芝居

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芝居

 少しして、生ビールが部屋に届けられる。店員に礼を言うと、サービスだと言って何故かクッキーをくれた。とりあえず頂いておく。クッキーは嫌いじゃない。  店員が去った後、俺は隣の部屋に耳をすませる。 「でも継美(つぐみ)。どうやって彼の帰りを遅くできたの? 不思議」 「ああ、あれね。記憶操作の薬。ある特定の言葉を聞いたら、少しの間、直前まで考えてたことを忘れさせるっていう。すこーし眠気を誘う効果もあるのよねー。ま、他にもいろい……」 「何それ、すごい!」  は? 何だそれ。てか、思い出した。この声、昨日のジュース売りの女の声だ。 「駅をわざと乗り過ごさせて、帽子も拾わせてさらに遅くさせる、ね。簡単だったわよ。彼って結構警戒心が薄いのね」  俺の中で沸々と怒りと悲しみが込み上げてきた。何だよ、それ。  じゃあ、じゃあ、俺と別れるために一芝居打ったってのか?  でも、何だってそんなこと。俺と別れたいなら口でちゃんと言えばいいじゃねえか。わざわざこんな手の込んだこと。  俺は拳を握り締める。 「そうそう、せっかくの記念日だからね。とことん気分よくさせといて、後でものすごく最悪って思わせたかったの。私と二度と顔合わせたくないくらいにね。それに記念日は絶対遅くならないようにって、これは暗黙の了解なのよ。それを破ったら別れる口実にはうってつけなの。あいつにはね」  クスクス笑う小夏。  俺は怒りを通り越して、ただ虚しくなった。  何だ、とっくに愛想尽かされてたのか、俺。  俺はあいつの良い彼氏であるように俺なりに頑張ってたつもりだったけど、知らない間に、小夏の不満になるようなことを色々してしまっていたのかもな。  あいつ、それをずっと溜め込んでたのかな。  ほんと、虚しい。  ……もう、ここにいる意味もないかもな。俺は小夏に心の中で別れを告げて、その場から去ろうとした。 「それで? 成功したら報酬払ってくれるって話だったわよね?」 「うん、もちろん。協力してくれたんだし。安価って言ってたけど、いくら払えばいい?」 「そうねー。百万くらいかな」
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