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なんとか待ち合わせ場所にたどり着き、僕は崩れるようにベンチにへたり込んだ。心臓がまだ妙に具合に脈打っている。胸を抑え、何度も深呼吸を繰り返した。
石澤さんが来るまでに少しでも動揺を鎮めたかったが、そんな時間はなかったようだ。
「佐上さん! ごめんね、遅くなっちゃった」
購買部の向こうから石澤さんが走ってきて、僕はベンチから立ち上がった。
挨拶を交わし並んでベンチに腰を下ろす。
「こんなところでごめんね。ほんとはカフェとかで話したかったんだけど。これから結城先生と打ち合わせでさ。聞いてるでしょ? 夏休み前に合同で奥多摩にフィールドワーク行く話」
「……いえ」
「あれ、結城先生まだ言ってなかったんだ? もう二週間切ってるのに」
「最近部活に顔出してなかったので……」
僕がそう言うと、石澤さんは一瞬黙り込み、「もしかして俺のせい?」と気まずそうな顔をした。
「実は結城先生が言ってたんだよ。『佐上に連絡先は渡したが、怒られてしまった』って。先生も落ち込んでたっぽいけど、佐上さんもなんか元気ないからさ。もしかしたら結城先生とけんかでもした? だったら俺のせいだよね」
結城先生が落ち込んでいた? 初めて知った事実に驚きながらも、僕は慌てて首を振った。
「石澤さんのせいなんかじゃありません。僕が悪いんです。先生から石澤さんの連絡先を渡されたのが面白くなくって、八つ当たりで酷いことを言いました。まだ謝ってもないし」
しかももう、どんな顔をして先生に会えばいいかわからなくなってしまった。絶望的な気持ちでがっくりと項垂れると、
「佐上さんはもしかしてーー」
「え?」
「結城先生のこと、好きなの?」
すぐに耳の後ろが焼けるように熱くなってきて、堪らず俯いた。さっき自覚したばかりのことを他人にずばり言い当たられて、取り繕う余裕がなかったのだ。
「え……もしかして、当たっちゃった?」
石澤さんは惚けたように呟き、場に沈黙が落ちる。
「すみません……。でも先生とどうにかなろうかなんて思ってるわけじゃないんです。先生だってこんな子供相手にしないだろうし、僕だってそこまで夢見てないです」
それに今頃、結城先生と塩野先生とうまくいっているかもしれないしーー。そんな想像に胸が痛んだ。
「それでもいいんです、今だけ側にいられたら。僕は本当にそれだけで……」
言いながら唐突に両目から涙が溢れてきて、僕は顔を覆って深く俯いた。ありとあらゆる感情が入り混じり、心の中がぐちゃぐちゃだった。
何よりも怖かった。結城先生に芽生えた感情が、自分を大きく変えてしまいそうな気がして、ずっと恐怖を感じていたのだ。
そして石澤さんに申し訳がなくて仕方なかった。ただ告白を断るばかりではなく、聞きたくないことまで聞かせて傷つけてしまった。うまく繕うことが出来なかった未熟な自分が情けなかった。
石澤さんは呆然と黙り込み、しんと廊下には僕が鼻をすする音だけが響く。やがて「あのさ……」と石澤さんが静かに口を開いた。
「俺が言うのもなんだけど、人の気持ちって、どう変わるかわかんないものだよ。確かに今は先生と生徒だし、結城先生そういうことには堅い人だから難しいかもしんないけど、未来のことはわからないじゃない?」
「……未来のこと、ですか?」
「そう、未来のこと。えっと、結城先生は今……二十七歳だっけ? で、佐上さんは十六歳か。まあ十一歳離れてるわけなんだけど、先生が三十七になったら佐上さんは二十六でしょ。先生が四十七なら佐上さんは三十六だ。で、先生が七十七になったら佐上さんは六十六だよ? そこまでいったら、もうそんなに年齢って変わらないと思わない?」
僕にとっては想像できないほど遠い未来だ。でも労わるような石澤さんの声を聞いていたら、涙はいつのまにか乾いていた。
「そう、なんでしょうか……」
「そうそう! この世界、何が起きるかわかんないって俺は思うんだよね。自分が諦めなければ、決して可能性は0パーセントにはならないんだ。それにね、誰かを大事に想うことは辞めちゃ駄目だよ。きっとその気持ちは大きな原動力になる。ね、だからそんなに泣かないで」
打ちのめされていた心に、石澤さんの思いが優しく染み込んでいく。僕は鼻水をすすり上げ、制服の袖で顔を拭って頷いた。
「泣き止んだ? そしたら次はほら、先生のところに行かないと!」
僕の顔をのぞき込んだ石澤さんは、目を細め微笑んで見せる。その目は潤んで揺れていた。それでも綺麗な笑顔が崩れることはない。
「さあ、仲直りしておいで」
「……ありがとうございます」
ベンチから立ち上がり、石澤さんに深く一礼する。くるりと踵を返し僕は走り出した。
本当は石澤さんだって僕を励ますような心境じゃなかったはずだ。それなのにこんなにも心を込めた励ましをくれた。そんな優しい人を傷つけてしまった自分が情けなく、そして悲しく切なかった。
それでも結城先生への思いはどこまでも膨れ上がり、体中に隅々まで広がっていく。
渡り廊下を走り、息を切らして生物準備室に飛び込んだ。僕が押し開けたドアが音を立てて跳ね返り、机に座った先生が驚いた顔で振り返る。
結城先生の顔を見た瞬間、そういえばここには塩野先生がいたことを思い出した。だが時はすでに遅い。
「あ……と、急に入ってきてすみません。あの、塩野先生は?」
部屋を見回すが塩野先生の姿はなく、使っていた簡易机もすでに片付けられている。給湯コーナーの方に置かれた紅茶のカップやポットなども姿を消していた。
「塩野先生って明日までいる予定じゃないんですか?」
「……塩野先生は職員室の方に移ったんだ」
「え」
いまさら職員室の方に移るということは……。おそらく結城先生は塩野先生の告白を断ったのだ。そして気まずくなり、塩野先生は生物準備室を去ったのだろう。
結城先生は塩野先生の机があったあたりをぼんやり見つめている。先生は優しいから、すべて自分の責任だと思って心を痛めているのかもしれない。
「先生……」
僕が声を掛けると、はっとしたように、それでも笑顔で「どうした」と僕の方を向いた。
「先生、ごめんなさい」
僕の突然の謝罪に、先生はわずかに目を見開く。
「僕、先生に八つ当たりして酷いことを言いました。本当にごめんなさい」
「……違うぞ佐上。俺が無神経だったんだ。申し訳ない。佐上にも嫌な思いをさせてしまったな。俺はいつも……いつも、肝心なところで駄目なんだ」
と消え入りそうな声で言うと、がっくり俯いてしまった。『佐上にも』という言葉から、先生が塩野先生のことを思い浮かべているのだろうと僕は思った。もしかしたら亡くなった生徒のことを思い出しているのかもしれない、とも。
そう思ったら堪らなくなった。
「違う! 先生は無神経なんかじゃない! 先生は何度も何度も、僕のことを励ましてくれたじゃないですか! もし本当に先生が無神経だったら、そんなことは出来ないと思います。先生はいろんな人の力になっています」
僕も、塩野先生だって、その亡くなった生徒だってきっとそうだったはずだ。
「だからそんなこと言わないでください……。お願いですから」
「佐上……」
結城先生がゆっくりと顔を上げる。
僕はその顔を見て驚いてしまった。先生の目は赤く潤んでいたのだ。
「ありがとう。……おかげで元気が出た」
先生は照れくさそうに笑うと、椅子から立ち上がりさっと背中を向けてしまった。きっと顔を見られたくないのだろう。でも僕の目には、さっきの先生の子供みたいな顔が一瞬で焼き付いてしまった。
胸の底から熱い感情が溢れてくる。目の前の広い背中に手を伸ばしたい。先生に触れたい。甘い息苦しさで窒息しそうだった。
「そういえば梅雨が明けたそうだぞ」
先生はしばらく外を眺めていたが、やがて思い出したように呟いた。その声はすっかりいつも調子を取り戻していた。
「……そうなんですね」
「ああ、ちょうど今日明けたようだ。きっとすぐ暑くなる」
心地よい先生の声に誘われるように、僕も椅子から立ち上がって先生の横に立った。窓の外に目をやると、分厚い雲はいつのまにか流れ、水分をたくさん蓄えたツツジの葉が日の光に照らされて光っていた。
なんて美しい光景だろう。まるで夢の中にいるようだ。
「眩しいなぁ」
ぼんやりと呟いた僕を、先生が笑う。
「もしかして佐上は暑いのが苦手か?」
「……どうでしょう。こうやって過ごすのは初めてなので」
今まではエアコンで温度を調節した部屋の中で過ごしてきた。暑くもなく、太陽の光に焼かれることなく。でも今年はきっと違う。
「夏はいいぞ。植物も生き物もぎらぎら輝く」
「楽しみです」
「ああ、楽しみにしてるといい。いろんなものをいっしょに見よう」
「……はい」
僕は小さくうなずいた。体の中で押さえきれない喜びがパチパチと細かく弾けていた。気を抜くと地面から浮き上がってしまいそうだ。
先生の横顔をそっと盗み見ると、目敏く視線に気がついた先生が、目だけで優しく微笑んだ。
途端に先生を包む景色が、急に色彩を強くした。胸がじんと熱くなり、涙が出そうだった。先生の顔から視線をそらしても、目に飛び込んでくる世界は色鮮やかなままで、窓から差し込む光も、先生の横髪についたわずかな寝癖も、腕まくりをしてしわが寄った先生のシャツの袖も、目に映るものすべてがただただ愛しかった。
そうして僕は、自分の中の世界がすっかり変わったことを悟ったのだ。
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