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****  ということで入部届を結城先生に出した僕は、さっそく次の日の放課後、生物室にやってきた。 「初めまして、僕の名前は佐上イチです」  生物室の一番前、四人掛けの黒い天板のテーブルの前に立って僕は一礼した。顔をあげると、目の前に座る二人の部員がぽかんと口をあけて見ていた。 「佐上は一年生だが、五月に編入してきたばかりで、部活に入るのも初めてとのことだ。二人ともいろいろ教えてやってくれ」  後ろに立つ結城先生が僕の肩をぽんと叩くと、二人は思いだしたようにパチパチと拍手をする。 「で、こっちは三年生の和田と、二年生の舟場だ」  先生の紹介にあわせて、小柄で大人しそうな眼鏡をかけた男子生徒と、長い黒髪を後ろで一つに束ねた女子生徒が順番に頭をさげた。  ええと、眼鏡の男の先輩が和田さん、一つ結びの女の先輩が舟場さん、と。未来の友達である彼らの名前を心の中で反芻する。下の名前はなんというのだろう。友達関係になったら、名字ではなく下の名前で呼ぶことになるのだろうか。僕は期待を込めてじっと見つめていたのだが、なんだか二人の様子がおかしい。和田さんはなんだかソワソワしているし、舟場さんの方はなぜだか眉の間にしわを寄せている。  僕は首を傾げながら二人の向かい側の椅子に腰を下ろした。斜め向かいの和田さんがぎこちなく会釈をしてくれたので、僕も慌てて礼を返す。舟場さんのほうを伺ってみたが、彼女は背筋をぴんと伸ばしまっすぐに黒板を見つめていて、こちらには目もくれない。その頑な姿勢は、何かに対して怒っているように見えた。 「生物部はここにいる和田と去年卒業した石澤っていう先輩が、一昨年同好会として立ち上げたんだ。活動は月・水・金の週三回。主に生物室にいる生き物の飼育観察や学校の花壇の整備、あとはフィールドワークなどの課外活動が多い。わりと体育会系だぞ。佐上は付いてこれるかな」  結城先生は笑いながら前の方まで歩いていくと、ワイシャツの袖のボタンを外し腕をまくり上げながら黒板の前に立った。 「さて」  先生は腕組みをして僕の顔を見る。 「佐上は生態系という言葉を知っているだろうか」  僕は唐突な先生の問いに一瞬固まり、小さく首を縦に振った。 「植物を草食動物が食べて、草食動物を肉食動物が食べて、そしてその動物が死んだら土に還ってまた植物の栄養になる……ってやつですよね」 「そのとおりだ。正確に言えばそれは生物間の食物連鎖だな。植物が生産者、動物が消費者、菌類や細菌類が分解者と言われている。だが生態系というのはそれだけではない。大気や水、土壌などにおける物質循環や、さっき佐上が挙げた食物連鎖を通じて、形を変えながら地球という閉じた環境の中で循環していくことが生態系だ」  先生は黒板にぐるぐると一つの大きなドーナツのような輪を描き、その中に生産者、消費者、分解者という文字を書き込んだ。 「では佐上にもう一つ質問だ。俺たち人間はこの循環の輪の中に入っていると思うか?」 「え?」  僕は少し戸惑ってから首をひねる。人間は植物や動物を食べて生きているので、当然消費者ということになる。だけど答えが分かり切っている質問をわざわざ先生が聞くだろうか? 「わかりません」   僕が正直にそう言うと、先生はにやりと人の悪そうな顔で「正解だ」と笑った。訳が分からず首をひねり続ける僕に、先生は言う。 「今の問いに対する答えは『わからない』だ。確かに人間はあらゆる生き物を食べる消費者だ。だが本当にそうだろうか? 文明が発達した今、人間の死体や糞尿が分解されて土に還ることなどあるだろうか? それどころか、太陽のエネルギーだけでは足りずに、石炭や石油を掘りだして自分勝手に使ったり、コントロールできない科学の力を使って莫大なエネルギーを自ら作りだそうとまでする。その結果森林は減り地球環境は激変し、多くの生物が絶滅の危機に瀕している。そんな人間は、この生態系の循環の輪の中に入っていると言えるのだろうか?」  僕は思わず唸りそうになった。そんなことを考えたことさえなかったからだ。 「今までの人間の行いを鑑みれば、明らかに答えはノーだろう。でも結論を出すのは早いんじゃないと俺は思う。これから佐上が、君たちが心と体を使って考えていくべき問いだ。俺は、君たちがこのことを心に留めて謙虚に生き物に向き合ってくれることを願っている」  僕は静かな感慨に包まれた。正面に座る和田さんも舟場さんも、結城先生でさえも黙り込み、見えない遠い未来に思いを馳せているようだった。 「ようし!」  先生が静まりかえった生物室の雰囲気を変えるように両手を打つ。 「ではさっそく今日の作業に入ろう!」  先生がそう言うと、和田さんと舟場さんが「はい」と返事し、立ち上がった。  舟場さんは傍らの鞄と荷物をまとめだし、和田さんはなにやら機器を手に水道へ向かう。振り返って見ると、さきほど黒板の前に立っていたはずの結城先生の姿が消えていた。えっ? 一瞬でどこに行った?  何をすればいいかわからなくて戸惑っていると、「佐上」と先生が準備室のドアから顔を出した。ちょいちょいと手招きされる。 「俺は和田と職員室のほうに荷物を取りに行ってくるから、佐上は舟場に今日の作業を教えてもらってくれ」 「え、先生行っちゃうんですか?」  僕は慌てて先生の袖を掴んだ。 「ちょっと待ってくださいよ、先生にもうちょっといてもらわないと。ほら、僕生物部のこと全くわからないし、どうしていいかさっぱりなんで」  しかも和田さんならまだしも舟場さんだ。なんというか、あまり友好的ではないことだけはわかる。いきなり二人きりにされても困るのだ。 「大丈夫だ。舟場に教われば間違いはない」 「……」  自信満々にうなずかれ、僕はがっくりと肩を落とした。先生はそれを許諾と受けとったのか、舟場さんのところに行くと一言二言会話を交わし、和田さんを引き連れて颯爽と出ていってしまった。  置いて行かれた僕は困り果てるしかない。と同時になんだか腹が立ってきた。結城先生はちょっと雑じゃないだろうか。あれだけ友達を作るのが不得意だと主張したんだから、もう少しフォローなりなんなりしてくれてもいいのに。  もうすでにいない先生への恨み言を心の中でつぶやきながら、仕方なく僕は舟場さんのところに戻った。舟場さんはもう準備万端で、いまにも荷物を手に生物室を出て行きそうだった。僕は慌てて声をかける。 「あの、舟場さん! よろしくお願いします」  まずは挨拶をと思ったのだが、舟場さんはなぜか思いっきり顔をしかめた。 「さん付けではなく、舟場先輩と呼んで。常識だと思うけど」 「……すみません」  僕が謝ると、舟場先輩は僕の頭のてっぺんから足のつま先まで、じっくりと眺めた。一通りの感じの悪い値踏みが済むと彼女は「ふん」と息をつく。 「こっちに来て」  仕方なさそうにそう言うと舟場先輩は踵を返した。僕はさっきから面食らい続け一言も言葉が出ない。  一体なんだというのだろう。結城先生が先日何人も部員が辞めたと言ってたが、もしかしてこの先輩が原因じゃないだろうか。絶対そうに違いない。だって控えめに言ってもかなり感じが悪い。  僕たちは無言で廊下を進んだ。彼女に連れて行かれたのは生徒昇降口だった。  靴に履き替えて外に出ると、昇降口前の植え込みの前に置いてあるプランターのところで舟場先輩は足を止める。プランターは七、八個はあるだろうか。そのどれもに、黄色とオレンジ色の花が咲き乱れていた。 「この花はマリーゴールド。もちろん知ってるだろうけど」 「へえ、マリーゴールドっていうんですね」  初めて聞く花の名前にうなずくと、舟場先輩は驚愕したような声を出した。 「え? 知らないの? 冗談でしょ?」  残念ながら冗談ではないのでもう一度首を振ると、彼女は小さな声で「信じられないなんで生物部入ったのよ」と呟いた。(それは友達を作るためです)とはさすがに言えないので、僕は沈黙を貫いた。舟場先輩はおおきなため息をつくと、しゃがみこんで作業を始める。 「枯れたところをそのままにしておくと、植物は種を作り始めてしまうの。そうなると栄養が全部そっちに行っちゃって次の花が咲かなくなるから、こうやって取る。花がら摘みって言うのよ」  僕も彼女の隣にしゃがみ込んで見よう見まねで作業を始めた。しかしこれがやってみると意外に難しい。明らかに茶色に変色して萎れているところはわかるのだが、中途半端に枯れている花はどうしたらいいんだろう?   ぐるぐると考え込んでいると、 「ちょっと!」  と舟場先輩が急に大声を上げた。僕はつみ取った半ば枯れた花を掲げてた。 「あ、やっぱりこの花はまだ枯れてないですか? なんだかわからなくて」 「違う! 花じゃなくて! スカートスカート!」 「え? スカート?」  意味が分からのぞき込んだ舟場先輩の顔は、焦っているように見えた。 「だぁから! スカートだって! 見えるっての!」  叱りつけられ僕は自分の足下を見た。大きく開いた膝と膝の間で、制服のプリーツスカートが捲り上がっていた。  僕ははっとした。スカートを履くときは中身が見えないように振る舞わなくてはならない、と亜積さんに注意を受けたことを思い出したのだ。  僕は慌てて立ち上がると丁寧に座りなおした。スカートのうしろの部分をお尻とふくらはぎで挟み込むようにして、もちろん膝と膝はくっつける。これでスカートの中身は見えないはずだ。  全くめんどくさいことだと思う。スカートの下にアンダーを履いているので中が見えても差し支えないと僕などは思ってしまうのだが、それは行儀が悪いことらしいのだ。まあ亜積さんがそう言うならきっとそうなのだろうとは思うけど。  僕がきちんと座り直してのを見て、舟場先輩はめんどくさそうに小さく頷いた。及第点ということかもしれない。  僕は変色した花を摘みながら考える。僕とこの舟場先輩は、もしかしたら決定的に合わないのかもしれない。時間がかかるといえば、なかなか結城先生と和田さん(……いや、和田先輩)の二人が戻ってこないことも問題だった。せめて先生一人だけでもこの場にいてくれたのなら、こんなに冷たい空気になってはいないはずだ。しかし周囲を見回してみても、求めるひとかげはない。 「先生、どこに行ったんだろう……」   気がつくと声に出ていたようで、黙って作業に集中していた舟場先輩が顔を上げた。視線がまっすぐ僕の目に注がれる。 「あのさあ。あなたが生物部に入ったのは結城先生が目当てだからだよね」 「え?」  結城先生目当て? それはどういうことだろう。 「先生と仲良くなりたいから入ったんでしょう? 本当は植物とか動物に興味ないでしょ? 先生のこと狙ってるんでしょ?」 「えっと……」  舟場先輩がすごい勢いで言い募るので僕は呆気にとられた。先生のことを狙っているというのはよく意味が分からなかったけど、確かに僕は植物にも動物にも興味はない。どうして生物部に入ったかというと、友達が欲しかったから。そこに先生とも仲良くなりたいという気持ちは当然含まれている。 「まあ、だいたいはそうですけど……」  僕がそう言った瞬間、舟場先輩の顔からすっと表情が消えた。氷のような視線で僕の顔をねめつける。 「やっぱりね」  そう吐き捨てると舟場先輩は立ち上がった。冷たく見下ろされ、僕はようやく自分が返答をしくじったことを悟った。 「あなたのことは部員として認めない。生物部から出て行って」 「は……」  僕は一瞬言葉を失い、すぐにいらだちがこみ上げた。部員として認めない? どういう権限があって舟場先輩はそんなことをいうのだろう。 「認めないもなにも、結城先生は許可してくれましたけど。僕は正式な部員ですよ」 「はあっ?」  舟場先輩が激高して立ち上がる。 「猫かぶってたわね! あんたなんて生物部から追い出してやるわよ!」 「へえ、今までもそうやって追い出してきたんですか? 最近何人も辞めていった部員がいるって聞きましたけど?」  僕の言葉は核心をついたようで、先輩がぱくぱくと口を閉じたり開けたりした。 「この……」  言葉が出ないようで、舟場先輩の顔が赤黒く変わっていく。それでもなお舟場先輩は僕を睨みつけてきた。 「絶対認めないから」  僕も負けじと睨み返した。そんなの望むところだ。
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