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後悔先に立たず。
この言葉を昨日から何度噛み締めたことだろう。僕は大きなため息をつき、握っていたシャープペンを放り出した。
自室の勉強机に座って一時間が経とうとしているのに、まったく勉強に集中できない。というのも、昨日結城先生に言ってしまった酷い言葉と、傷ついた結城先生の顔が頭から離れないからだ。
どうして最低だなんて言ったのだろう。そんなことを言った僕の方がよっぽど最低じゃないか。
苦い後悔がこみ上げてきて、僕は机に突っ伏した。その調子に机の上に広げたノートがぐしゃっと音を立て、僕は慌てて起き上がる。手のひらで紙の表面を伸ばしてみたけれど、一度グシャグシャになった紙はいくら伸ばしてみても皺が残ったままだ。
机の上に置かれた写真立てに目をやれば、心なしか今日の葉さんはしかめっ面をしているように見える。
『自分が傷つけられたからって相手を傷つけ返そうだなんて思っちゃいけないよ。相手を許すことを覚えないと、いつまでたっても争いはなくならないからね』
昔葉さんにこんな感じのことを言われたことがあった。たしか葉さんと一緒に公園に遊びに行ったときのことだ。砂場で遊んでいた子供たちに意地悪を言われて、怒った僕が相手の男の子に砂をかけてしまったのだった。
『……うん、わかった』
幼い僕は泣きながら葉さんの言葉を刻みつけたはずなのに、今になって何という体たらくだろう。もしここに葉さんがいたならば、叱りつけられるに違いない。
誰かに対してこんなに残酷な気持ちになったのは初めてだった。葉さんとだって喧嘩をしないわけじゃなかったけど、こんなひどい言葉を本人にぶつけてしまうことなどなかった。
机の一番上の引き出しを開けて、一枚の紙切れを取り出す。あのとき結城先生から渡された紙は、やはり石澤さんの連絡先だった。十センチ四方のメモ用紙には、几帳面な文字で名前と電話番号、メッセージアプリのIDが書かれている。
はあ、と大きなため息が口から漏れ出る。
この紙を受け取った以上、石澤さんへの連絡をこちらからするべきなのだろう。そうは思うものの気が重い。第一、なんて言ったらいいのだ。『佐上イチです。これからもよろしくお願いします』って? 本音を言えばあまりかかわり合いになりたくないし、できれば連絡先だって受け取りたくなかったのに。
「あああああ!」
僕は頭を抱えて呻いた。悩めば悩むほどにドツボにはまるような気がする。僕は勉強道具をしまって椅子から立ち上がった。こんなときは亜積さんに話を聞いてもらおう。僕は一人うなずき、部屋を出た。
エレベーターに乗り亜積さんの部屋のある二階へ降りると、廊下の左奥の会議室からわらわらと人が出てくるところだった。今日は土曜日なのに会議だろうか。その中によく知った顔を見つけて、僕はあっと声を出した。
「南原先生!」
僕の声に、もじゃもじゃの白髪頭で白衣を着た男性が振り返る。
「イチじゃないか!」
するとその場にいた人たちが一斉に振り向いた。若い研修医のような集団や貫禄のある大学の教授らしき人とその付き添いの学生たち、医療スタッフ。彼ら彼女ら視線が僕に突き刺さる。
辺りが喧噪に包まれた。『あの子がイチ?』『初めて見た』そんな言葉がざわめきの中でもやけにはっきり聞こえた。感情のない無遠慮で不躾な視線が僕に集中し、身体がぎしりと固まる。
僕が萎縮しかけたのを見ると、南原先生は急いでこちらにやってきて、廊下の隅へと僕を誘導した。自分を観察しようとする視線から逃れることができた僕はほっと息をつく。
「大きな声を出してしまってすまんかったな」
ロマンスグレイの頭を掻きながら、申し訳なさそうに南原先生が謝った。
「いいえ、大丈夫です」
小さく息を吐いて動悸をおさめながら、僕は南原先生を見上げる。
南原先生は僕の主治医の一人で、この施設に来たときからずっと僕を見守ってくれている人だ。年齢を聞いたことはないが、おそらく六十歳くらいだろう。まるで孫を見るかのような優しい眼差しが向けられ、僕はようやく安心して「お久しぶりですね」と微笑むことができた。南原先生も和やかな笑顔でうなずく。
「そうじゃな、一ヶ月ぶりかのう。体調は問題ないと聞いていたが、なんだか顔色が良くないんじゃないか?」
さすが南原先生だ。鋭い指摘に僕は小さく笑った。
「もうすぐ期末試験があるので、勉強ばっかりなんですよ」
「学生は大変じゃの」と先生は同情するように言うと、ふと顔を引き締めて僕の顔を見た。
「手術が決まった。七月の末じゃ」
僕は静かにうなずいた。そろそろだとは思っていた。予想よりは少し早かったが。
「大丈夫じゃよ、イチ」
南原先生が労るように僕の肩に手を添えた。
「そんなに大きな手術にはならんわい。心配することはない」
「はい」
僕はうなずきながらも、すうっと胸が冷える心地がした。
生物部で楽しい時間を過ごすうちに、自分が何者かを忘れかけていた。いつのまにか自分が普通の人間であると思い違いをしていたのだ。なんて滑稽なんだろう。石澤さんの申し出を断わる以外の選択肢が、僕にあるわけがないのに。
南原先生と別れた僕は部屋に戻り、石澤さんからもらったIDに、メッセージを送った。
〔先日の申し出は大変有り難いのですが、僕は石澤さんと特別な関係を築くことは不可能です〕
すぐに既読のマークがついたが、すぐに返信はなかった。不躾な僕のメッセージに怒っているのかもしれないと考え始めたころ、ようやく石澤さんからのメッセージが返ってきた。
〔次の木曜日に高校に行く用事があるので、放課後にすこし時間をもらえない?〕
そこには、それだけが書かれていた。
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〔あと三十分くらいで着くよ〕
僕は石澤さんからのメッセージに〔了解しました〕と返信を打って、ポケットの中にスマホを仕舞った。
放課後の教室にいるのは僕ひとりで、誰もいないのをいいことに椅子にだらしなく背中を預け、両手を突きだして大きく伸びをする。
今日は木曜日で生物部の部活はない。そんな日はいつもなら結城先生のところに行って本を借りたり話をしたりするのだけど、ここ数日はすっかり足が遠のいている。なぜなら気まずくてしょうがないからだ。
先生に暴言を吐いてしまってから週末を跨いだ月曜日、僕は先生に謝ろうと意気込んで登校した。しかし僕を迎えた結城先生は拍子抜けするほどいつもと変わらぬ様子で、僕はつい謝り損ねてしまったのだ。そしてそのまま……いまだ僕は先生に謝ることが出来ていない。
そうなると結果的にすごく気まずくなって、月曜日の部活も水曜日の部活も無断で休んでしまった。僕のスマホには舟場先輩からの着信がものすごい回数入っていたが、それも無視してしまった。きっと先輩は怒り狂っているだろう。
僕は大きなため息をついて立ち上がった。
このまま教室の中で時間をつぶしてもよかったが、舟場先輩が乗り込んで来るかもしれないので、場所を移動することにした。でも行くあてがあるわけじゃない。どうやって時間をつぶそうかと考えながら廊下に出てなんとなく右に折れ、階段を下り、左に曲がりーーそんなことを繰り返していたら、僕はいつのまにか生物準備室の前にいた。
習慣とは恐ろしいものだ。僕は身震いしてすぐに立ち去ろうとしたのだが、準備室の方から結城先生の笑い声が聞こえてきて、足が地面に張り付いたみたいに動けなくなった。
会っていないのは二日だけだったのに、声を聞いただけで言葉に出来ない気持ちが溢れてきた。涙が出そうだ。どれだけ先生に飢えてたんだろうとか、こんなところにいたら舟場先輩に見つかりそうだとか、結城先生たちが廊下に出てきたらどうしようとか、そんなことは頭からすっぽり抜けて、ただ目の前の先生の声に意識が奪われる。僕は準備室のドアへと引き寄せられていった。
近づくにつれ、先生の声に混じって、高く可愛らしい声が聞こえることに気が付いた。塩野先生の声だ。
そう思った瞬間、僕は我に返った。そうだ、ここには塩野先生がいたんだ。楽しそうに談笑する声を聞いたら、ほんのり温まっていた胸がひんやりと冷えてきた。
ここは僕の居場所だったはずだ。そこがいつのまにか塩野先生に取って代わられた気持ちになって、喉から苦みがせり上がってきた。
やはり立ち去ろうと唇をかんだとき、談笑する声がぴたりと静まり、廊下の方までしんと静まりかえった。
異様な雰囲気だった。驚いて思わずドアの方へ一歩踏み出したとき、塩野先生のか細い声が途切れ途切れに聞こえてきた。
「先生に……聞いて貰いたい話があるんです」
塩野先生は言った。
「私、結城先生のこと、好きなんです。明日かぎりで会えなくなるは嫌です。これからも会いたいしもっとお話がしたいです。だからーーーー」
思わず声が出そうになって、咄嗟に手のひらで口を押さえた。心臓がうるさいほどに打ち始める。僕は後ろに後ずさると、足音が響くのも構わず、走り出した。
これ以上聞いていられなかった。今まで感じたことのない強い感情が胸の中で燃え立っている。胸が焦げ付くようだった。
塩野先生はずるい。完璧な女のかたちで、正々堂々と結城先生の隣に立ってられる。二人が望むのならば、ずっと寄り添って歩いていくことも出来るだろう。
それに比べて僕は? 確かに今は生物部の部員として結城先生のそばにいられる。でも来年は? 僕は未来を想像することもさえも許されていないのに。
僕はーーーー。
愕然して足を止めた。それは紛れもない嫉妬だ。僕は塩野先生に醜い嫉妬しているのだ。自覚した瞬間に僕を覆っていた薄い理性の膜は一気に蒸発した。その下から出てきたのは、皮が剥がされてだらだらと血を流す僕の本当の心だった。
ーーーーそうか、僕は結城先生が好きなんだ。
石澤さんの連絡先を渡されてあんなに腹が立ったのも、塩野先生と仲良く談笑する姿に苛立ったのも、すべて僕が結城先生に尊敬以上の気持ちを持っていたから。僕が結城先生を好きだから。
『恋をすると世界が全く違って見えるの』
いつだったか舟場先輩が言っていた言葉が耳に甦る。僕は目を見開き、痛いほど鮮明になった世界を、ただ呆然と見つめた。
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