3/5
前へ
/23ページ
次へ
****  石澤さんが通う大学は、僕たちが通う高校からほど近い。高校の最寄りの駅から山の手線に乗り換え、三駅ほど。改札を下りて大きな通りを横断すれば、そこは大学の門のすぐ目の前だ。 「こんなに駅の近くなら、電車でも行けましたよ。いくら僕だって迷わないのに」  土曜の昼下がりの渋滞のさなか、僕は車の後部座席でため息をついて文句を垂れた。 「しょうがないでしょう。先生たちの許可が下りないんだから」  運転席から亜積さんが僕を諫める。  本当なら僕には専属の運転手が付いていて学校の送り迎えはもちろん、頼めば休日でも車を出してもらえるのだが、あいにく今日は風邪で寝込んでいる。その代打として駆り出されたのが亜積さんだったというわけだ。 「というか亜積さんって運転出来たんですね」 「まあね。一応免許取ったけど、ペーパーだから緊張するよ」  とかなんとか言いつつも、亜積さんが運転する車は滑らかなステアリングを披露しながら大通りを進む。亜積さんに出来ないことなんてあるのだろうか。僕はため息をついて、車窓に目を向けた。 「僕だって電車くらい乗れるんですけどね」  とは言っても、実は電車も地下鉄も乗ったことがない。切符の買い方だってちゃんと予習済みなのに、その知識を使う機会はなかなか訪れないのだ。 「まあまあ、そんなに不貞腐れないでよ。今日のフィールドワークの許可が下りただけでもよかったじゃない」 「まあそれはそうですけど」 「ほら、ここが目的地だよ」  亜積さんが顎でしゃくって見せる。車はいつのまにか大学の門前に着いていた。しかし駅前ということもあって交通量が多く、車を停車する場所はない。積さんは車を大学の敷地に沿って一周走らせ、空いている大学の裏手に停車した。自分も運転席から降りると、僕の大きなリュックをトランクから出し手渡してくれる。 「じゃあここでね。帰りもこの辺の道路で待ってるから連絡して」 「はい」  お礼を言って別れようとしたとき、ふと歩道の向こう側からよく見慣れた姿が近づいてくるのが見えた。 「あ、結城先生だ」  そう僕が呟いたと同時に、あさっての方を見て歩いていた結城先生と目があった。結構な距離があったのにも関わらず先生も気が付いたようで、顔を輝かせて「おーい」と手を振りこちらに近づいてくる。学校で着ている白いシャツとスラックス姿ではなく、ジーンズ姿の先生はいつもより若々しい感じがした。  僕は隣の亜積さんを見上げた。 「亜積さん、あの人が生物部の顧問の結城先生なんですけど……」  ちょっとだけ葉さんに似てませんか? と続けて言おうとした僕は、おもわず言葉を呑み込んだ。亜積さんは見たことのない表情で結城先生を見据えていた。 「……亜積さん?」  声をかけても反応はない。切れ長の目に驚愕と動揺とが入り交じっているのが見えた。  こんな亜積さんを見るのは初めてだった。いつも泰然自若としてつかみ所がなくて、狼狽えたり戸惑ったりしたところなんて見たことがないのに。  結城先生は横断歩道を渡ると僕たちの前に小走りでやってきた。僕に笑いかけ、その後ろに付きそう亜積さんを目に留めたところで、先生もまた驚愕したように目をまん丸くして叫んだ。 「宮崎? 宮崎だよな?」  結城先生が口にした名前は、亜積さんの名字だった。呼びかけられた亜積さんが、一拍遅れて「ああ」とそれに応える。 「久しぶりだなあ! 元気にしてたか? 大学卒業以来? いや、宮崎はたしか途中で休学したんだったか」 「……結城も元気そうでなによりだ」  先生は嬉しそうに亜積さんの肩を叩くが、対する亜積さんの方はさして嬉しそうではなく、一目でわかるほどの愛想笑いを顔に浮かべている。僕はたまらず二人の間に入るようにして叫んだ。 「えっと! 二人は知り合いなんですか?」  先生も亜積さんも僕の存在をすっかり忘れていたようで、はっとしたように我に返ると、 「大学の同級生だ」と亜積さんが言い、「ここの大学のな」と結城先生が目の前の大学の門を指さした。 「ええ? そうなんですか?」  僕の記憶では亜積さんは二十七歳のはずなので、同級生ということは結城先生も同じくらいの年齢ということだ。正直もうちょっと上だと思っていた僕はすっかり驚いてしまった。  それにしても亜積さんも亜積さんだ。昔この大学に通っていたというなら、それくらい教えてくれても良さそうなものを。本当に秘密主義なのだから困ってしまう。  僕がじろりとねめつけると、亜積さんは気まずそうに笑う。そして誤魔化すように僕の肩を結城先生の方へ両手で押し出した。 「さあ、楽しんでおいで。僕はまだ仕事があるからそろそろ行かなきゃ」  結城先生はもうすこし話をしたいようなそぶりだったが、「今日は会えてよかったよ」と亜積さんに言われると黙ってうなずいた。 「それでは、お預かりします」 「よろしくお願いします」  急に教師と保護者の顔に戻った二人が礼を交わし、僕たちは別れた。  結城先生と並んで歩き出し、なんとなく後ろが気になって振り返ってみると、亜積さんはその場に突っ立ったままこちらを見ていた。僕が振り返ったことに気がつく様子もなく、視線はここではない遠いところを見ているかのようだ。やはりどこか様子がおかしい。 「そういえば、佐上と宮崎はどういう知り合いなんだ? 親戚かなにかなのか?」 「親戚とかではなくてですね……。ええと」  僕は考え込んだ。亜積さんとの関係をなんと説明したらよいのだろう。  初めて亜積さんに会ったのは、僕が九歳になったばかりの頃だったと思う。その頃の記憶はひどく曖昧な上にところどころ飛んでいて、亜積さんと対面したのは病室の談話室だったか、それとも施設の面会室だったか、よく覚えていない。記憶にあるのは何人もの人と引き合わされて、その一人一人と話をさせられたことだけだ。  興味を引こうと漫画やアニメの話題を出したり、ひたすら僕に質問を重ねる人が多い中、亜積さんだけはあまり口を開かなかった。静かに僕と向き合って、ポツポツと交わした会話は一言か二言。後はただ窓の外の景色を見るともなしに眺めていた。僕にとってその態度はとてもありがたかった。無理に話さなくてもいいんだとすごくほっとして、ただひたすらぼんやりと白いテーブルを眺めていた。  今から考えると、あれは僕のケアを行う担当者を決めるため面接だったのだと思う。そして誰が決めたのかは知らないが、結局僕の担当は一番覇気のない亜積さんになり、そして亜積さんは僕の毎日にするりと滑り込んできたのだ。  とは言っても、すぐに新しい存在に慣れたわけではない。はじめは亜積さんにかなりの拒絶反応を起こした覚えがある。ホットミルクがぬるいと癇癪を起こし、お気に入りのブランケットを洗濯されたと床にひっくり返って泣き叫び、あまりのワガママに亜積さんに叱られた時にはトイレに何時間も閉じこもった。自分で思い出しても相当ひどいが、亜積さんもよく根気よく付き合ったものだと思う。しかしそこはさすがの亜積さんというべきか、いつしか僕の好みと習性を完全に把握し、僕にとってなくてはならない存在となったのはそれから時間はかからなかった。 「……亜積さんにはずっと側にいてもらいました。僕は兄みたいだなって思ってます」 「そうか」  結城先生は静かにうなずいた。 「宮崎は昔から不思議なところがあったなあ。なんでも任せられる安定感があるというか」 「そうですね」 「俺は理学部で彼は医学部だったからあまり接点はなかったんだが、宮崎は非常に優秀なことで有名な学生でな。一緒の授業を受けていて知り合ったんだが、なぜかウマが合って、本の貸し借りなんかもよくしたな。確か三年の時に休学してからは学内で見かけることはなくなったが……」  言葉を切ると、遠くを見つめて先生は微笑んだ。 「ともかく元気そうで良かった。あれからどうしたのだろうと気になってたものだから」  先生はそれ以上なにも言わず、僕もなんとなく黙り込んだとき、遠くから「おーい」という声が聞こえた。道路の向こうからだ。  すでに大学の門の前に到着していた石澤さんが僕たちに向かって手を振っていた。その後ろには和田先輩と舟場先輩の姿も見える。 「先生たち遅いですよ! 早く中に入りましょう」  合流するなり舟場先輩が先生をせかした。舟場先輩も和田先輩も、憧れの大学に入れるチャンスに気合いが入っているようだ。目がきらきらと輝いている。 「すまんすまん」   結城先生は笑顔で謝り、門前の警備員に入構許可証を提示した。  そうしてやっと僕たちは大学の構内に足を踏み入れたのだ。
/23ページ

最初のコメントを投稿しよう!

13人が本棚に入れています
本棚に追加