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must not
自分の部屋に帰って荷物を纏める。パスポートは去年の修学旅行でシンガポールに行った際に作成している。あと5年間は使えるはずだ。それに誕生日の関係で既に18歳になっているから一応「大人」だ。大人扱いされる権利があるというのが正確かもしれないが、ウルグアイで就労ビザをとれば働くこともできる。
母には黙って出ていくことになるが、ウルグアイに行ってから手紙でも出せば親子の義理は果たせるだろう。最近は医学部に進学するように言ってくる。昔は「人生は一度きりなんだから好きなことをやりなさい」と言っていた。それに継父との間に弟が生まれたのだから家業はそちらが継げばいい。連れ子である俺よりもむしろそっちの方が継父にとっても都合が良いはずだ。
出発は一週間後。それまでバイトのシフトが合わないから直接会っての打ち合わせはできないが、スマホがあれば連絡はできる。それに俺の場合、昼間は学校に行かなくては家に通報が来てしまうから会えないのはやむなしだ。翔子さんにしても不必要な外出は計画がバレることの一端になるだろう。嫉妬深いDV夫が興信所を雇っている可能性もある。
そんなある日、母から鋭い質問を受けた。
「あんた、あたしに隠し事しているでしょ?」
勘なのか何なのか、母が急にそんな事を言う。継父は相変わらず開業準備でいない。そんな登校前の朝だった。
「……ないよ、別に。来週の日曜日は模試だから早いから」
その日はウルグアイへの出発の日だ。
「お母さんさ、こんな性格でしょ? だからわかるのよ。あんたが何かしでかそうとしていること……」
「ふうん……」
「まぁ、何を具体的に隠しているのか知らないけどさ。後悔のないようにしなよ。人生なんて一回しかないし、誰もあんたの人生の責任なんて取れないし。人に迷惑をかけないようにって言いたいところだけどさ。生きている限り、人に迷惑はかけるしね」
その言葉が餞のように聞こえた。
約束の日曜日。
「じゃあ、行ってきます」
模試に出発するようにして家を出る。本当はこれからウルグアイに出発するのだ。もうこの家に帰って来ないと思うと少し感慨深い。待ち合わせ場所は成田空港第1ターミナル北ウイング4階「ご案内」カウンター前のベンチだ。
日暮里駅1番ホームで京成スカイライナーに乗り込む。成田空港には約束の時間よりも早く到着した。待ち合わせのベンチには翔子さんの姿はまだない。模試の開始時間に合わせて家を出たから早く着くのは当然。しかし気が逸っているのも確かだ。念のため、スマホで翔子さんから昨晩届いたメールを確認する。時間、場所ともに間違っていない。
目の前を女子大生だろうか、女性グループの一団が楽しそうに会話しながら通り過ぎる。一足早い卒業旅行か何かなのだろう。ハワイ行きのターミナルへと進んでいった。
しかし、約束の時間になっても翔子さんは姿を現さない。スマホに連絡しても出ない。最悪のシナリオが頭を過る。
DV夫だ。
何らかの理由でウルグアイ行きが露呈してしまい、監禁されているのではないか。考えられる理由はそれしかない。
どうする?
どうすればいい?
最適解を探す。ときおり流れる英語のアナウンスに集中力が削がれる。
そんな時、スマホが鳴った。
メール着信だ。翔子さんから。
スマホを落とさないようにしてメールを確認する。手が震えて上手く操作できない。
「ごめんね」
それだけだった。たったそれだけ……
相変わらずときおり流れる英語のアナウンスに集中力が削がれる。
外国人季節労働者だろうか、暗い顔をした一団が無言のまま通り過ぎていった。
こうして当たり前の日常へと戻っていくことになった。
結果として模試をサボったことが母にバレたが特に何も言われなかった。「詳しい事は詮索しないけど、いい薬になったんじゃないの」とのことだ。
この一件から息苦しさを自覚した。
進学は文学部に行きたい旨を父に相談した。
あっけないほど簡単に了解された。母の口添えがあったのだろうことが想像できる。
まぁ、家業を継ぐなら血縁者と考えるのが当然か。
翔子さんとの関係を忘れかけた頃(忘れようと思って忘れられるようなものでもないが……)、ウルグアイから観光地であるポシーストビーチの絵ハガキが届いた。「自由と放埓」を感じさせるほどに眩しい。
差出人はないが翔子さんからなのは間違いない。
彼女は自分の答えを見つけたのだろう。
誰も知り合いのいないウルグアイでひっそりと。
**********
ウルグアイの太陽は眩しい。
私は嘘の約束をした。高校生とだ。始めは遊びのつもりだったが、こちらも少し本気になってしまったことは否めない。
しかし前途ある若者である彼から将来を奪っていいのか。いや良くない。だから置いていくことにした……
いや、それは嘘である。
ただの言い訳だ。私はそんなに分別のある大人ではない。
「自由と放埓」がほしい……ただそれだけ。
その生き方には嘘はない。誰かと寄り添って、頼り、そうやって生きていくのは私の生き方ではない。しかし、彼に絆されてしまっていたのは事実だった。それは私が私でなくなっていたことの証拠。「彼」という甘えが私をダメにする。
だから、捨てるのだ。
他人を騙した罪(ましてや高校生だ……)が消えるわけではないが、彼には眩しいポシーストビーチの絵ハガキを送ることにした。
これが私が求めていた景色だったから。
彼には私が見つけた答えを見届ける権利がある。
絵ハガキを購入し、ポストへと投函する。差出人は書かない。
やはりこの国の太陽は眩しい。
そして、私は私の答えを見つけるのだ。
誰も知り合いのいないウルグアイでひっそりと。
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