いじゃない。だけど、こうして毎日顔を合わせていると、ちょっと合わない部分だって出てくる。  そんな時、お前に会いたくなる。美人の大作家イシャーナ・アヴァン・デリシコシシィ先生に。 ※◆※◆※◆※◆※◆※◆※◆※◆※◆※◆※◆※◆※◆※◆※◆※◆※◆※◆※  美人の大作家イシャーナ・アヴァン・デリシコシシィ先生は目を覚ました。喉が渇いたので酒を飲むことにした。マティーニを飲みたかったけれど、ないので500mlの缶ビールを開けた。  グビグビ飲んで寝る。今度こそオヤスミナサイだ。 △▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△  毎晩毎夜シェヘラザーデの話を聞いているけど、王は飽きないのかな? と王に仕える宦官の俺は思ったものだった。だけど、王は飽きずにシェヘラザーデの話を聞き続けた。それは千と一夜に及んだ。常に王に侍るのが役目の俺も、その間ずっと話を聞いていた。  千と二夜目が来た。王は、こんなことを言いだした。 「いつも聞いてばかりなので、今夜は逆に、自分が話をしたい」  シェヘラザーデは同意して頷いた。嫌です、とは言えないわな。  それで話が始まったんだけど、こんな感じだったんで、まあ聞いてくれ。 「んーとねえ、ん~んと、う~んと、ふう! では始めるぞ。昔、都に美しい建物があった。それは物事の本質を見極め、特に物の形状についての綿密な分析的鑑識眼をもった建築家が注意に注意を重ねて設計したものだった。ある方角から建物を見れば端正、しかし別の方向から眺めれば人工的な創造物とは思えぬ歪みがあり、別の一面には華麗な装飾があっても他の角度から見上げれば野趣、実に自然そのままの姿の石材で、訪れた者を驚かせ、時に不可解な感じを与える、しかし総合的には美学の水準で他と比べることのできない神域に到達している。そんな印象を受ける建築物だった。これと同じものを挙げるとすると夏の離宮の近くにある先々代の王がこよなく愛した庭園、あれが思い浮かぶ。小さな木々の連なりでしかない緑の園が、心地好い湿り気を漂わせる泉の周りの色とりどりの花の列のおかげで、えもいわれぬ空間に思えてくる、あれだ、あれに近い感覚だ。散策路の両側に並べられた拳大の石。あれも計算のうちだ。丁寧に並べられたとは思えぬ乱雑さ、それが最初に受ける印象なのだ。しかし、その傍らを歩くにつれ、わかってくる。見えてくるのだ。自然と道の境界が、かくも風流な姿で存在する、これは奇跡だと、見えてくる。石の切れ目の感覚が、また素晴らしい。これまたありえないほどの構成力で、野生の草花が生えている。それらの雑草も、実は雑草ではない。創造主が造ったものに無意味なものがないように、庭園の設計者は吟味した雑草の種を蒔き、育てたのだ。朝早く、朝もやの中を歩いて、草花を見るとき等に特に感じる。素敵だと。これは王の牧場の土を見たときにも思う。そして思い出が蘇る。幼い頃の自分の姿が見えてくる。草場に足を踏み入れ、捕らえようとした虫に逃げられた幼い頃の自分に声を掛けたくなる。だが、それは幻。牧場の横にそびえていた大きな柳が見えてくるけれど、それも幼少時の思い出の中だけに現れる幻影。柳の近くに小川が流れていた。その小川の流れに沿って進むと、魔法の力に依るかのように美しい谷間が見えてくる。それは、まったくだしぬけに、ふと気を抜いた弾みに姿を現す。谷間の奥に山が見える。その山の稜線を眺めていると、飽きない。黄昏時には、薄い青と紫が混ざり合った色に染められる。朝は強い光で眩く、目の奥が痛むほどだ。あの色を再現しようとすると、ガラス工房へ行かねば見られないだろう。焼けたガラスの色よ、美酒を注ぐ器にしては暑すぎる。その光の粒は、作り手の眼を焼くという。不思議なものだ。乱反射する光の束が、川面を揺らすのもきれいだと思う。秋の弱い光が、特に良い。冬だと弱すぎる。そして寒すぎるのだ。観察するのは。この観察眼。これが何をするにも基礎になると、学者はいう。それは芸術においても同じだろう。ほんのわずかな差違に気付ける者が優れた美術批評家になり得るのだ」  こんな調子の話が延々と続いた。俺は眠くなった。ふと気づくと、シェヘラザーデが船を漕いでいた。見事な鼻提灯までぶら下げてね。俺は驚き、かつ焦った。王は気がついていない――気がつくようなら、もっと気の利いた話をしているだろう――けれど、気がついたら大事だ。お怒りになって、万が一のことがあれば……いや、万が一ではないな。機嫌を損ねてしまったら即、処刑だ。俺はシェヘラザーデが処刑されるところを見たくなかった。俺は彼女を愛していたからね。起こしてやりたい。かといって、王に気付かれずには起こせない。困った……と頭を悩ましていたら、腸の調子がおかしくなった。ぷ~と、屁が出た。大きな音で、長く続いた。頭の不調で、腹に来たわけだ。脳腸相関というやつかな、知らんけど。その屁に気づいた王は話を中断した。そして屁をした俺に激怒した。その結果、俺は処刑されたのさ。屁で殺されるんだから、宮仕えなんてするもんじゃあないね。でも、まあ、シェヘラザーデが殺されるよりは良い。お前は覚えていないかもしれないが、シェヘラザーデはお前の前世の一人だ。輪廻転生を何度も繰り返しているから、もう覚えていないかもしれないけれども、俺はいつだって鮮明に思い出せる。お前のことなら、何だって忘れない。あの夜の鼻提灯は、本当に見事な造形美だったよ。 ※◆※◆※◆※◆※◆※◆※◆※◆※◆※◆※◆※◆※◆※◆※◆※◆※◆※◆※  前世で立派な鼻提灯を膨らませたイシャーナ・アヴァン・デリシコシシィは、トイレに行くついでに台所で水を飲んで、また寝た。オヤスミナサイ。 △▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△  二人で猟をしたことがあったよな。お前が猟師で、俺が猟犬だった。南の斜面の山道を並んで歩く。「そろそろ戻るか」とお前は言った。半日をかけて山に仕掛けた罠を調べて回ったが、どれにも何も掛かっていなかった。こんな日もある、とお前は笑ったけど、疲れた様子だった。  ま、疲れるわなあ。俺は当時、九歳だった。年寄りと言われ始める年齢だ。お前の年も大体、そんなくらいだった。昔と比べて、山歩きはきつくなってくるだろうから。  山道には岩がゴロゴロ転がっていて、その日陰の部分には汚れた雪がまだ残っていた。初夏だというのに。里ならありえない話だ。その残雪に、お前は獣の足跡を見つけた。ほくそ笑む。 「今朝、西の崖っぷちに深い足跡を残していった奴かな」  お前は俺の反応を見た。俺が地鼻を使っていないので、首を傾げた。 「何日か前のものか……近くには、もういないか。逃げられたか」  それからお前は山の頂を見上げた。谷から吹き上げていた風が、いつのかまにか冷たい吹き下しに変わっている。穏やかな天候だったが、これから荒れるかもしれない。  麓へ戻るか、お前は考えているようだった。日が暮れる前に山を下りたいし、足跡を残した獣を追いかけている間に天候が急変したらたまったものではない。仕留めるか、引き下がるか。難しい判断だった。  いずれにせよ、俺は飼い主であるお前に従うだけだ。呑気に構えていた、その時だった。俺は鼻の奥に獲物の臭いを感じた。臭いを嗅ぎ取った次の瞬間には大量のアドレナリンが放出され、四肢の肉に力が漲った。たちまち戦闘態勢である。  お前は、そんな俺の様子に気がついて、笑った。 「そうか、お前はやりたいか。そうだな、そうだろうな」  俺は首を上げ、高鼻を使った。遠い臭いを嗅ぎ取ろうとする。難しかった。麓の方へ顔を向ける。違う。こちらではない。それなら、山頂の方か。  山側から冷え切った一陣の風が吹き下す。サアッと大きな音が鳴った。時雨かと思ったが、違った。強い風が斜面の木立を揺らし、木の葉を舞い散らせたのだ。  その風の中に、俺は獣の臭いを嗅ぎ取った。低く唸る。獲物は、上の方にいる。俺は山頂を睨んだ。その方角に木々が密集した森林がある。風はあの中を通り、葉を散らせたのだ。獲物は間違いなく、あの中にいる。  そこへ俺は向かおうとした。お前は曳き綱を引いた。何をしやがる! という思いで俺は振り返った。お前は俺を見て、穏やかな声で言った。 「真っすぐに進んでも道がない。迂回する」  今いる場所と獣が潜む森林の間には一つ一つが何百キロもありそうな岩が転がっていた。その岩場は、犬の俺ならともかく、人の足では通るのが難儀だった。そこを通り抜けたくないのが人情というものだろう。  しかし俺は急ぎたかった。もたもたしていたら、獲物に逃げられてしまう。風はさっきまで谷から吹き上げていた。その風は俺たちの臭いを山の方へ運んだことだろう。相手は、その臭いを嗅いだかもしれない。警戒心の強い奴なら、とっくに逃げ出してる。肝の太い奴なら、まだいるかもしれない。しかし、いつかは移動する。時間の問題だ。  お前は肩の銃を下ろした。二つに折って弾丸を装填する。弾を込めた猟銃を手に、歩きにくい岩場の横を静かに登る。森林が近づいてきた。獲物の臭いが次第に強くなってきた。まちがいなく、奴は近くにいる。草が生えた大岩の間に、お前は獣道を見つけた。お前は俺の曳き綱を外した。 「行け」  俺は腹の底から唸り、小石と泥を跳ね上げて駆け出した。獣道を突っ走る。獲物が潜む森林に、すぐには突っ込まない。ぐるりと回り込んで、奴が後ろへ逃げ出すのを防ぐ。背後を取ってから杉の森の中へ突進する。  昼なお暗い森の中に獲物の姿は見えない。だが、臭いは満ち満ちていた。ついさっきまで、ここにいたのだ。俺は吠えた。獲物を追い立て、お前の方へ向かわせるために。それから猛ダッシュする。獲物に噛みつき、その肉を齧り取らないことには、猛り狂った魂は抑えられない。  木々が途切れ、明るくなった。岩の音に雪煙が上がる。藪が激しく揺れ、そこから大きな猪が飛び出すのが見えた。お前は猟銃を構えて待ち構えていた。両目を開き、しっかり肩で構えて、真正面から狙いをつけている。猪はお前に向かって突っ込んでいく。八十キロ以上はありそうな大物だ。ぶつかったら、ただでは済まない。お前は十メートルの距離まで引きつけて発砲した。前足の付け根にある心臓を撃ち抜かれた猪はズドッと横倒しになった。致命傷だ。それでも体を起こし、立ち上がった。お前は第二弾を撃った。猪は両の前足を折って再び倒れた。今度は立ち上がらなかった。  俺は猪に突っかかった。横腹にガブリと噛みつく。その時、くたばったと思ってきた猪が息を吹き返した。大きな頭を起こし、長い牙を振るう。鋭い牙が俺の胸から腹にかけてザックリと突き刺さった。その上、猪の野郎は俺の体を跳ね上げやがった。高く宙を舞った俺が岩に激突する直前、お前は三発目を猪に撃ち込んだ。毛や泥や血や脳漿がバッと飛び散る。ぶつかった岩から転がり落ちた俺は、猪の血だまりに落ちて、そのまま意識を失った。  その後、目覚めた記憶はない。犬の俺は死んだのかもしれない。危険がいっぱいの暮らしをしていたから、いつかそうなりそうな予感はしていた。今も、それは変わらない。 ※◆※◆※◆※◆※◆※◆※◆※◆※◆※◆※◆※◆※◆※◆※◆※◆※◆※◆※  イシャーナ・アヴァン・デリシコシシィは目覚めた途端、強い空腹を感じた。こってりした物が、やたらと食べたかった。バターで豚肉を炒める。ぶつ切りした大根、ニンジン、ゴボウ、ヤマノイモそれに千切ったコンニャクと一緒に鍋で煮て味噌で味付けする。それを丼の冷え飯にぶっかけて食べた。  食べ終えた丼を洗い、それからパソコンへ向かう。  嵐の童貞王ムグウデスネルテスは狩猟が趣味という設定を思い付いた。  あるいは、それまでは趣味でなかったのに、前世はレディースの特攻隊長だった悪役令嬢ダリアン・ド・ブラック王妃に影響され、ハンティングを始めることにしても良いだろう。  ダリアン・ド・ブラック王妃が夫に狩猟を進めたのは、彼を暗殺するためだ。猟銃の暴発事故で、自然な形で死んでもらおうというのだ。これなら毒殺といった悪女転生もので見かけることの多いワンパターンな殺害方法を回避できる。  これは斬新で良い! とイシャーナ・アヴァン・デリシコシシィは喜んだ。しかし、詰めなければならない点はある。猟銃の管理を国王自らがやるとは思えないし、それが王妃の仕事になるとも考えられない。猟銃に細工しても、本職の役人が狩猟前に調べるから分かるだろう。そうなると、流れ弾に命中する事故の方が良いだろうか?  そんな風に夫の殺害方法を考えるのは、ずいぶん久しぶりだった。前の夫は自殺に見せかけて殺したのだが、その手法を創作に応用できないだろうか……とイシャーナ・アヴァン・デリシコシシィは歯磨きしながら考える。    ×   ×   ×   ×   ×   ×   ×   ×   ×   ヘルメットの内側に表示された反転文字が点滅している。その文章を読んでいるうちにラアイラ・ローズマリー・レヴィーアン准教授は眠ってしまったようだ。実に見事な鼻提灯を膨らませた美女の寝顔を、ボウネッド・モリンハイペオンはじっくり眺めた。見れば見るほど心を奪われていくのが分かる。  話しかけたかった。起こしてみようかと思う。だが、寝起きが不機嫌になるタイプが、世の中にはいる。危険な流星雨が降る中、わざわざ地雷原に踏み込まなくても良い。  もしも、ラアイラ・ローズマリー・レヴィーアン准教授が読書好きなら、話が合うかもしれないとボウネッド・モリンハイペオンは思った。そんな彼女に今お勧めの本がある。大正時代など和風世界観の恋愛ストーリーだ。和風の世界観(許嫁、身分差など)の要素が入った恋愛ものだ。気に入ってくれると良いのだが……などと考えたとき、彼は思った。自分に許嫁はいないけれど、自分と彼女の間には明らかな身分差があるぞ、と。別の銀河にまで旅行できる時代になっても、人間にはランクというものが存在しているのだ。  宇宙服のヘルメットの中でボウネッド・モリンハイペオンは苦く笑った。それから、固く心に決めた。何がどうなろうとも、自分はラアイラ・ローズマリー・レヴィーアン准教授と正式な結婚をすると。
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