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「失礼します」
生物準備室のドアをノックして開けると、机に座っていた結城先生が振り返った。
「ああ、佐上か。どうした」
「本借りたくて。生物学の本、おすすめありますか」
先生は僕の顔を見て、ぱちくりと目を瞬いてから微笑む。
「もちろんあるぞ! 佐上は勉強熱心だなぁ」
「はあ……」
嬉しそうな先生からさりげなく視線を外して僕は俯いた。
生物学の本を読むのも勉強するのも、実は舟場先輩に対抗するためという不純な動機からだ。だから結城先生にこんなに嬉しそうにされると、小さな罪悪感がちくんと胸をさす。
先生はデスクの傍らに掛けた鞄の中をごそごそとかき回し、一冊の本を取り出した。
「ほら、佐上が読みたいって言ってたやつだ」
僕は表紙のタイトルを見て驚いた。
それは、昨日部活のときに話題に出てきた本だった。初心者向けに丁寧に書かれているという生態学の入門書で、十年ほど前のものだが、この界隈では有名な本らしい。僕も読んでみたいと思ったのだが出版元が倒産したとかで、『中古でもなかなか出回ってないからなあ』とあのとき先生は言っていた。『実家に置いてある記憶があるから、今度取ってきてやろう』とも。
「わざわざ実家から取って来てくれたんですか?」
「たまたま実家に寄る用事があってな」
先生はそんなことを言っているがおそらく嘘だ。昨日は平日ど真ん中の水曜日。先生が今住んでいるところから実家はそれほど遠くないらしいが、忙しい平日の夜に敢えて寄らなくてはいけない用事などなかなかないだろう。きっと学校が終わってから、わざわざ取りに行ってくれたに違いないのだ。
「……ありがとうございます」
「ああ!」
僕は本を受けとりぱらぱらとページをめくってみた。なるほど先生があんなに賞賛していたのが納得できる。
「この本面白いですね」
僕が本心から言うと、先生は「それは良かった」と嬉しそうに笑った。子供のような無邪気な笑顔。自分の好きなものを相手にも好きと言ってもらえて嬉しい、顔にはそう書いてある。その姿が飼い主に褒めてもらえた大きな犬のように見えて、おもわず僕は笑ってしまった。
「ん? なにか可笑しかったか?」
そう言って首を傾げる様子もまた子供のようだ。
「なんでもないですよ」
僕がそう言ったとき、生物室から続くドアが、ノックもなしにいきなり開いた。
「失礼しまーす。結城先生、明日のことで……」
騒がしく入ってきたのは舟場先輩だ。先輩は先生の側に立っている僕を視界に入れるとさっと顔色を変えた。なんであんたがここに、とでも言いたげな表情だ。
「どうした、舟場」
しかし結城先生に声を掛けられると先輩ははっと我に返ったように先生の方に向き直った。
「明日の部活のことで聞きたいことがあるんですけど、いいですか?」
「もちろんだ。で、どうした?」
先生に話の先を促されて、舟場先輩はちらりと僕の方を見てから「ちょっとここじゃ……」と言いよどんだ。
面白くない。非常に面白くない。僕は自分の眉根が寄っていくのを感じた。僕がいるからここじゃ話せないということだろうか。なんだそれは!
僕が内心で歯ぎしりする中、二人は連れだって生物室へと消えた。一人手持ちぶさただったので部屋の隅からパイプ椅子を持ってきてどかっと座る。
このところ舟場先輩は、僕をのけ者にしようとする作戦に出ている。結城先生に気づかれないように、さりげなく、でも確実に僕を追い出しにかかっているのだ。
とは言っても、僕だってただ黙っているわけではない。邪魔にされようとなんだろうと、無理矢理会話に入っていく。でもそうなると、舟場先輩はことあるごとに僕の揚げ足を取ってくるのだ。「あらあなた、こんなことも知らないの?」と僕を見下す笑顔はものすごく不快だけど、結局僕は黙り込むしかない。生物学の知識どころか普通の常識さえほとんど知らない僕が、舟場先輩に勝てるわけがないのだ。
早くたくさん知識を付けて、舟場先輩に一泡吹かせたいと思う。でもそれは、自分を認めてほしいという欲求とどこが違うのだろうか。自分の中に甘えのようなものが湧き出てきた気がして、居心地の悪さに舌打ちしたくなった。僕は舟場先輩に……他人に一体何を求めているのだろう。
ひとり悶々としていると、先生が準備室に戻ってきた。
「あれ、舟場先輩は?」
「教室に戻ったよ」
「……そうですか」
顔を見たら腹が立つのに、行ってしまうと寂しい。そんな自分が不可解で気持ち悪かった。
「佐上」
「え? はい」
結城先生が呼んだので顔を上げると、先生は苦笑して自分の眉と眉の間をとんとんと指で叩いた。
「眉間にしわが寄っている。ずいぶん怖い顔をしているぞ」
思わず自分の眉根を押さえた。確かにかなり眉間に力が入っている。
「ふっ」
途端に先生が吹き出すものだからむっとしてしまった。人が真剣に悩んでいるというのになんだかバカにされた気がした。
「……これ、借りていきますね」
そう言うと、先生の返事も聞かずに踵を返す。驚いたような結城先生の気配に、苛立った気持ちでドアをたたきつけるように閉めた。だが後悔はすぐにやってきた。
……ああ、何をしているのだろう。舟場先輩に喧嘩を売って、そのうえ結城先生のも八つ当たりをして。まるで子供のようだ。僕はいつからこんな人間になってしまったのだろうか。
ため息を付いてのろのろと廊下を歩き出す。今日はこのまま帰ろうかと思い始めたとき、廊下の向こう側から見覚えのある人影が近づいてきた。
「あれ、和田先輩?」
僕が声をかけると、俯いて歩いていた和田先輩はぱっと顔を上げた。
「ああ、佐上さん。驚いた」
和田先輩は一瞬びっくりしたように目を見開いたが、僕をみて柔和な笑みを目に浮かべた。
和田先輩は第一印象そのまままの温厚なのんびりとした人だ。舟場先輩はとげとげチクチクしているけど、和田先輩はほわんとしているので、逆にふたりは馬が合うのかもしれない。学年が違うが二人の先輩の醸し出す雰囲気は漫才のようだ。結城先生を含めるとトリオだろうか。
「佐上さんはこれから帰るところ?」
「はい。和田先輩は……これから花壇ですか?」
「うん、そうだよ」
和田先輩の右手に持ったビニール袋からはシャベルや園芸用のはさみや鎌の柄が飛び出している。
この学園には生徒昇降口の前にプランターや花壇、別棟の校舎の前には菜園まであり、それらを主に管理しているのは生物部だ。もちろん部員の二人だけでは手が回らないので結城先生も手伝っているし、学校側でボランティアを募り年何回かの活動があるようだが、それにしても和田先輩と舟場先輩の負担は相当なものだろう。
「あの、ちなみに、なんですけど、今日の作業って舟場先輩は……」
僕はもじもじと口を開いた。本音を言えば手伝いたいけど、もし舟場先輩と一緒なのであれば、作業に加わるのは遠慮したほうがいいよなあ。そう思うと声はだんだんと小さくなっていく。すると和田先輩はくすっと笑って言った。
「舟場さんは花壇の方に行くって言ってたよ。僕は裏の菜園の手入れをしようと思ってるんだけど、いっしょにどう?」
「はい! 手伝わせてください!」
僕は大きく頷いた。
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「これがトマトでこっちはキュウリ。そっちのはナス。この手前の一列はジャガイモだよ」
学校の裏手にある五メートル四方ほどの菜園は、先月に植えられた野菜たちが行儀良く並んでいる。だけど実や花はついていないので、どれがどの野菜かなんて僕にはさっぱりだ。
一つしかなかった軍手はお互いに使うことを遠慮したために、結局ビニール袋のなかに入れられたままだ。素手でおそるおそる触れてみた地面は日の光を浴びてほんのり温かかった。
和田先輩はジャガイモの列のところでしゃがみ込んで、わさわさとたくさん出てきた芽の中から元気で丈夫なものを二、三本残して、他のものを抜くという作業(芽かきというらしい)をしている。もちろん僕はそんな複雑で難しい作業はできないので、菜園に生える雑草を抜く仕事を仰せつかった。
しかしこれが意外と難しい。何度やっても、茎で千切れてしまって根っこまで抜くことが出来ない。そして慣れない姿勢のためか、すでに腰が痛みを訴えかけている。
悪戦苦闘する僕の姿を横目で見ながら、和田先輩は穏やかにしゃべり出した。
「佐上さんは几帳面なんだね」
「え……そうでしょうか」
僕は自分の抜いた雑草をつまみ上げながら首を傾げた。几帳面だったらもっときれいに根っこまで抜けているに違いないが、手の中の草は茎から千切れてしまっている。
「うん、そうだよ。とても真面目だ。作業を見ていればよくわかるよ」
和田先輩が大げさに褒めるものだから気恥ずかしかった。それにしても和田先輩はほめ上手だ。舟場先輩はけなし上手だけど。
そんなことを考えていると、和田先輩が「あのさ」と唐突に切り出した。
「舟場さんのこと、悪く思わないであげてほしいんだ」
「え……」
僕は面食らった。生物部に入って(舟場先輩と仲違いして)一週間以上たつが、和田先輩に舟場先輩とのことに言及されたのは初めてのことだった。
しかも舟場先輩の肩を持つかのような発言だ。なんとなく面白くなくて、僕は反論しようと口を開きかけた。悪く思わないも何も、あっちが一方的に……。そう言い掛けた僕を、和田先輩が制した。
「佐上さんの言いたいこともわかるよ。確かに舟場さんの態度は良くない」
「じゃなんで……」
「舟場さんは潔癖なんだ。半端に生物部に入ってくる新入部員が許せない」
僕は言葉に詰まった。半端に入ったのは僕も同じだ。別に植物が好きとか、生き物に興味があったわけではないのだ。でも僕がそう言うと、和田先輩は首を振った。
「佐上さんは違う。知ってるよ。結城先生から本を借りて勉強していることも。君はきちんと向き合おうとしている。生き物とも舟場さんとも。そうでしょう?」
問われて、僕は「はい」とも「いいえ」とも言えずに黙り込んだ。
確かに生物についての勉強もしているし、部活動自体だってまじめにしていると思う。だけどそれらは、舟場先輩に対するただの意地だ。
僕が何も言えずに黙り込むと、和田先輩は小さくため息をついた。
「去年も今年も、生物部の入ってきた女子部員の数、すごく多かったんだよ」
「え? でも部員って僕たちしかいないですよね?」
「うん。全部舟場さんが追い出したから」
やはりか。和田先輩はおっとり笑ったけど、僕は全然笑えなかった。
「みんな結城先生目当てで入ってくるの。ほら、先生ってすごいかっこいいじゃない。もちろん本気で結城先生と付き合おうと狙ってる子はほんの少しだけど、みんな遊び半分できゃあきゃあ騒ぐばかりで。もう舟場さんが切れちゃって切れちゃって。大変だったなあ……」
当時のことを思い出しているのか、和田先輩は遠い目で苦笑した。無理もない、あの舟場先輩のことだ。そんなふざけた輩がいたらさぞ怒り狂うことだろう。
とそこまで考えたとき、僕はやっと理解した。
「ああ、そういうことか」
「そうそう、そういうこと」
和田先輩がにっこり笑って頷き、僕は顔を手で覆ってがっくりと頭を垂れた。舟場先輩は、その女子たちと同じように、僕が結城先生目当てで生物部に入ってきたと思ったのだ。
「その子たちは追い出して正解だったと僕も思うけどさ」
和田先輩がまっすぐに僕の目を見た。「でも佐上さんはそんな手合いとは違うでしょう?」
「もちろんです!」
僕は間髪いれずに叫ぶと、先輩は安心したようにうなずき、それからため息を一つ落とした。
「舟場さんもねえ、思いこみ激しいところあるから……」
思いこみが激しいというか、人の話を聞かないというか……。
「でも大丈夫だよ、きっとうまくいく。結城先生がすばらしい作戦を考えてるみたいだから」
「……すばらしい作戦?」
訝しげに聞き返す僕に、和田先輩は自信満々に微笑んで見せた。
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