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 すっきり晴れ上がった青空には白い雲がひとつ、ぷかぷか浮かんでいる。歩道の片側に植えられた桜の木は青々と繁り、葉の隙間から差し込む日の光が目に眩しい。 のんびりと歩く僕を、同じ制服を着た生徒たちが次々に追い抜いていく。みんな友達を見つけては朝の挨拶を交わし、二人三人と連れだって楽しそうにはしゃぎながら学園の門の中に吸い込まれていく。……僕以外は。 「あ、僕っ娘(ぼくっこ)」 「ちょっと声大きい! 聞こえるって!」  うしろから小さなコソコソ話が聞こえてきて、僕は振り返った。見覚えのある三つの顔。そこにいたのは同じクラスの女子三人組だった。  どうやら『僕っ娘』というのは僕のあだ名らしい。自分のことを『僕』と呼ぶからあだ名は僕っ娘。初めて聞いた時は単純だなあなんて思ったのだけど、スマホでその意味を調べて驚いた。それは揶揄(からか)いや嘲りを多分に含んだ言葉だったのだ。まあ僕は別に気にはならないけど。  それよりももっと興味深いのは、三人組の女子の方だった。彼女たちは移動教室のときもお弁当を食べるときも、手洗いに行くときだっていつも三人一緒なのだ。なんという仲の良さ。しかし、まさか登校前から一緒だとは思わなかった。そんなに一緒にいて飽きたりはしないのだろうか。  彼女たちを見つめながら考え込んでいると、三人組はひきつった顔で会釈をして僕を追い抜き、小走りで門の向こうへ行ってしまった。   途端にはっとする。しまった、朝の挨拶をしていないじゃないか! 社会生活の中では挨拶が何よりも大事だと亜積さんも言っていたというのに、今頃気が付くなんて。僕は大きなため息をついて校門へと歩き出した。  この学園に転入して二週間ちょっと。だというのにクラスメイトと話をするどころか、まともに挨拶を交わすことさえままならない。もちろん親しくなった人など皆無。僕が誰かに話しかけようと近づいていくと、なぜかみんなひきつった顔で後ずさり逃げていくのだ。  どうしてなのだろう。僕のどこが悪いのか、どうしたらいいのかさっぱりわからなかった。というのも、学校というものに通うのは初めてのことだったからだ。  僕はちょっと変わった環境で育った。親の顔は知らない。生まれたばかりの僕は、真冬の日、ある病院の前に捨てられた。  拾ったのはそこに勤める若い医師で、僕が発熱していたこともあり、すぐに診療室に回された。幾重にも重ねられた肌着を取り払い、僕の少々特殊な体を見た人たちは、驚愕に言葉を失ったという。  もちろんそのころの記憶は僕に残っていないので、すべてあとから聞いた話だ。幸運なことに僕を見つけてくれた医師ーー(よう)さんーーが僕を引き取ってくれて、それからは愛情に恵まれながらなに不自由なく育った。たとえ本当の親がいなくとも幸せだった。葉さんがいてくれたから。 「佐上さん」  そのとき背後から呼ばれ、僕ははっと我に返った。 「え? あっ……はい!」  慌てて振り返ると、緊張した面もちの男子が立っている。ネクタイの色からすると同じ一年生のようだが、知らない顔だ。 「あの、ちょっと時間もらえるかな」 「いいですけど」  僕がうなずくと、「それじゃ、こっちに」と校舎裏の方へと促された。彼はずんずん歩いてツツジの茂みの前までくると僕に向き直る。緊張しているようで表情が硬く、頬が紅潮していた。ひとつ深呼吸をして、彼は口を開いた。 「じつは俺、佐上さんのこと気になってて。だから、付き合ってもらえないかな、って、思うんだけど」 「……ええと」  実はこういう状況になったのは初めてではなかった。先週に一回、今週に入ってから一回。今日で三回目になる。さすがにここまでくれば、彼の言う『付き合う』が個人的な交際を指していることはわかるのだが……。 「それは友達ではいけませんか?」  僕の問いに彼はぱっと顔を上げた。 「もちろん、最初は友達からでもいいよ! それでお互いを知っていって、徐々に」 「徐々に?」 「……え?」 「徐々に、どういうふうになりたいと?」  彼は一瞬面食らった後、気を取り直したように「そりゃ、ゆくゆくは彼女になってもらいたいけど」と言う。  『彼女』。僕は口の中だけで小さく呟いた。彼の考える彼女とはどういうものなのだろう。彼女の定義とは何だろうか。友達とはどこがどう違うのだろう。僕は腹を割って彼と話し合うことに決めた。 「あの、正直にお話しますが」 「え? あ、はい」 「僕は性的な接触はできません」 「せい、てき……?」  すると彼は目に見えてあたふたし始めた。 「いや、えっと、それはもう。佐上さんが望まないのであれば、そういうことはナシであっても、俺は一向に構わないけど」  話しながら彼はかわいそうなくらいどんどん狼狽していく。なぜそんなに慌てるのだろうか。僕にはわからなかったが、でも彼がそう言ってくれるのであれば答えは一つだ。 「それなら友達と変わりませんよね」 「……え?」 「そうでしょう? 友達と同じですよね? 僕たち、友達になりましょうよ」  口に出すと、それがなによりも正解だという確信がこみ上げてきて、僕は一人でうんうんとうなずいた。 「僕ね、ずっと友達が欲しかったんですよ。でもなぜだがちっとも友達が出来なくて。でもやっと……。やっと友達が出来たんだなあ。ふふふ。僕、あなたのことじっくり観察したいです。いいですよね、僕たち友達ですものね? いろんな話しましょうね。あなたのことたくさん教えてください」  うれしくなって握手のひとつでもしたかったのだが、なぜか彼の顔はひどく強ばっていた。それどころか、硬直していた顔がだんだん白くなっていく。 「どうかしました? 大丈夫ですか、なんか顔色が悪いですけど……」  と彼に近づこうとすると、彼は首を振って後ずさった。 「ごめんなさい」 「え?」  戸惑って見つめた彼の目には、恐怖の色が浮かんでいた。 「無理です!」彼は間髪いれずに叫んだ。「今の話はなかったことにしてください!」  絶叫があたりに響き、気が付くと彼は一目散に逃げていった。引き留めようと伸ばした手がむなしく空を掴む。 「え……?」  ひとり取り残され、僕は呆然と立ちすくんだ。  何が起こったのだろう。ええと……。さっき彼は『無理です!』と叫んで逃げた。僕と友達になるのは無理ということだろうか? 「そんな……」  喜びの絶頂から突き落とされ、僕は力なく座り込んだ。  学校に通いさえすれば友達ができると思っていた。でも現実は全然違かった。いつまでも経っても友達のひとりも出来ない。  どうしてうまくいかないのだろう。女子でも男子でも構わない。たったひとりの友達でいいのに。  いくら普通のひとの振りをしていても、僕が異形ながらくたであることは隠せていないのだろう。出来の悪い間違い探しみたいに、どこに混じっても不完全な僕は簡単に見つけられ、閉め出されてしまう。  どれだけ呆然と座り込んでいたのだろう。丸めた背中に当たる日差しは暖かいけど、心の中は芯まで冷えるようだった。  そのとき、どこからか「おーい」と叫ぶ声が聞こえてきた。空耳かと思ったが、また「おーい」と声がする。男の人の声だ。 「おーい、そこの君!」  今度こそはっきり聞こえてきた声に、僕ははっとして顔を上げた。 「そうそう、そこの君だ!」   きょろきょろあたりを見回すと、「こっちだ、こっち!」とさらに僕を呼ぶ声。立ち上がるとツツジの茂みの向こうに、建物の一階の窓から身をのりだし大きく手を振る人影が見えた。 「君、大丈夫か?」 「あ、はい! 大丈夫です!」  僕は慌てて人影に向かって叫んだ。こんなところでうずくまっていたので、体調が悪いのかと心配されたのかもしれない。  申し訳なく思いながら僕は茂みをかきわけ建物に近づく。そして窓の側に立つその男の人の顔を見上げて、僕は凍り付いた。  ーーーー(よう)さん?  全身の血が逆流して、胸が痛いほどに鼓動を打った。頭が真っ白になり、数歩よろめきながらもなんとか踏みとどまった。  白いワイシャツにネクタイ。心配そうに眉根を寄せて僕を見つめるその顔は、僕がよく知る葉さんそっくりだった。これは、幻だろうか。  ぐっと拳を握る。手のひらに爪が突き刺さり、鋭い痛みが走った。そうだ違う、これは現実だ。ここに葉さんがいるはずがないじゃないか。だって、葉さんは……。 「君、大丈夫か」  かけられた声に、動揺をしながらもなんとかうなずき返す。 「す……すみません、大丈夫です。具合が悪いとかではないので」  僕はそう言って踵を返そうとした。一刻も早くここを立ち去りたかった。 「待って!」  その人が大きな声を上げた。 「君、腕に怪我してるぞ!」 「え? あっ……」  右腕を見ると、さきほどのツツジの枝で擦ったのか一筋の切り傷が出来ていた。うっすら血もにじんでいる。 「見せてごらん」  その人が言うので、僕はふらふらと窓に近づいて行った。僕の傷を一目見ると、その人は「消毒したほうがいい」と言った。 「まだ保健室は空いていないから、ここで手当てしよう」 「でも……」 「遠慮することはない。そっちから入っておいで」  なかば強引に引き留められ、僕は仕方なく指示された掃き出し窓から校舎に上がった。 ****  そこは特別教室だった。四人掛けの黒い天板の机が並び、黒板の横には人体模型が立っている。何か生き物を飼っているのか、教室の後方に置かれた棚にはいくつもの水槽が並んでいた。 「理科室……?」 「ここは生物室だ」  さっきの人が黒板の近くのドアから出てきた。 「俺は二年と三年の生物を担当している結城という。君は一年生かな?」 「あっ、はい。一年の佐上イチと言います」  ぺこりと礼をすると、結城先生はうなずき、「スリッパもなくて申し訳ないんだが、準備室に来てくれるか。そっちで手当しよう」と、もと来たドアへと引っ込んでしまった。  僕はため息を押し殺して後に続いた。本音を言えば回れ右をしてここから逃げ出したかった。いくら葉さんに似ているといっても結城先生はまったくの別人だ。このままここにいたら、なんの関係もないこの人に余計なことを言ってしまいそうで怖かった。  準備室に入ると、先生が窓際に置かれた机の上で救急箱をひっくり返していた。ようやく消毒薬や絆創膏などを見つけると、「そこに座って」と丸椅子を指さす。  結城先生は驚くほど不器用だった。それでも大きな体を屈めて真剣な顔で処置をしてくれた。  「ようし、これで大丈夫だろう」 「ありがとうございました」  腕に何枚も不格好に張られた絆創膏を眺めながら、僕は礼を言う。 「いやいや、なかなか難しいもんだな」  先生は照れくさそうに「ははは」と笑うと、使い終わった消毒薬や絆創膏などをケースに入れて立ち上がった。  僕は結城先生の後ろ姿をぼんやり見つめた。さっきは動揺していたから結城先生が葉さんそっくりに見えたが、こうして落ち着いて向かい合ってみれば、似ているのは目と眉のあたりくらいだった。なによりも身にまとう雰囲気が全く違う。葉さんはこんなに大きな口を開けて笑わないし、このくらいの傷に何枚も絆創膏を使ったりするほど不器用ではない。  それに、葉さんはこんなに整理整頓が苦手じゃなかったしなぁ……。僕は窓際に置かれた結城先生のデスクの上をしげしげと眺める。そこには何冊もの本が積み上がり、その向こうでは分厚いファイルが雪崩を起こしている。  部屋の中を見回せば壁際においてある棚もめちゃくちゃだし、その足下にある段ボールにも適当に本やら書類やらが突っ込まれている。部屋の惨状を観察していると、部屋の奧にあるこじんまりした給湯コーナーの上の棚の中をごそごそしながら、先生が僕に声を掛けてきた。 「ええと、君の名前はーー」 「佐上イチです」  さきほど自己紹介はしたのだが、もう頭から抜けているようだ。 「そうそう、佐上。君はコーヒーは飲めるか?」 「はい。でもお構いなく」  僕はそう言ったのだが、先生は僕の言葉を遠慮ととったようで「俺が飲むついでだ」とお湯を沸かし始めた。  仕方なしに僕は壁際の棚に置かれた本の背表紙を眺める。生態論、生物基礎、生命科学、森林生態学ーー。そういえばここは生物準備室だったことを思い出す。二メートル近くありそうな大柄な結城先生は、生物の先生というよりも体育の先生の方がしっくりくるかもしれない。  なんて若干失礼なことを考えていると、僕の前に湯気の立つマグカップが置かれた。 「どうぞ」 「ありがとうございます」  お礼を言って口を付けたら驚いた。ひとくち飲んだコーヒーは、舌がしびれるほどに甘かったのだ。どれだけ砂糖を入れたのだろう。  「甘……」と僕が呟くと、先生はおやと眉をあげた。 「もしかして佐上はブラック派か?」 「ええ、まあ」 「大人だなあ」先生は感心したようにうなずく。「俺は砂糖か牛乳が入っていないとダメでな」  ははは、と笑う声が大きい。楽しそうに笑う先生に毒気を抜かれて、なんだか張りつめていた気が緩んだ。思わずふっと笑って顔を上げて驚いた。結城先生がじっとこちらを見ていたのだ。 「な……何ですか?」 「いや、少しは元気が出たかなと思って」 「え?」  僕が首を捻ると、先生はゆっくりと自分の椅子に腰掛けた。 「実はな、窓を開けていたら先ほどの君たちの会話が聞こえてきてしまってな。盗み聞きのようになってしまい申し訳ない」  先生が僕に向かって小さく頭を下げた。  さきほどの会話……? しばらく考えてやっと思い出した。先生と会った衝撃で忘れてかけていたが、僕は名も知らぬ男子に、友達になることを断られたのだった。僕はついため息をつきそうになったが、いそいで首を横に振った。 「気にしないでください。先生は悪くないです。あんなところで大声で話してた方が悪いんです。僕が……」  きっと僕がすべて悪いのだろう。あのときの彼が急に態度を変えるほどのことを、僕がしでかしてしまったに違いないのだ。でも何が悪かったのかさっぱり検討がつかない。  言葉を詰まらせた僕を、先生は「うん」と励ますように先を促した。視線を上げると結城先生の真剣な目が僕を見守っていた。それはやはり葉さんの瞳に似ていて、魔法をかけられたみたいに僕は心のうちをぶちまけていた。 「……僕、転校してきてしばらく経つのに、ひとりも友達が出来ないんです。それどころか、クラスの人たちともまともに喋れない。挨拶だってまともに交わせない。きっと僕には何かが欠けてるんでしょうけど、それが何であるかはわからないんです。このままじゃひとりも友達が出来ないんじゃないかって不安になります。せっかく学校に通わせてもらえるようになったのに」  ずっと自分が置かれた環境こそが孤独なのではないかと思っていた。だがそれは思い違いだった。学校という社会の中で、異物として馴染めないことこそが本当の孤独だったのだ。 「そうか」  先生はゆっくり頷くと、僕をじっと見つめた。 「君はどうして友達が欲しいんだ?」 「……え? どうして?」  友達が欲しいと願うのはごく自然な欲求だと思っていたので、理由など考えたことはなかった。 「ええと、仲良くなって、そのひとを観察したいから……ですかね」  先生は僕の言葉を聞くと、腕を組んで「う~ん」と首を捻った。 「その、『観察したい』という言葉がまずいんじゃないか。なんだか一方的に搾取される感じがして相手も警戒するんだろうなぁ。高圧的というか、偉そうというか」 「えっ」  僕はぎくりとした。そういえばさっきの彼にも観察したいと言ってしまった気がする。僕は全くの無意識だったのだが、だから彼は急激に態度を硬化させたのかもしれない。 「観察したいと言われて、喜ぶ人はいないと思うぞ」 「そうなんですか……」  今まで思いも及ばなかったが、もしかしたら僕の不遜な態度が言動にも出てしまっていて、それが故に遠巻きにされていたのかもしれない。 「そんなにしょげることはないぞ。言い方ひとつで相手の誤解を招くということだな。 勉強になっただろう!」  先生は快活に笑い飛ばすと、目元をゆるめた。 「君の言う『観察』というのは、他者を理解したいということと同じ意味だと思うのだが、合っているだろうか?」 「……はい、たぶん」  先生は「そうか」と満足そうにうなずく。 「友達というのは、決して一方的なものではないんだ。相手を理解して自分のことも理解してもらう。そして互いに同じところ違うところを認め合い、衝突し譲り合いながら落としどころを見つける。それが健全な人間関係だ」  先生の言うことの半分も理解出来なかった。そんな上級者の技を初心者の僕ができるわけがないとも思った。でも、先生が僕のことを理解しようとしていることだけはわかった。 「僕にできるでしょうか」 「できるよ。君ならきっとできる」  先生は力強くうなずいて笑って見せた。笑うと目尻がさがり、人懐っこい大きな犬のようだった。葉さんの笑顔に重なる。 「……またここに来てもいいですか?」  先生の笑顔に見とれ、気が付くと僕はそう口走っていた。 「あっ、いやその、もちろん先生の邪魔にならなければ、ですけど。たまにでいいので、先生の話聞きたいです。もっといろいろ教わりたい」  僕が正直な気持ちを口にすると、先生は一瞬驚いたような顔をして、それから「もちろんだ」と言って目を細めた。 「ありがとうございます」  学校の中に自分の居場所を見つけたみたいで嬉しかった。また先生に会いに来よう、そう決めて椅子から立ち上がる。  しかしそのとき、先生がいきなり「そうだ」と言って両手を打った。 「君、生物部に入らないか?」 「えっ」 「俺は生物部の顧問をしているんだが、最近部員が何人も辞めてしまって困っていてな。あと一人いないと、部活から同好会に降格してしまうんだ。もし佐上が入ってくれれば生物部は部として存続できるし、佐上も部員と友達になれる。君さえ興味あればと思うのだが、どうだろうか」  生物部……。って何をするところなのだろうか。想像もつかなかった。でも僕は、考えるより先に「入ります」と返事をしていた。 「本当か?」  先生が目を見開く。  先生も驚いているが、僕も僕で自分の言葉に驚いていた。そして僕の口はもう一度勝手に動いた。 「はい。僕、生物部に入ります」
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