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**** 「うわあ、すごいなあ」  和田先輩が感嘆の声を漏らす。僕と舟場先輩もうなずいて同意しながら、初めて入る大学の雰囲気に圧倒された。  空気が全然違う。歴史の重みを感じる重厚で端正な煉瓦造りの建物は荘厳の一言だし、キャンパスを行き交う学生たちもあか抜けていて大人っぽい。僕はきょろきょろと周囲を見回しながら、一行の一番うしろをついて行く。  見るものすべてが新鮮だった。あらゆるものに目を奪われ、僕は何度も地面に敷かれた煉瓦のブロックに躓き、そのたびに隣を歩く結城先生が僕の腕を掴み、苦笑いをした。  イチョウやケヤキの木の隙間を抜けていくと、古めかしいコンクリート造の建物が見えてきた。この建物が部室棟で、生物部の部室はここの二階にあるらしい。石澤さんは入口の重いガラス戸を押し開けると、僕らを招き入れた。  階段を上って廊下を進む。廊下には同じようなドアがずらりと並んでいる。石澤さんはその中のクリーム色に塗装した金属製のドアの前に立つと、こちらを振り返った。 「ここが生物部の部室だよ」  ドアの左側には飴色に変色した木の札が下がっていて、堂々とした筆跡で『生物部』と書かれている。石澤さんは扉をノックをして「お疲れさまでーす」とドアを開けた。  部室は十畳ほど広さがあるだろうか。奥行きがある長方形の部屋の真ん中には大きな机が据えられ、そこに座る十数人の部員が一斉に顔を上げた。 「おはようございます」  もう昼なのに朝の挨拶をしながら一人の学生が立ち上がった。「部長の二階堂です」と名乗り、僕たちにも笑顔を向ける。二階堂さんや部員たちは結城先生とは気安い仲のようで、みんな僕たちを快く迎え入れてくれた。最初は緊張していた僕たち高校生組もすっかり打ち解け、同じ生物好きの間で話に花が咲くのはすぐのことだった。  さすが生物部の部室というべきか、部屋の中ではたくさんの種類の動物が飼育されている。左右の壁に沿って、僕の胸のあたりの高さまでのスチールラックが置かれ、そこには大小さまざまな透明の飼育ケースや水槽が並べられていた。色鮮やかな熱帯魚に金魚にカエルにカメ、ウーパールーパーやトカゲたち。中に生き物がいるのかいないのかわからないような飼育ケースもたくさんある。  ひとつひとつ飼育ケースをのぞき込んでいた僕は、「ひ」と息を呑んだ。底一面に敷かれた木くずの中から、親指の太さほどの赤茶色のヘビがひょいと顔を出したのだ。どこから見ていたのか、結城先生が苦笑しながら僕の横にやって来る。 「佐上はヘビ苦手なのか?」 「いえ、苦手とかじゃないんですけど、見るの初めてで。ちょっとびっくりしちゃいました」  なんとなく恥ずかしくなって、僕は俯いた。 「確かに普段生活してるとあまり見かけないな。これはヒバカリというヘビで、気性が穏やかだから手に乗せてハンドリングも出来るぞ」  やってみるか? と聞かれて僕は「見てるだけでいいです」と慌てて頭を振った。確かに小さなヘビだけど、触ってみる勇気も覚悟もなかった。結城先生はわははと笑うと、ヒバカリのケースの側面を指でトントンと優しく叩いた。ヒバカリは餌をもらえると勘違いしたのか頭をもたげ赤い舌をチロチロと出す。 「可愛いな。おそらくこの子は学内で捕まえたんだろう」 「え、ここで?」  僕は驚いてしまった。 「いるのはヘビだけじゃないぞ。なんといっても、ここには森があるからな」 「森、ですか?」   このときはよくわからず首を傾げたのだが、結城先生の言葉が大げさではないことは、部室棟を出て大学の構内を歩き始めるとすぐにわかった。  木のベンチやパラソル付きのガーデンテーブル、自動販売機などが設置された広場の奧に、木立ーーいや林が姿を現したのだ。やや小ぶりではあるけれど、それは森と言っても差し支えがないほどに鬱蒼と暗く、どこまで続いているのか先が見えない。僕と舟場先輩は口をぽかんと開けて立ち尽くした。 「ここって……大学の中よね」 「……はい」 「やっぱりすごいなあ、なんだか別世界に迷い込んだみたいだ」  和田先輩が感激したように息をもらす。  部長の二階堂さんの合図で僕たちは木立の中に足を踏み入れた。生い茂る樹木の枝と葉に日光を遮られ、すうっと空気の温度が下がったのを肌で感じた。コンクリートで舗装された地面は途絶え、湿った土がふんわりと足の底を押し返す。上空では鳥の鳴き声がこだまし、むせかえるほどに濃厚な緑と湿った土の匂いがした。すぐそこで電車や車が行き交っているとはとても信じられない。 「すごいだろう。これがこの大学の『森』だ。さあ、遅れずに付いていこう」  結城先生が遅れがちになる僕たちに歩みを促す。  一行は緩やかに傾斜する道を下っていく。しばらく行くと、すり鉢状になった窪地の先に水面が現れた。池だ。周りを取り囲む木々でその全景は見えないが、淡い緑色に濁った水の上を、古びた木の橋が横切ってる。どうやら池の向こう側へ渡って行けるらしい。 「それじゃみんな~、ではこのあたりで分かれようか」  二階堂さんが声を張り上げ、周囲の部員たちは頷いた。見ると数人ずつグループに分かれて、部長の次の指示を待っている。  石澤さんがやってきて僕たちに声をかけた。 「これから分かれて観察に入るけど、和田たちはどうする? 興味のあるグループに付いていっていいみたいだよ。実はみんなそれぞれに『推し』がいてさ。鳥類班とか昆虫班とか魚類班とは虫類とか両生類班とか……」  次々にあげられる班の名前に何がなんだかわからず、僕は先輩たちの顔を見た。しかし二人もぽかんとした顔で困惑している。 「ちなみに、石澤さんは何推しなんですか?」  僕が問いかけると、石澤先輩はぐっと胸を張った。 「俺はチョウ屋!」  チョウ屋というのは、昆虫好きの間でよく交わされる言葉のひとつで、主にチョウを研究対象にしている人のことらしい。クワガタ好きならクワガタ屋、トンボが好きならトンボ屋。そういう具合で使うんだよ、と石澤さんは僕に説明を加える。  そのとき、ふいに先日初めて捕まえた蝶が頭をよぎった。繊細な翅の形や質感、空を舞う優雅さを思い出す。  僕はすっと手を挙げた。 「僕、石澤さんに付いていきたいです!」 「そうか」  結城先生が頷き、舟場先輩と和田先輩を見た。 「二人はどうする?」 「僕は鳥類班といっしょに行きます」  和田先輩がそう言うと、舟場先輩は舟場先輩で「私は絶対は虫類班!」と言うので、僕たちはここで分かれることになった。ちなみに結城先生はここでも指導的な立場にあるので、いくつものグループを巡回してまわるらしい。 「佐上、転ぶなよ」  結城先生が半笑いで言った。さっき僕が階段でこけたり、煉瓦の道で躓いたりしていたのを知っているからだ。「子供じゃないんで」と言い返すと結城先生ははははと笑って、女子学生のグループに引っ張られ向こうへ行ってしまった。 「ほんと気をつけなさいよ。あんたとろいんだから」 「佐上さん、スニーカーの靴紐はちゃんと結ぶんだよ?」  舟場先輩と和田先輩にまで心配そうに言われ、僕はちょっと膨れてしまった。みんなの目には僕はそんなに頼りなく映っているのだろうか。  複雑な気持ちで先輩たちが去っていく背中を眺めていると、後ろから声が掛けられた。 「ところで佐上さんは網持ってる? 持ってなかったら部室にあるやつを貸すけど」  はっとして振り向くと、石澤さんは網を持ち準備万端で立っていた。僕はリュックを下ろし、急いで荷物を漁る。 「あります! これです!」  僕の虫取り網は、結城先生に教えてもらったものだ。二週間ほど前に買ったシルク製の網で、握る柄のところと丸いフレームの骨組みはアルミで出来ている。軽くて丈夫だし、しかも柄と骨組と網部分を取り外してリュックの中に入れられるという優れ物だ。僕は分解された網を組み立てようとして、もたついた。 「あれ? あれ?」  あれだけたくさん組立と取り外しの練習をしたのに関わらず、うまく出来ない。「やろうか?」と手を差し出した石澤さんに渡すと、瞬く間に網は組み上がった。 「慣れてますねえ」 「俺も同じの使ってるから」  よく見ると石澤さんの手にも僕と同じメーカーの網がある。 「ここの部員はみんなコレなんだ。きっと結城先生の代もそうだったんだと思う」  伝統なんですね、と言うと、「うん」と石澤さんは嬉しそうにはにかむ。僕は微笑ましい気持ちで笑顔を返した。 「石澤さんは、結城先生のこと大好きなんですね」 「ええ~? ばれちゃった? でもそれは佐上さんだって一緒でしょ」 「……まあそれは」 「結城先生って本当に生徒思いなんだよな。俺が生物部作りたいって言ったら、どこからか和田のこと見つけてきてくれて、しかも顧問になってくれてさ。ここだけの話、俺先生のことすごい尊敬してる」 「……そうですね」  確かに先生は人のために力を注げる人だ。困っている人や泣いてる子供がいたら、きっと真っ先に駆けていくだろう。だけど……。 「ん? どうかした?」 「あ、いえ……。なんか、結城先生ってちょっと変わってるのかなって思って。あそこまで無償で誰かのために何かをしようとする人、見たことがなかったもので」   僕がそう言うと、隣を歩いていた石澤さんが歩みを止めた。何かまた悪いことを言ってしまったのだろうかと心配になったとき、黙り込んでいた石澤さんが小さな声で話し始めた。 「……俺も直接聞いたわけじゃないから他の二人には言わないで欲しいんだけど。結城先生、前の学校でいろいろあったみたいで。担任してたクラスの子が亡くなったみたいなんだよね」 「え?」 「俺もつい最近大学で聞いたんだ。ほら、先生ここの大学出身でしょ。教授がうっかりこぼしたのを先輩が聞いたことがあるらしくてさ。……だからじゃないかな。俺たちのためにあんなに一生懸命になってくれるのって」 「そう、なんですか」  数日前生物準備室で奨学金の話をしたときの先生の顔が、頭の中に蘇った。僕が「親がいなくて施設に入っている」と告げたとき、先生の目は確かに翳った。あの瞳の向こうにあったのは、僕ではなくその亡くなった生徒だったのだ。 「もしかしたら結城先生には後悔が残ってるのかもしれない。でも何があったにせよ、結城先生が生徒のために力を尽くす良い先生なことには変わらないよ。現に結城先生は、佐上さんのためにこのフィールドワークを決行したようなもんだしさ」 「……そうでしょうか」 「そうだよ! だから、そんな顔しないで今はフィールドワークを楽しめばいいんじゃない? せっかくの機会なんだしさ!」  自分が今どんな顔をしてるのかはわからなかったが、なぜだか胃のあたりが冷たい石の塊をのみ込んだみたいに重かった。  でも石澤さんの言うとおりだ。せっかくの貴重なフィールドワーク、楽しまなくては。僕は気を取り直し、「はい」と頷いた。  ふうと大きく息を吸い込むと、どこからか甘いような青臭いような、独特な花の香りが漂ってくる。周りを見回しながら鼻をくんくんひくつかせていると、石澤さんが小さく笑う。 「ああ、これはドクダミの匂いだね」  そう言って傍らの茂みを指さした。そこには白い星のような花をつけた植物が一面に生えていた。 「初めて見ました」 「え、ほんと? これ、よく日陰とかに生えてるんだけど、手で引き抜いたりすると後で大変なんだ。すっごく強い植物だから、千切れた根のところからまた次々と芽を出してさ。そうするともう、一面ドクダミ畑になっちゃうんだよな」  石澤さんはチョウだけではなく、植物にも詳しいようだ。 「そういえば四月にもここでフィールドワークをしたんだけど、そのとき池でアオダイショウが泳いでてさあ! 俺大喜びしたわけ。さっそく捕まえようと思ったんだけど、そのアオダイショウは池の真ん中あたりにいて、手も網も届かないんだよ。でも待ってたらどこかの岸には着くだろうし、俺たちは池の周りを取り囲んで待ってたんだ。そしたら……」  石澤さんは身振り手振りを加えて楽しそうに生物部の話をしてくれる。当時のことを思いだしているのだろう、ふふっと笑いを漏らした。 「生物部の先輩のひとりが、なんと待ちきれなくてざぶざぶ池に入って行くんだよ。あんなに濁ってる水だし、いくら春っていってもまだ四月だから水も冷たいのに」 「ええ?」 「ね、信じられないよね。捕まえた先輩は満面の笑みで池からあがってきたんだけど、それが臭いのなんのって……。でもすごく立派なアオダイショウだったよ。体長を測ったら百五十センチもあった」 「百五十センチ? 僕の身長と同じくらいじゃないですか! そんな大きいヘビがここにいるんですか?」 「それがいるんだよね~。俺もびっくり! でもほんとに大学はすごいよ。信じられないくらい変な奴もいるし、頭のいいやつもセンスがぶっとんでる奴もごまんといる。俺も最初は自信がなくなることもあるけど、悔しいから食らいついてやろうって思ったらいろいろ楽しくなってきてさ。世界が広がるっていう言葉があるけど、三次元どころか四次元で世界は広がるんだよ。これってすごい経験だと思わない? ……ってごめん。なんか俺ひとりで盛り上がっちゃったけど、俺が言いたいのは、ほんとに大学はいいよっていうことでさ」  石澤さんが僕の顔を見た。 「佐上さん、やっぱりうちの大学においでよ。俺、もっと佐上さんといろんな話してみたい」 「え……?」 「あっ! いや、別に変な意味はないよ? ただもっとチョウの話とか、虫の話とか、したいなって思っただけで!!」  なぜか石澤さんが顔を赤くして慌てたようにしゃべりだす。どこかおかしな様子に僕が首を傾けたとき、遠くの方で歓声があがった。はっとして僕と石澤さんは顔を見合わせる。  「何か見つかったのかもしれない。行ってみよう」  声のほうに歩いていくと、すぐに池の手前側で集まっている集団が見えた。ひとつの網を取り囲み、みんな真剣にのぞき込んでいる。 「何か採れたんすか?」  石澤さんが声をかけると部員の一人が網の中から取り出したものを掲げて見せてくれた。  黒い肢体に特徴的な後翅の突起。アゲハチョウだ。翅の外縁には、鮮やかなオレンジ色と白の斑点が並んでいる。チョウは胴体部分を掴まれて戸惑ったように触覚をぴくぴく動かしていた。僕はチョウにうっとりと見入った。なんて美しい翅の形状と色だろうか。 「これは……モンキアゲハかな」  石澤さんはひとめ見ただけで種の名前をあげる。さすがチョウ屋だ。それを聞いた先輩らしき部員が、石澤さんに話しかけた。 「モンキアゲハは未発見だったよね?」 「たぶんそうすね」 「持って帰る?」 「ですね、大学祭の展示に回します」 「じゃあ〆るか」  ーー〆る? それってなんだろう?  僕が首を傾けたとき、チョウを掴んでいた部員が、胴体を掴む指にわずかに力を込めたように見えた。チョウは一瞬足をピクリと震わせたあと、その動きを止める。 「えっ?」  部員はチョウを網のネットの上に静かに置いた。翅を水平に広げたまま脱力したチョウは、微動だにしない。 「このチョウ、死んだんですか?」  僕の言葉に、石澤さんがこちらを振り向いた。 「え? ああ、まだ死んではいないけど胸部圧迫したから仮死状態だよ。あとで冷凍庫に入れて〆るけど」  石澤さんの言葉は衝撃だった。冷凍庫に入れるだって?  「それじゃあ死んじゃうじゃないですか!」 「まあそれは標本にするために昆虫採集だから……」  僕と石澤さんの会話に不審な顔をしながら、部員たちは慣れた様子で腰につけたポケットの中から三角に折られた薄く白い紙を取り出し、その中にチョウを挟み込む。そして他の部員が差し出したプラスチックのケースの中にしまう。  僕は息を呑んだ。ケースの中には三角の白い紙がいくつか入っていて、薄い紙の間には、トンボやガのような昆虫が挟み込まれている。  これは……。この中に入れられた虫たちは、すべて死んでいるのだろうか。これから冷凍庫に入れられ殺されるのだろうか。  そう思った瞬間に足が竦み、手の指先がすうと冷たくなった。この前公園でフィールドワークをしたときは、僕が掴まえたチョウはしばらくみんなで観察したあとにその場に放した。それがふつうの生き物を観察する方法なのだと思っていた。  顔色を変えた僕に、石澤さんは戸惑いながらも説明した。 「でも俺たちは最低限しか採集しないよ。こんな生物がこの緑地にはいますよ、ってみんなに見てもらって、知ってもらえば、みんなもこの環境を守ることに意識がいくだろう。俺たちはそういう活動を通してこの環境を守っていくんだよ。それにこの時にはこんな生き物が生息していたっていう情報は標本として大事に保存して、後生に残していく」  ーー標本? 大事に保存して後生に残す?  胸の中に氷の塊を放り込まれたように、心が冷たく固まった。足から急に力が抜けて、僕は座り込む。 「えっ? 佐上さんどうしたの? 佐上さん?」  石澤さんが僕を呼ぶ声が聞こえたが、声が出なかった。心だけでなく体も凍えそうなほどに寒かった。叫び出しそうになる恐怖を奥歯を噛みしめてなんとかやり過ごす。目を瞑るとぐるぐると視界が回った。  採血のために刺される針。何度も行われる手術、取り出される僕のいくつもの細胞。横たわる自分と僕を取り囲む何人もの白衣の医師。 『嫌だ! 辞めて!』  幼い自分の叫び声がわんわん耳に響く。  ーーーーああ、もう僕は……。  そのとき、僕の腕に温かい体温が触れた。 「佐上? どうした? 具合が悪いのか?」  それは聞き覚えがある声に目を開くと、目の前には誰かがいた。  ーー結城、先生? 違う、この人は……。  ぼんやりと滲んだ視界の中で、心配そうな顔で僕を見つめているのは葉さんだった。 「葉さん……葉さん……」  僕はほっとして葉さんの腕にすがりついた。  良かった、やっと迎えに来てくれたんだ。ずっと待ってた。一人でずっと待ってた。寂しかったよ、葉さん。  温かい体に抱きしめられながら、僕の意識はぶつんと途切れた。
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