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 梅雨がやってきた。雲は厚く垂れ込め、じめじめとした空気が全身にへばりつく。何日も何日もしとしとと雨が降り続け、今日も校庭を使えない運動部の生徒たちが空を見上げため息をついている。そんな憂鬱な放課後、生物室に僕の声が響きわたった。 「えっ? 彼氏が出来た?!」 「ちょっと佐上! 声がでかい!!」  僕たちの騒ぎように、離れたところで作業していた和田先輩と結城先生が驚いた顔で振り向く。舟場先輩が口に人差し指を当てて「しぃーっ」と慌てるが、でも僕はそれどこれではない。 「彼氏ってあれですよね、こっ……恋人ってことですよね。えっ、いつのまに出来たんですか?」  舟場先輩は頬を染めて俯く。 「この前大学でフィールドワークやった時に……。覚えてないかな。は虫類班でいっしょに回ってた人なんだけど、帰りに連絡先渡されて、そのままなんとなく……」 「てことは相手は大学生ですか!?」 「うん、大学二年生」  先日のフィールドワークのときの記憶を必死に思い起こそうとしたが、目的の人物はちっとも思い当たらなかった。 「私もまさか自分に彼氏が出来るとは思わなかったけどさ。あ、結城先生と和田先輩には言わないでよ。なんか恥ずかしいし」 「……はい」  すっかり角と牙が取れて可愛らしくなった舟場先輩は、全く違う人のように可憐に微笑んで見せた。  それにしても、と僕は思う。『そのままなんとなく』で交際を始めるなんてことがあるのか。しかも相手は三歳も年上の大学生。なかなかハードルが高そうだ。それに舟場先輩はそういうことは全く興味がないものだと勝手に思い込んでいた。  衝撃の大きさにいつまでも呆然と立ち直れない僕を見て、舟場先輩は小さく笑う。  「そういう佐上はさ、好きな人とかいないの?」 「考えたこともなかったですね」  先輩は目をまん丸くした。 「え? 本当に? だってあんた、結構男子から告白されてるらしいじゃん。試しに誰かと付き合ったりしないの?」 「……」  なぜ舟場先輩がそんなことを知っているのだろうか。  確かに今まで僕に付き合って欲しいと言ってきた人たちは何人かいたが、みんな本気だとは思えなかった。だって、ろくに話したこともない人を好きになるだろうか。相手の生い立ちも知らず、どんな性格なのかも知らず、好きなものだって苦手なものだって知らないのに。 「あの『試しに』って先輩は今言いましたけど、そんなに簡単に交際ってするものなんですか? 僕には想像がつかないけど、付き合うって何かメリットがあるんですか?」 「え、メリット? ……メリットねえ」  舟場先輩はう~んと腕を組んで考え込んだ。 「私も彼氏出来たの初めてだし、なにより付き合い始めたばっかりだからまだ未知な部分が多すぎてなんとも言えないわねえ。だけど、メリットってそんなにない気もするよね。メッセージの返信とか電話とかで時間もやたら取られるし。嫉妬とか独占欲とか、人間の暗い部分も引きずり出されるし」 「だったらどうしてですか? 恋愛なんて、生殖に付随しただけのおまけの感情ですよね?」 「生殖ってあんた……」  舟場先輩は呆れたようにため息をついた。そしてしばらく考えていたが、小さな声でぽつぽつと話し始めた。 「確かに佐上の言いたいこともわかるよ。私もずっと恋愛なんてくだらないって思って来たもん。でもね、最近なんとなく思ったの。もしかしたら人って他人を求めずにはいられないんじゃないのかなって。それはきっと生物の本能なんだよ」 「……生物の、本能?」 「それはおおげさかもしれないけど、誰かを好きになるってそんなに悪いことじゃないんだよ。よく言うじゃない、『恋をすると世界が変わる』って。あれは本当だよ。本当に今まで見えなかった世界が見えてくる。世界がね、ぱあっと明るく色づいて輝くの」  先輩は急に恥ずかしくなったのか、照れ笑いしながら僕の肩を人差し指でつんつん突いてきた。 「どうどう? 佐上も恋愛してみたいって思ったでしょ?」 「え、僕ですか? 僕は別に」 「なによ、ノリが悪いな……」  舟場先輩が膨れて見せる。僕は慌てて言葉を付け足した。 「すみません、別に恋愛してる人を馬鹿にしてるわけじゃないんです。ただ僕、男とか女とか、そういうのがよくわからなくて」  僕がそう言うと、舟場先輩が目をぐるりと回しておおげさに肩をすくめた。 「佐上の恋愛が前途多難なことだけはよーくわかったわ。あんたに惚れた男どもが可哀そう」  舟場先輩は軽やかな笑い声を立てながら去って行く。僕は呆気に取られそのご機嫌な背中を見送った。  ……一体なんだというのだろう。  なんだかよくわからないが、一気に疲れてしまった。頭を振って作業に戻ろうとしたとき、今度は結城先生が遠慮がちに声をかけてきた。 「佐上、すまん。ちょっといいか?」 「はい?」   結城先生は僕を準備室に連れてくると、「座ってくれ」と丸椅子を置き、自分はデスクの椅子に腰掛けた。 「今日は体調はどうだ?」 「……特に問題はありません」  答えながらも、つい視線が下がってしまう。  この前のフィールドワークで情けない姿を見せてしまってから、先生は僕を非常に気遣ってくれるようになった。だがそれが正直過剰なのだ。部活中に倒れるという失態を犯した僕が悪いのだが、それにしても結城先生は心配性というか面倒見が良すぎるというか……とにかく結城先生の気遣いは行き過ぎじゃないだろうか。  先生はそんな僕の不満げな様子に苦笑していたが、すっと一枚の白い紙を差し出した。 「えっ……」  おもわず動揺してしまったのは、さきほど聞いた舟場先輩の話を思い出したからだ。突然渡された連絡先、そして始まった交際。そんな事柄をつい思い出してしまい、慌てて頭から振り払った。 「あの、これはなんですか?」 「俺の携帯の番号だ」  やはり電話番号……。僕は戸惑いながら首を傾げた。どうして僕に電話番号を渡す必要があるのだろう。 「まあ、もしもの話だが」  先生は白い紙に視線を落として話し始めた。 「君たちくらいの年頃は、いろいろな悩み事もあるだろう。もちろん佐上には宮崎という心強い存在がついているということは承知している。でももしかしたら、宮崎にも相談しにくいことがこれから出てくるかもしれない。そういうときに、第二、第三の選択肢として俺のことを思い出して欲しいんだ。今でもいいし、何年後でもいい。電話をくれたなら、必ず出るから」 「でも……」 「一応持っておきなさい。それだけいいから」  先生は眉を下げ、穏やかに微笑んで見せた。  --ああ、またこの顔だ。  僕はじっと先生の顔を見つめた。表面上はいつもの笑顔だ。でもその奥に、心配以上の何かが潜んでいるような気がしてならない。  そのときふと、大学でのフィールドワークのときの聞いた石澤さんの話が頭によぎった。『亡くなった』という、先生の元教え子のことだ。  もしかしたら先生は僕の奥に、その子の存在を見ているのではないだろうかーー。そう気が付いた瞬間、僕の手が勝手に伸びていき、先生から勢いよく紙を奪い取った。  僕の衝動的なしぐさに結城先生が驚いた顔をしたけど、それは僕も同じだった。なぜこんな反応をしたのか自分でもわからない。胸の中に微かに不快感が残っている理由もわからなかった。 「……すみません」 「いや」  先生は目を何度か瞬いた一瞬、安心したようにふっと息を吐き出した。その吐息になぜか胸がぎゅっと締めつけられた。 「あ、ありがとうございます。絶対電話はしませんが、念のために持っておきます」  お礼を言おうとしたら、つい余計な一言まで出てしまった。そんな自分にまた内心戸惑いながらも、僕はもらった紙をスカートのポケットに突っ込んだ。 「ぜひそうしてくれ」  結城先生が苦笑する。僕は先生と目を合わせることが出来ないまま、俯いてスカートのプリーツをの折り目を手でなぞった。
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