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消毒薬の匂いが鼻をくすぐった。ぼんやりと目を開けると、クリーム色の天井が目に入る。
僕は……。
ゆっくりと目を瞬いた。体には白い掛け布団が首まで掛けられている。どうやらベッドに寝かされているようだ。
あれ、また手術したんだっけ。でもそれにしては体のどこも痛くないな。まだ麻酔がよく効いているのだろうか。
そんな疑問が思い浮かんだが、妙なことに僕の体は点滴のチューブにもモニターにも繋がれていなかった。ここはどこだろう。霧がかかった意識の中、ぼんやりと考える。
パタパタという音に顔を左に向けると、窓に掛かったクリーム色のカーテンが風にあおられはためいているのが見えた。カーテンの隙間からだいぶ傾いた午後の光が差し込んで、部屋の中を暖かな色に染めている。
そのとき、ベッドの右側に取り付けられた仕切りのカーテンが開いて結城先生が顔を出した。
「……あれ、先生?」
「気が付いたか」
先生は僕の枕元の近くまで来ると、「気分はどうだ」と僕に聞いた。
「ちょっと頭が重いけど、大丈夫です」
「そうか、良かった」
ほっとしたように微笑み、先生はベッドの傍らにあった椅子に腰を下ろした。
僕は落ち着かない思いで改めて部屋の中を見回す。見たところ病院ではなさそうだが、この部屋に見覚えはなかった。
「あの、ここはどこですか?」
「大学の中にある保健室だ。フィールドワーク中に倒れたんだ。覚えてるか?」
大学……。フィールドワーク。その言葉から記憶をたぐり、僕はようやく思い出してうなずいた。確か石澤さんたちと池の近くでチョウを採っていた。そこから記憶がないので、情けないことに気絶でもしたのだろう。
「みんなは?」
「もう解散した。舟場たちも心配して側に付いていると言っていたんだが、先に帰っていてもらった」
壁に掛けられた時計を見ると、四時になるところだった。ということは二時間近く寝ていたということか。
「すみません、ご迷惑おかけしました」
僕が頭を下げると、先生はゆっくりと頭を振った。
「いや、俺の方こそ体調不良に気がつかずにすまなかった」
先生が神妙に謝るものだから僕は慌ててしまった。
「そんな! 違うんです、体調が悪かったとかじゃなくて、僕……」
ぐっと言葉に詰まった。何て言えばいいんだろう。
「僕は……」
「……うん」
言えるはずもなかった。僕は力なく横たわるチョウやトンボの姿に自分の姿を重ね合わせたのだ。ただの観察対象であり、もしかしたら実験対象でさえあるのかもしれない己の存在を。死んでからもずっと、なんらかの形で保存されるでだろう僕の体を。
「無理に言わなくていい」
先生は穏やかに言った。
「大丈夫だ」
顔をあげると先生は僕の方をじっと見つめていた。眉毛を少し下げ、痛みに耐えるかのように微笑んでいる。その顔が記憶の中の葉さんと重なった。
その瞬間、僕の心の中には途方もない寂しさが突き上げた。僕をしかりつけるときの怒った顔、そのあとに必ず与えられる温かい抱擁。僕が本を一冊読みきったと報告すると大げさに驚き、頭を撫でてくれた温かいてのひら。葉さんと過ごした古い記憶が奔流のように押し寄せてくる。
気がつくと僕の目からは涙が溢れていた。
「……すみません」
僕は乱暴に洋服の袖で顔を拭った。
「なんだろう、変なの。なんで涙なんか」
結城先生が腕を伸ばし、僕の頭にぽん、と手のひらを乗せた。
「大丈夫だ」
先生は言いながら温かい手のひらでゆっくりと僕の頭を撫でた。
「佐上はきっと大丈夫だ」
あまりにも先生の声も手のひらも優しくて、一度止まりかけた涙がまたあふれ出した。僕は両手で顔を覆って俯いた。
「大丈夫」
結城先生はその言葉を何度も繰り返し、僕は次第に嗚咽を耐えられなくなった。
ーーーー葉さん。葉さん。
僕の叫びは声にならない。
葉さんが迎えに来てくれる夢を数え切れないほどに見た。同じように葉さんが帰ってきた夢も。でもそんな奇跡は起こらない。葉さんは死んだ。もうこの世にいない。葉さんのいない寂しく冷たい世界で、僕はこれからも生き続けていかなくちゃいけないのだ。
先生は頭を撫で続けた。僕の呼吸が整うまで一言もしゃべらず、ただ黙ってそばにいてくれた。
窓から差し込む光が、だんだんと夕方の色を帯びていく。
やがて僕がしゃくりをあげる音は、部屋に満ちた優しい沈黙のなかにゆっくりと溶けていった。
(つづく)
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