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lunatic
あれから表面上は何も変わっていない。バイトそのものは順調だし、翔子さんとも挨拶だけをする関係。翔子さんの結婚式も恙なく終わったとのことだ。それよりもそろそろ具体的な進路を、いや具体的に受験する大学を決めなくてはならない。こちらの方が喫緊の問題点だ。
「平均」「平凡」という意味をググると「流 海人」という名前が出るというくらいの標準的な高校3年生。それが俺という存在である。実際のところ、検索結果が表示されるのはある程度の知名度があるものなので当然のことながら俺の名前は出てこない。
とは言うものの、海人と書いて「うみんちゅ」とは表示される。まったく関係ないが。
母はバツイチ、子持ちというコブ付きにも関わず、どういうわけか医者と再婚した。しかもこの地域では少し名の通った名家で、かつ何代か続く開業医と。中学3年の時だ。それからというもの、俺の自由と放埓の日々は失われ医学部に入るための勉強が始まってしまった。高校もそれなりの進学校に入学した。勉強自体はそれほど苦ではない。しかし、将来が「医者」ということで固定されているのが納得いかない。好きな言葉は「自由と放埓」だから、本来目指すところは夏目漱石「こころ」の先生、または「三四郎」の広田先生といったところだろう。進路相談の時には成績が中の中であるため、医学部は「もう少し頑張りましょう」という評価だった。母も立場上、少しは気にしているがもともとの性格がなせる業なのか、口うるさくは言ってこない。
ある朝、パンを齧りながらテレビを眺めていた。今日は晴れるらしい。登校までは時間はあるものの、父は開業準備のため、もう出勤していていない。自然、母と実質上の二人きりになった。弟はいるものの、生後3か月では寝ているだけだ。テレビでは不倫関係にあった男女が睡眠薬で心中を図ったが男の方だけが残ったと報道している。どこから現れたのか法律に詳しい評論家が自殺幇助の可能性だとか、場合によっては殺人未遂だとか喚き散らしている。ネットが隆盛を極めるこのご時世では天然記念物並みに珍しい典型的、かつ模範的なワイドショーだ。もはや珍獣。ハントしてもらいたい。
「不倫はだめよねぇ。あたしには言う権利あるし」
母がテレビを見ながらコーヒーを飲みつつ、こちらに諮る。
「母さんは不倫された方だからね」
母が視線をキッと向ける。
「あんたもはっきり言うようになったわね。それよりこれよ」
テーブルの上に何かを置く。見ると例のタバコだ。
「制服の上着に入っていた。少しは隠すとかしなさい、可愛げないわぁ。あとお付き合いしている女性がいるなら避妊はしなさいね」
思わず咳き込む。普通そういう事は直接的には言わないものだろう。
「時々洗濯物の中から長い髪の毛が出て来るのよ。はじめは父さんかと思ったんだけどあの人はこの辺では名家の生まれだからすぐ噂になるでしょう? それで容疑者はあんたに絞らせてもらいました。犯人はあなたです。じっちゃんの名に賭けて」
我が家の名探偵からタバコを奪うように取り返しながら「はい、はい」と返事だけする。逃げるようにして学校に向かうことになってしまった。こんな一日のスタートであったため、集中力は欠いていたものの、授業は滞りなく終了した。残るタスクは放課後のバイトである。今日は翔子さんと同じシフトだ。今朝のことがあっただけになんとなく意識してしまう。
「お疲れ様です。今日もよろしくお願いします」
「お願いしまーす」
翔子さんからいつもと同じ挨拶が返ってくる。店内はそれほど混んでいるわけではないが、このあとは部活の終わった中高生、そのあとは仕事帰りのサラリーマン、更にそのあとは接待帰りのサラリーマンと続き、結構忙しい時間帯となる。忙しいのは別にいい、売り上げが上がっている証拠だから。
しかし、世の中には良くない客が一定数いるのだ。一番質が悪いのが接待帰りのサラリーマンだ。接待する方は不満が溜まっているため態度が横柄になり絶対に逆らってこないコンビニ店員を自分よりも弱者と見なして無理難題を言ってくる傾向がある。接待された方は選民思想を刺激されるため態度が横柄になりバイトという非正規雇用者を世の中の弱者と見なして無理難題を言ってくる傾向がある。
要するに酒が入った人間は子供よりも質が悪い。そもそも酒は百薬の長などと言っているが、これは新朝の王莽が酒税による歳入を増加させるために流布した今で言うところのキャッチフレーズに過ぎない。百薬の長であるならばロシア人が世界で一番の長寿のはずである。実際のところ、ロシア人は先進国の中で最も寿命が短い。
「袋は有料になりますが、よろしいでしょうか?」
「ありがとうございました」
「年齢確認のボタンを押していただけますか?」
翔子さんはベテランの域に達しているためお客の捌きが早い。俺はと言うとコピー機で住民票を取得しようとしているものの、マイナンバーを持ってくるのを忘れたおじいちゃんの相手をしている。行政サービスを利用したことはないが、操作だけは知っている。バイクの内燃機関や変速機の仕組みを理解しなくても運転はできるのと同じ。
忙しさの第一波が過ぎ去ったので休憩に入る。翔子さんと同じタイミングだ。いつものように喫煙スペースで缶コーヒーを飲みながら談笑する。そして翔子さんからタバコをもらう。
「最近どう? 勉強がんばってる?」
「まぁまぁですかね。もうちょい頑張らないと医学部は難しくて」
翔子さんは「そうかぁ」とか言いながら髪をかき上げる。扇情的で好きな仕草だ。しかし、その時、ふと違和感があった。首筋に痣らしきものがある。キスマークにしてはドス黒い。
「翔子さん、首、どうしたんですか?」
その問いに一瞬、ビクッとする。
「ああ、これかぁ。なんというか。まぁ、俗に言うDV的な」
翔子さんは力なく笑いながら、痣の辺りを押さえる。心がざわついた。
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