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「失礼します」
僕が生物準備室のドアを開けると、長い髪をなびかせて塩野先生が振り返った。
「あれ、佐上さん。どうしたの?」
綺麗に化粧を施した丸い瞳を丸くして、小さく首を傾げる。塩野先生は、結城先生が急遽準備した折りたたみの机の前に座って、日誌のようなものを付けていた。
「はい、ちょっと本を借りようかと。……結城先生は?」
「いまお客様を迎えに行ってるの」
佐上さんは真面目だねえ、と言いながら立ち上がると、塩野先生は部屋の隅にあった丸椅子を自分の椅子の近くに置いた。
「もう少し時間かかるだろうし、中で待ってたらいいよ。実は今日はおいしい紅茶持ってきたの。いただきものなんだけど、マリアージュフルールのフレーバーティー。佐上さんは紅茶飲める? 一緒に飲まない?」
「……いいんですか?」
「もちろん! 遠慮なんてしないで」
にっこり笑って塩野先生は頷いたけど、別に遠慮しているわけではなかった。僕が言いたかったのは、『結城先生と飲まなくていいんですか?』という意味だったのだ。
塩野先生は僕の心の中の声にはもちろん気がつかず、上機嫌で部屋の隅の給湯コーナーでお湯を沸かし始めた。
教育実習生である塩野先生がこの高校にやってきてから、すでに一週間が経っていた。『露骨じゃない?』と舟場先輩が言っていた意味は、僕にもすぐにわかった。どうやら塩野先生は、結城先生に気があるらしいのだ。
塩野先生は鼻歌を歌いながらポットにお湯を入れる。そして同じく小花柄のキルトでできた覆い(ティーコゼーというらしい)と被せてから砂時計をひっくり返した。
この砂時計もティーポットもティーコゼーも、塩野先生が自宅からわざわざ持ってきて、生物準備室に持ち込んだものだ。
今回の教育実習の先生は三人来ていて、三人とも職員室の方に机が用意されているのだが、なぜか塩野先生だけはいつも生物準備室にいた。指導教員は結城先生だし、結城先生は準備室に年がら年中いるのだから、確かにこっちの方が都合がいいのはわかる。だけどこんなものまで持ち込む必要があるのだろうか。
「さあ、どうぞ」
塩野先生は僕の前に湯気の立つ紅茶を置いた。繊細は飾りが付いた取っ手の、薄くて美しい芸術品のようなティーカップだ。ひとくち口に含むと、桃のような甘くも芳しい風味が鼻に抜けた。
「どう? 美味しい?」
「はい」
美味しいは美味しいけど、僕は結城先生がいれてくれた砂糖たっぷりのインスタントコーヒーの方がいい。そんな思考が飛び込んできて驚いた。砂糖の入ったコーヒーなんて好きじゃないはずなのに。そんな気持ちを押しとどめてなんとか頷くと、塩野先生は嬉しそうに微笑んだ。
「ふふ、良かった」
完璧な笑顔だ。綺麗にカールした睫毛と、どんなときも色の剥げない艶やかな唇。柔らかそうな頬に、整えられた指先。僕が初めて見る完璧な女の形だった。
唇に微笑を浮かべながら紅茶を飲む塩野先生の姿を見ていたら、ふいに塩野先生が目を上げて視線がかち合った。すると塩野先生は何か考え込むように首を傾げ、僕の顔をじっと見つめる。
「えっと、なんでしょうか」
僕は居心地の悪さに耐えきれずに聞くと、塩野先生はふぅと小さくため息をついた。
「ああ、ごめんねえ。なんか佐上さんってお人形さんみたいだなぁと思って」
「……え」
「肌も透き通って真っ白でニキビひとつないし、手も足も長くて華奢だし、顔なんて私の手のひらより小さいじゃない」
「さすがに手のひらよりは大きいと思いますが」
わずかに反論すると、塩野先生は八重歯を見せて笑った。
「いいよねえ、ほんと羨ましくなっちゃうよ、若くて自由で。まだまだ……時間がたくさんあって、本当に羨ましい」
ーーまだまだ、結城先生と過ごせる時間がたくさんあって羨ましい?
そんなふうに聞こえて、唇をかんだ。僕のどこに羨ましい要素があるのだろう。塩野先生の方がよほど……。そこまで考えて我に返った。「よほど」何だというのだろう。自分の無意識に舌打ちしそうになりながらも、僕は一気に紅茶を飲み干して立ち上がった。
「紅茶、ごちそうさまでした」
「え、もう行っちゃうの? そろそろ結城先生戻ってくると思うけど」
塩野先生がそう言ったとき、生物室側のドアが開き、結城先生が入ってきた。その後ろには石澤さんがいる。
「佐上さん!」
石澤さんは僕の顔を見るなり、驚いたように目を丸くして叫んだ。
以前は頻繁に生物部に顔を出していた石澤さんだったが、最近は大学の方が忙しいようでこの高校に来るのは久しぶりのことだった。会うのは大学でのフィールドワーク以来だろうか。
石澤さんは結城先生を押しのけるようにして準備室に入ると、僕の前に立った。「こんにちは」と僕は挨拶をしたのだけど、なぜか石澤さんは食い入るように僕を見ている。なんとなく居心地が悪くなって一歩後ろに下がると、今度は腕を掴まれた。
「……あの、僕に何か?」
僕が困惑して見上げると、石澤さんははっとした顔で手を離した。
「あ、ごめん。あのさ……」
石澤さんは何かを言おうと口を開いたのだが、結局何も言わずに黙り込む。
部屋の中がしんと静まりかえった。妙な雰囲気に僕が首を傾げたとき、いきなり塩野先生が大きな声を上げた。
「あーっ、そうだった! 結城先生にちょっと聞きたいことがあったですよね! ちょっとこっちに来てもらってもいいですか!」
そう言いながら塩野先生は生物室の方へ結城先生を引っ張っていく。準備室には僕と石澤さんだけが残された。
僕は呆気にとられて生物室へ続くドアを見つめた。いったい塩野先生のあの騒ぎようはなんだったのだろう。石澤さんといい、塩野先生といい、全くわけがわからない。
「佐上さん」
「あ、はい」
石澤さんに名前を呼ばれて向き合った瞬間、彼はこちらに向かってがばっと頭を下げた。
「ごめん!」
「え?」
いきなりの謝罪に度肝を抜かれてしまったが、石澤さんは頭を下げたまま話し始める。
「この前のフィールドワークのときのこと、ずっと謝りたかったんだ。俺の配慮不足で、佐上さんに不愉快な思いをさせたから。ほんとにごめんね」
「そんな!」
僕は慌てて首を振った。
「不愉快な思いなんてしてません! それにあのとき僕が取り乱してしまったのは石澤さんの配慮不足ではなく、ただ単に僕の知識と経験と理解が足りなかったからです。こちらこそすみませんでした」
だから頭を上げてくださいと僕が必死で頼むと、石澤さんはようやく顔をあげた。そして僕の顔を見て、眩しそうに目を細める。
「佐上さんは本当にまっすぐだね」
「そんなことはないですけど」
「……謝るって言うのは口実だったのかもしれないな。本当は今日、佐上さんに会えたらいいなってずっと思ってた。なんでだろう、どうして佐上さんのことがこんなに頭から離れないんだろうって不思議だったんだ。でも今、やっとわかった」
よく意味がわからず、僕は石澤さんの顔を見上げた。真剣な瞳が僕を見下ろす。
「俺、佐上さんのことを知りたい。何が好きで、何が苦手で、毎日どんなことを考えていて生活してるのか。君のいろんなことをもっともっと知りたい」
「え……?」
言葉がとっさに出ない。ぽかんと口を開けた僕のことを見て微笑みながら、石澤さんは言葉を続ける。
「急にこんなこと言われて佐上さんも困ると思うけどさ、出来れば俺のことも知ってもらいたい」
僕は石澤さんが何を望んでいるのかよくわからなかった。彼女になってとか、友達からでもいいから付き合ってとか、そういうのはないのだろうか。
「……それだけでいいんですか?」
「うん、それだけでいい」
石澤さんはすっかり満足したように、やわらかく微笑んだ。
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