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それから結城先生の行動は早かった。
僕たち全員の予定を確認するやいなや、石澤さんを通して大学の生物部の部長と話をまとめ、その日のうちに課外活動の申請を出した。もともと部活動の課外活動は、申請がおりるまでに普通一週間以上かかるらしい。だが今回は結城先生が学園長にまで掛け合ったので、なんと二日で申請が下りた。
こうして今週末の土曜日、僕たちは石澤さんの大学でフィールドワークを行うことになったのだ。
「はあ、早く土曜日にならないかなあ」
校舎脇の芝生の上で和田先輩が三角座りをしながら、うっとりとため息をついた。隣で同じように三角座りをした舟場先輩がうんうん頷く。
「本当ですよね。私まだオープンキャンパス行ってなかったのでラッキーですよ」
「ええ? 船場さんもう二年生なんだからオープンキャンパスくらい行っておかないと駄目だよ。僕なんて、小学生のときから行ってるよ?」
「ええー! 本当ですか? すごすぎですよ!」
僕は二人の会話を聞き流しながら、目の前をのしのしと歩くギリシャリクガメのカメキチくんを見つめた。彼は燦々と降りそそぐ太陽の光の下、優雅にお散歩中だ。甲羅がギリシャ織の模様に似ていることが名前の由来のこのリクガメは、もともと乾燥する地域に生息している種なので、日光浴が大好きなのだ。
芝生に這いつくばりカメキチくんと同じ目線の世界を楽しんでいると、突然頭上から結城先生の笑い声が降ってきた。
「ずいぶん熱心に観察をしているところにすまないが、ちょっといいだろうか」
「あ、はい!」
僕は慌てて立ち上がった。カメキチくんの引率を和田先輩たちに引き継ぎ、先生の後を追う。向かった先は生物準備室だった。
結城先生は準備室の備え付けの流しの前に立ち、こちらを振り向いてにこりと笑う。
「コーヒーでいいか?」
「え? ……はい」
とりあえず頷いてそのへんにある椅子に腰かけてみたものの、正直言って先生のいれるコーヒーは苦手だった。だって甘すぎるのだ。
僕の予想通り、先生はインスタントコーヒーの粉末と共に何本ものシュガースティックを何本も入れているのが見えた。お湯を注ぐと、「どうぞ」と言って僕にカップを差し出す。お礼を言って受け取りひとくち口に含んだが……うん、やっぱり甘すぎる。
「さて」
と先生が自分のデスクの椅子に座って、こちらに体を向けた。
「佐上は奨学金というのを知ってるだろうか」
「奨学金……ですか」
コーヒーをいれてくれるということは何か込み入った話があるのだろうと予想していたが、正直そんな話だとは思わなかった。
そんな僕の戸惑いに気づいているのかいないのか、先生は机の引き出しを開け、何やら書類を取り出す。
「ほとんどの奨学金は返済が必要だが、ここ数年新しく始まった制度で、給付奨学金というのがあるんだ。これはもちろん返済は不要だし、大学の授業料や入学金も免除されたり減額されたりする」
先生は手に持っていた大学のパンレットを僕の方に寄こした。『学びたい気持ちを応援します』と大きく記載された黄色と水色のパンフレットには、かわいらしい猫のイラストが描かれている。僕はそれをしげしげと眺めた。
「……でも僕にはもったいないですよ」
「どうして?」
「だってそういう貴重な枠は、もっと未来がある若者に使うべきです」
そう言うと、結城先生は眉にしわを寄せて首を傾けた。
「なぜそんなことを言うんだ? 佐上だって前途ある若者の一人だろう。確かに今は大学を卒業すれば職につけるという時代ではない。だが就ける職業の選択の幅はぐっと広がるんだぞ。今は将来何がやりたいか想像がつかないかもしれないが、大学に入ってからもいろいろなことに触れれば、将来やりたいことも見つけられるかもしれない。それに、佐上は大学に興味があるんじゃないのか?」
「確かに大学には興味はあります。石澤さんを見ていても楽しそうですし、いろんなことを学べるのは羨ましいなとも思います。でも……」
問題なのは、主治医の先生たちからそんな許可は下りないだろうということだ。それは当然だし、僕自身もそれでいいと思う。だって中途半端に夢を見て後でがっかりするくらいなら、最初から望まない方がずっと楽だ。だけどそんなことを先生には言えなかった。
黙り込んだ僕を見て、結城先生は困ったように眉を下げた。
「まあ一人で決めないで、親御さんともよく話をして……」
「親はいません。僕、施設でお世話になっているので」
その言葉に先生は目をわずかに瞠った。その顔を見て僕は『ああ』と思った。すぐに後悔がこみ上げてくる。
学校に通うようになってから、実はこういう問答は何度か経験していた。僕が『親がいない』『施設にいる』と言うと、相手は途端にはっとするのだ。そして目の中にいろんなものが順番に浮かんでは消える。驚愕、戸惑い、そして同情の順に。
僕はただ事実を伝えただけなのに、なぜだかみんな判で押したようにそういう顔をする。きっと僕の事情や背景をいろいろ想像して心配してくれているのだろうけど、当人としてはそんなに深刻に捉えられるとなんだか申し訳なくなってきてしまう。
だけど結城先生の目は、そのどれとも違っていた。透明な茶色の瞳の中には何か色彩が欠けたものが渦巻いていたのだ。おもわず僕は先生の瞳をじっと覗き込む。これはいったいどんな感情なんだろう。
「先生……?」
僕が思わず声を出すと、ぱちんと泡が弾けるように結城先生は何度か瞬きをした。そして目を伏せしばらく口を噤んでいたが、やがてゆっくりと視線を上げた。
「……これは教師の勝手な感傷かもしれないが、諦めないで欲しい」
先生は僕の目をまっすぐ見る。
「君は勉強熱心だし、根性もある。好奇心も強い。佐上には広い世界を見て欲しいんだ。君が望むなら、俺はいくらでも力になりたいと思っている」
僕はその言葉に衝撃を受けた。いくらでも力になる、だって……?
「どうしてですか?」
「うん?」
「どうしてそこまでしようとしてくれるんですか? 僕を助けることで先生がなにか得をするとは思えません。それなのにどうして?」
先生はわずかに目を丸くし、そして静かに笑った。
「それはな、俺が佐上の先生だからだよ」
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