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****  車のフロントガラスの向こうで、今日一日空を覆っていた厚い雲がものすごいスピードで流れてゆく。その隙間から光が差し込み、歩道に植えられた街路樹の緑がいきいきと輝きだした。 「お、晴れてきたな」  運転席で先生がハンドルを握りながら嬉しそうに呟く。 「良かったですよ、雨が降って中止になるんじゃないかって、私ずっとひやひやしてましたもん」  うしろの後部座席で舟場先輩が嬉しそうに言うと、その隣の和田先輩がふふふと笑った。 「天気予報では午後から晴れる予報だったじゃない。舟場さんは心配症だね」  確かに舟場先輩はずっとそわそわしていたな。つい思いだし笑いをすると、車のルームミラーごしに舟場先輩に睨まれた。  今日は僕にとって初めてのフィールドワークだ。結城先生の車に乗り込み目的地の公園へと出発したのが十分ほど前のこと。  高校の周囲の住宅地を抜け中心部へと向かうほどに道路の両脇に花屋やパン屋やカフェなどが増え始め、助手席に乗った僕はあっちを見てこっちを見てと忙しい。そのたびに結城先生に笑われているような気もするが仕方ないだろう。こういうところを車で走ったことなどないのだから。  大通りに入ると、コンクリートやガラスで覆われた無機質な建物が続く。見上げたビルはどこまでも高く、遮られた空は極端に狭くなる。   車は唐突にビル街を抜けた。視界を狭めていた建物がなくなり、柔らかく光る木々の緑と生まれたての青空が目に飛び込んできた。 「着いたぞ、ここが調査地の公園だ」  駐車場に車を停めておりると、周囲をきょろきょろと見回す僕の隣に先生が立った。 「なかなか立派な公園だろう?」 「……はい!」  住宅地にあるような小さな公園をイメージしていた僕には驚きだった。  ゆうに数十台は停められそうな広さの駐車場は、平日の午後だというのにほとんど車で埋まっている。そのすぐ横はベンチが置かれた広場になっていて、そのさらに奧は芝生が続いていた。小さな子供たちが黄色い声を上げながら走り回っているのが木々の間から見える。 「こういう公園は人の手によって作られた、いわば人工の自然だ。人工とは言っても過酷な都市環境を生きる生物にとっては生態系を保つ貴重な場であることは変わらない。さあ、準備は出来たかな。行こう」  見ると結城先生は大きな網とバックを抱えている。向こうに立つ先輩たちもやはり網やら一抱えもある透明な箱やらを持っている。「あなたもこれ持って」と舟場先輩に網を押しつけられた。  何本もの網やらなんやらを持って歩く制服姿の僕たちを、散歩やランニングをする人たちが物珍しそうに眺めていく。 「ここで去年と一昨年、樹木観察の調査をしたんだ。木と植物の種類を調べて位置を地図に記録する単純な調査だが、骨か折れてなぁ。部員が多ければ人海戦術でいけるだろうけど、当時は俺を含めてもたったの三人だったから……。と言っても今もそんなに変わらんがな」  ちょっとほろ苦い顔をした先生は、もしかしたら次々に辞めていった部員の顔を思い出しているのかもしれない。  芝生の広場の一番奥まで来ると、先生は足を止め僕たちの方を振り向いた。 「それでは観察に入ろうと思うのだが」  先生の言葉に先輩たちはうなずいた。 「今日は二手に分かれようと思う! 俺は和田とペア、舟場は佐上とペアだ!」 「え……ええ?!」 「ちょっと先生! どうしてそのペアですか!」  先生の唐突な提案に、僕は叫び舟場先輩は非難の声をあげた。  和田先輩はなにもかも承知したようににこにこと笑っている。昨日和田先輩が言っていた『作戦』とは、このことだったのか……。僕はがっくりと肩を落とした。なんとも結城先生らしい雑で直截な作戦だ。 「どうしてこのペアかというとな船場……まあ俺がそうしたいからだ!」  答えになっていない返答を舟場先輩に返して、結城先生はにっかりと笑った。 「さあ、楽しいフィールドワークの始まりだ!」 ****  そうは言っても、僕たちふたりが楽しい雰囲気になるはずもなく。 「えっと……舟場先輩」 「なによ」  前をさっさと歩く背中を小走りで追いながら、僕は舟場先輩に話しかけた。 「どこまで行くんですか? 観察するならもっとゆっくり歩いた方が……」  僕が言いかけると、舟場先輩は急に足を止めた。振り返り僕を見る。 「分かれて行きましょう」 「え?」 「その方が穏便だわ。楽しみにしていたフィールドワークで、けんかなんかしたくないもの」 「それは……」  僕は言葉に詰まって唇を噛んだ。 「……僕が邪魔だって言うんですか?」 「じゃあ聞くけど、あなただって私と一緒に居たいの? 居たくないでしょ?」 「一緒に居たいとか居たくないとか、そういう問題ではないです。今日は僕と舟場先輩はペアなんですよ? まさか先生の指示をきけないということですか?」  僕がそう言うと先輩はぐっと眉を上げて睨みつけた。 「きけないわよ。だってあなたみたいな人、嫌いだもの。『先生先生』ってベタベタして馬鹿みたい。結城先生が子供なんか相手にするわけないじゃない」  先輩は言い捨てると、僕に背中を向けて歩き去っていった。僕は言葉が出ず、その場に立ち尽くした。  ーー嫌いだもの、か。  いくら嫌われているとわかっていても、面と向かって言われるとさすがにショックだった。追いかける気力ももう沸かない。   どうしてここまで嫌われなければならないのだろう。昨日和田先輩が言っていたように、誤解が原因だとしても、ここまで嫌われるものだろうか。 『水と油みたいだね』  僕と舟場先輩をこう言い表した亜積さんの言葉の通り、僕たちは根本的に合わないのかもしれない。こんなに苦痛を感じてまで、合わない人間と付き合う必要はあるのだろうか。  僕は仕方なくとぼとぼと歩き出した。遊歩道の方まで来たとき、後ろから「あれ、佐上じゃないか」と声がした。振り返ると結城先生が立っていた。 「結城先生……」  先生の顔を見たらホッとして、なぜか泣きそうになった。そんな僕を見て先生が驚く。 「舟場はどうしたんだ? またけんかか?」 「けんか……?」  これはけんかなのだろうかと僕は寂しく思った。けんかというよりは一方的な拒絶だ。 「けんかにもなりませんでした。先輩、僕のこと嫌いだって」  自分で口にした言葉にもう一度傷つき、僕は俯いて地面を見つめた。 「困ったな……」  先生は大きなため息をつき、そして黙り込んだ。 「僕、生物部辞めた方がいいでしょうか」 「……それはどうしてだ?」 「だって僕がいると部の空気が悪いですし。このまま辞めた方がみんなのためかなって」  結城先生がじっと僕を見つめる。 「佐上は本当にそうしたいのか?」  その言葉におもわず僕は唇を噛んで俯いた。  言い訳がましいことは自分でもわかっていた。本当は空気がどうとかみんなのためとかじゃなくて、自分がぶつかってまた傷つくのが怖かっただけだ。 「……僕、自信がないです。友達が欲しいって言ってたけど、誰かと向き合う勇気なんて本当はなかったのかもしれない。今まで、友達って自転車とか本とか靴とか、持ち物のひとつか何かだと思っていた。みんなも持ってるから欲しいなって、ただそれだけだった。でもそうじゃないじゃないですか。相手も自分とは違う考えも意志もあって、それを受け入れないと友達にはなれないじゃないですか」  すべての基準が葉さんで、葉さんにしか受け入れられたことのないこの僕に、そんなことが出来るのだろうか。ーー出来るはずがない。到底無理だ。 「僕にはそんな能力もキャパもないです。やっぱりこのまま一人で居るほうが自分の身の丈には合っていると思う。だから僕はやっぱり……」 「違うぞ、佐上」  力強い声にどきりとして顔を上げた。 「確かに他人を受け入れるというのは本当に難しいことだ。自分を曲げ、人の意見や意志を受け入れるというのは苦痛が伴うこともある。出来ないかもしれないという不安も、傷つくことに躊躇する佐上の気持ちもよくわかる。だが、人の持つ能力も心の容量も、本当の限界というのは自分が思っているよりもずっと遠くにあるんだぞ」  先生はただ穏やかな顔で微笑んでいた。 「諦めるな。佐上の心も、今まさに強く大きくなろうと頑張っているんだ。自分のことを信じてやってくれ」  僕を見つめる先生の瞳が、日の光を浴びて温かな色に染まっていた。こんなふうに温かく見守られる実感を感じたのはいつぶりのことだろう。  僕はついさっきまで、自分はひとりきりだと思っていた。でもそれは違っていた。僕はもうすでに、結城先生に受け入れてもらっていたのだ。 「大丈夫だ、今度はきっとうまくいく」  何か返事をしなくてはと思うのだが、言葉が出なかった。口を開いては閉じて、それでも言葉は出てこなくて、結局僕は一度小さくうなずいた。  すると先生もゆっくりうなずき返してくれて、それから急に破顔し僕の背後を指した。 「ところで舟場はすぐそこをうろうろしていたぞ。もしかしたら言い過ぎたと思って謝りにきたのかもしれない」 「え……」 戸惑う僕に先生はにっかり笑った。 「さあ、行ってこい」   そう言って僕の両肩に手のひらをポンと置いた。それは一瞬のことだったが、温かいぬくもりが胸の中まで伝わってくるようで、僕は驚きに目を見開いた。  一瞬のうちに身体に力が漲る。心臓が信じられないほどのスピードで熱い血を押し出していく。 「はい、行ってきます!」  僕は頷くと駆けだした。  先生の言葉通り、遊歩道の木の影に舟場先輩の姿が見えた。 「先輩!」  舟場先輩の背中に向かって叫んだ。 「は? え、何よ?」  僕の剣幕に驚いたように先輩が振り返る。 「先輩は誤解しています! 僕は結城先生に性的な感情はないです!」 「性的な……感情?」  舟場先輩はぽかんとした。 「はい!」  僕が頷くと同時に、先輩は顔を真っ赤にして叫んだ。 「あなた何言ってるのよ? なんて破廉恥な!」 「え、あっ!」 間違えた! 本当は『特別な感情がない』と言いたかったのだ。いつも冷静な舟場先輩が慌てているところ見ていたら、僕の方まで慌ててしまう。 「違う! ええと、そうじゃなくて! 詳しく言うと、僕は先生に肉体的な欲求は感じないっていう意味で」  あれなんかもっと酷いことを言ったぞ……と自覚するより早く、血相を変えた舟場先輩がすっ飛んできた。 「ちょっとっ!」  真っ赤になった先輩は慌てて僕の口を押さえつける。 「お願いだから黙って! もう一言もしゃべんないで!」 「んっ……んむっ」  舟場先輩の力が強い。強すぎる。僕の口と鼻はいまにも握り潰れそうだ。僕は急いでぶんぶんと首を縦に振って了承を伝えた。先輩がそっと手をはずす。  気が付くと僕たちは思ったよりも至近距離で向き合っていた。お互いにあたふたと後ろに一歩下がり、あまりの気まずさに僕も舟場先輩も地面に目を落として黙り込んだ。 「あのさ…」  舟場先輩が長い沈黙のあと口を開き、僕は顔を上げた。 「さっきのことだけど……あの」  と舟場先輩が言い掛けたときだ。僕はおもわず先輩の背後を見て「ああっ!」と声をあげてしまった。   ちょうど舟場先輩の肩のあたりを、漆黒の影がふわふわと通り過ぎていったのだ。  それははっと息を呑むほどの美しい翅の蝶だった。漆黒の翅の表面が日の光を受けてビロードのように深緑や藍色に輝く様は、この世のものとは思えないほどに神懸かって見えた。あれは確か……。 「ミヤマカラス……?」  僕の言葉に、舟場先輩が食いついた。 「佐上、今なんて言った?」 「え、っと。気のせいかもしれないんですけど、ミヤマカラスみたいな蝶が今先輩の後ろを飛んでて」 「ミヤマカラスだって!?」  舟場先輩はすごい勢いで振り返った。首をぶんぶん振ってあたりを見回し、急いで地面に置いてある網を手にする。腰を低く落とし摺り足であたりの気配を探る舟場先輩に気圧されつつ、僕も見よう見まねで網を構える。  しばらく二人で付近を見回していたが、やがて舟場先輩が網を下ろした。 「いないじゃないの。本当に見たの?」 「……たぶん?」 「なによはっきりしないわね」  文句も言いながらも、舟場先輩は諦めきれないようで、なおも周囲を見回す。 「またこのあたりに戻ってくる可能性はあるわ。ミヤマカラスみたいなアゲハの仲間は、だいたい同じルートで飛ぶ傾向があるの。待っていればまた通るかもしれない」 「ああ、蝶道のことですね。確かにその可能性はあるかもしれない」  そう言うと、舟場先輩は僕の顔を見た。驚いたような顔でしばらく僕の顔を眺めた後、先輩は細く息を吐くと、近くの茂みに腰を下ろした。そしてぼうっと立ったままでいた僕を、なんと手招きをしたのだ。 「何してるの? 佐上もこっち座って」 「いいんですか? 隣に行っても」   どういう風の吹き回しなのだろう。『佐上』と名前を呼ばれたのも、手招きされたのも初めてだ。僕が驚いていると、先輩は「私ひとりだと見逃しちゃうかもしれないでしょ」とそっぽを向く。  僕が隣にしゃがみ込むと、舟場先輩がもそもそと口を開いた。 「それにしても、よく『ミヤマカラスアゲハ』だなんて知ってたわね」 「先生から本を借りて勉強してますからそれくらいのことは知ってますよ。なんと言っても綺麗だし、僕の中では一番見てみたい蝶ですから」  ここぞとばかりに勉強の成果をアピールすると、先輩は「……ふうん」と鼻を鳴らした。少しそっけないが反応は上々のようだ。気をよくした僕はしゃべり続ける。 「あとはオオムラサキはやっぱり生で見てみたいですよね。日本の国蝶だし。蝶だけじゃなくて、いろんな生き物にも会ってみたいです。……いろんな世界を知りたい」  空を見上げると抜けるような青さが目に染みた。木立のあいだを心地よい風が通り抜けるのを感じる。木々の葉がさらさらと揺れる音と、遠くから響いてくる鳥の声。世界がこれほど色彩が強いことに改めて気が付いたような気持ちになり、僕は目を閉じた。 「正直に言うと、僕、本当は生物に興味があったから生物部に入ったんじゃありません」 「……うん」 「さっきも言ったとおり、結城先生が目的だというわけでもないです」 「う、うん。……それは、十分わかった」 「結城先生に生物部に入れば友達が出来るぞって提案されて、いちもにもなく飛びつきました。ずっと友達が欲しかったんです、僕。誰かと仲良くなったら、その人がもっている世界が自分の中にも広がるんだろうって、それはきっとすごい世界なんだろうってずっと想像してました。ーーーーでも世界は自分の中にあったんですね。ちゃんと最初からそこにあった。ただ、僕が見ようとしなかっただけ」  舟場先輩は黙って僕の話に耳を傾けていたが、やがて小さく息を吐いた。 「実はさ、前に和田先輩に怒られちゃった」 「……え、和田先輩でも怒るってことあるんですか?」  舟場先輩は「うん」とこくんと頷いた。 「『君は佐上さん自身をちゃんと見ようとしていない。傲慢だ』って言われたわ」  驚いた。あの穏やかで優しそうに見える和田先輩が、そんな強い言葉を使うだなんて。 「私ね、生物部を守りたかったの。私にとっては生物部は大事な居場所なの。だから、結城先生の近くにいたいだなんてふざけた理由で入ってきた子たちが許せなかった。……でも佐上はそいつらとは全然違う。やっと和田先輩が言ってたことがわかった」 「舟場先輩……」  僕は感動して右手を差し出した。仲違い終了の記念に握手をしようとしたのだが、その手はあっけなく舟場先輩に弾かた。 「あれっ?」 「まだそこまで仲良くするとは言ってない。……けど、部員としては認めなくはない」  認めなくはない、ということは認めるというだろうか? なんともわかりにくい(というか素直ではない)舟場先輩に苦笑する。でも僕にはもうわかっていた。素っ気ない態度はうわべだけだ。本当に素直じゃないんだから。 「ふふふ」  僕の口からは思わず笑いが漏れ、 「何よ」  と横目で睨まれる。 「あっ、すみません何でもないです」 「はあ? 何でもなくて笑うわけがないでしょ? いったい何よ、気持ち悪い」  酷く扱き下ろされたところで、僕たち二人の目の前に、美しい翅を羽ばたかせて黒い蝶が飛び出した。 「「!」」  さっきの蝶に違いない! 声にならない叫びをあげ、僕と舟場先輩は自分の横に置いてある網を手で探りあてた。  瞬時に臨戦態勢に入ったのは舟場先輩だった。俊敏な身のこなしで蝶の背後につくと、舟場先輩は網を高く掲げ、振り下ろすーーーー。  しかし蝶はなんの前触れもなく横に逸れ、先輩の網を華麗に避けると、今度はなんと僕のほうへ向かって飛んできた。 「佐上ぃっ、そっち行ったあぁ!」  舟場先輩が野太いうなり声をあげた。 「はいいいぃっ!」  条件反射で悲鳴に近い返事を返したものの、僕はほとんど恐慌状態だった。だって網なんて持ったことも振ったこともない。ましてや蝶を取るだなんてーー。 「いっけえぇぇ!」  そんな僕の事情を考慮しないスパルタの舟場先輩が雄叫びをあげる。 「わっかりましたあぁ!」  先輩にいけと言われたらもう、いくしかない! 僕は網を大きく振りかぶると、蝶を斜め右上からすくい取った。手首を捻りそのまま地面へと網を押しつける。 「あ……」  あたりがしんと静まりかえった。僕の心臓は全速力で走ったときのように、ばくばくと打っている。 「取った……?」 「はい……」  信じられなかった。地面に振り下ろした網のメッシュの中で、黒い肢体がぱたぱたと翅を動かしている。 「すごい佐上、取った!!」  舟場先輩が僕に抱きついてきた。喜ぶ先輩にがくがく体を揺さぶられながら、僕は今更ながら腋の下と手のひらに大量の汗がにじんでくるのを感じた。 「良かった……」  安堵のあまり僕は地面にへたり込んだ。情けないことに声が震える。 「ああ、本当に良かった……。僕、蝶に当てちゃったらどうしようって」  あんなに華奢な翅に、こんなに固い網の柄が当たったりしたら、蝶はひとたまりもないだろう。ほっと胸をなで下ろして舟場先輩の顔を見あげると、呆れたような、どことなく嬉しそうな顔で僕を見返した。 「佐上……」 「はい」 「私さ、本当のこというとずっと後輩欲しかったの。佐上みたいに、小さな命を大事にしてくれるような後輩」  舟場先輩はしゃがみ込み、網の中の蝶の身体を慎重な手つきで押さえると、透明な虫取りかごの中へと移す。しばらくは暴れるように翅をばた付かせていた蝶も疲れたのか、透明なプラスチックの側面にとまって翅を広げた。息を切らすかのように触覚が上下に動いている。これは……。 「残念ながらミヤマカラスではないわねえ」 「……ですよね」  広げた翅の形状や全体的に黒い印象はよく似ているが、翅表面にミヤマカラス特有の青緑の光沢がない。きっとこれは普通のアゲハだろう。 「さっきのも、もしかしたらこの子だったかもしれません。緑色に光って見えたのも見間違えだったのかも。よく考えたら、こんなところにミヤマカラスがいるはずもないですよね」  そもそもミヤマカラスは絶滅危惧種とまで言われている。人里離れた山の中ならいざ知らず、こんな都会のど真ん中の公園になどいるわけがないのだ。  でも舟場先輩はきっぱりと首を振った。 「そうも言い切れない」 「えっ?」  舟場先輩は虫取りかごを抱えたまま立ち上がる。 「可能性は限りなく低い。でも、ゼロじゃない。そこが生き物の世界の素晴らしいところよ。でしょ?」 「……はい」 「結城先生のところに見せに行こう。なんていったって佐上が初めて捕まえた蝶だもの」  舟場先輩の顔を見上げていた僕は驚いた。こちらに振り返った先輩が、一度も見たことのない顔で笑っていたのだ。  それは初めて僕に向けられた笑顔だった。驚愕のあまり息が止まり呆然としてしまう。 「あんた、なんて顔してんのよ」  ふふと笑って、先輩は僕の手を掴んで立たせた。 「行くわよ、佐上」  僕たちは遊歩道を早足で歩き出した。僕の手を引っ張る舟場先輩が、午後の強い日差しの中で景色をかき分けるみたいにしてぐんぐん進んでいく。  芝生の向こうで、大きく手を振る結城先生と和田先輩が見えた。
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