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上海記者倶楽部・其の一
「平家物語ですか」
ひょい、とこちらの手元を覗き込んで、後輩記者がそう訊いてきた。
帝都新聞の瑞垣は思考を、否、既に夢想になっていたものを中断する。態と大きくため息を吐き、記者倶楽部の机に広げていた平家物語や源平盛衰記、吾妻鏡やその関連資料から顔を上げた。
「あら、さすが野々村さん、これだけの資料でよくお分かりですね」
と瑞垣が妙なシナを作って答えると、叩き切るような返事が返ってきた。
「これだけ、と言われても、壇ノ浦ですよね。幼年学校の子でも知っているんじゃありませんか」
……事実であろう。
瑞垣はヤレヤレと肩をすくめる。
「つまらん男やな。はい、琵琶法師に弟子入りしていた時期がありますので任せて下さい! ぐらい言うたらどうや」
「さて、こちとら記者一筋で来まして、琵琶法師に弟子入り、してないですからねえ」
毎朝新聞の野々村が真顔で発する回答に舌打ちする。とはいえ、ここまでが既に様式美なのだ。
ふう、と息を吐いて瑞垣は野々村に訊ねた。
「沙羅双樹は、そろそろ咲いたか?」
「ええ。たしか大使館脇の街路樹がそれでしょう」
春の笑みが深い。
母国ほど繊細ではないが、この上海にも季節の移り変わりはあった。窓から吹き込む風が、日増しに柔らかくなっていることくらいは瑞垣も感じては居るし、漸く、井戸の水の冷たさに顔を顰めないで済むようになっていた。
もう少し経てば、沙羅双樹の白い花と緑の葉の対比が映えるだろう。
茶でも煎れましょう、と野々村が笑い、改めて問うてきた。
「それにしても、平家物語とはまた、どうして?」
瑞垣は僅かに眉を上げる。この後輩が知らないというのは少々意外だった。となると、あと知っていそうな輩と云えば……
「そういや、塩塚はどうした?」
「はい、お呼びですか?」
「うおっ」
不意に軽薄な声が後ろから返って来て、瑞垣も仰け反った。上海日日新聞の塩塚が相変わらずへらへらと笑っている。
こいつは、知っているな。
即断し、瑞垣は顔だけ塩塚の方を向いて訊いた。
「お前は琵琶法師に弟子入りしとったな? 一曲頼むわ」
「いやいや、弟子入りしてたのは講談師で、赤穂浪士の討ち入りなら得意ですよう。時は元禄~ってね。平家は”祇園精舎の鐘の声”ぐらいですねえ」
嘘を吐け、とは思ったが瑞垣も口には出さぬ。
何れにせよ、本題に入るべし、と三人は記者倶楽部のいつもの場所で歓談と相成った。
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