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lost my way
暗い部屋に一条の光りが差し込んでいる。それがカーテンの隙間から差し込んだ夜の街の光りだと気付くのに少し時間が掛かった。俗に言う「賢者タイム」の時は大体いつもこんな感じ。体を起こして枕元のタバコに手を伸ばしたが、翔子さんが先に火を点けようとしている。
「海人君、タバコは体に良くないよ。未成年は清く正しく生きないと」
そう言いながら吸った煙を吐く。言っている事とやっている事が矛盾している。大人の方が悪いと分かっていながら悪い事をする。子供より質が悪いと思う。
「吸いながら言っても説得力ないですよ」
バイトのシフトが合った時だけではあるが、たまにこうして過ごす。付き合っているわけではない。この関係をバイト仲間は誰も知らない。現実とは小説より奇なのだ。
「それ何ですか?」
翔子さんがタバコを吸いながら目を落としている雑誌のことだ。
「ああこれ? 結婚総合情報誌ってやつ」
表紙ではウエディングドレスを上品に着込んだハーフっぽい女性モデルが微笑んでいる。典型的な結婚総合情報誌だ。
「翔子さんでも結婚とか気になるんですか?」
別に皮肉を言ったつもりはないが、言葉にすることで微妙な表現になってしまった。しかし、翔子さんは気にしている様子はない。
「んー。この号にはさ、海外での挙式っていうのが特集されてるの。移住後の新婚生活の様子とかも。もし結婚とかするなら、知り合いが一人もいないところでひっそりという方があたしには合ってる気がするんだよね。そういう妄想が好き。あとさ」
翔子さんは何かいやらしい笑顔を浮かべている。
「あと、何ですか?」
「自由を求めるならウルグアイかな」
ウルグアイ? 南米の? 唐突感がハンパないが。
「知ってる? ウルグアイでは2013年からマリファナが解禁されているんだよ。アメリカは州単位でOK。でも、日本はねぇ。ある意味、発展途上国?」
「さっき清く正しく生きるみたいな事を言っていませんでした?」
こちらを見ながら煙を長く吸って、長く吐く。翔子さんの香りが微かに移った甘い紫煙が部屋に充満してくるのを感じる。
「あたしが好きな言葉は自由と放埓なの。それにうちみたいなコンビニでタバコに交じってこっそり売られているのを想像したら面白いと思わない?」
タバコを美味そうに吸っているその姿を見てハッとする。
「翔子さん、まさかとは思いますが、それってマリファナじゃ……」
「冗談よ、冗談。海人君ってそういうところつまらないよね」
悪戯っぽくそう笑うとタバコ(?)を揉み消しながら翔子さんは続ける。
「あたしさ、実は来月に結婚するんだ」
それでその雑誌か。ウルグアイの件は単なる照れ隠しということだろう。
「ああ、おめでとうございます? 的な」
「うん、ありがと」
そう言いながら髪をかき上げて耳に掛ける。その仕草が今日は妙に扇情的に感じる。この後、お互い別々にシャワーを浴びた。
この一連のやり取りがこの関係を今日で終わらせるという合図なのだろう。大人の女性は考えている事が恐ろしい。シャワー室の排水溝の中に翔子さんの残り香が跡形もなく流れていくのを感じた。
戻ると翔子さんの姿はない。いつも通り、先に出て会計を済ませてくれたのだ。最後まで律儀。そんな事を考えながら上着を着る。すると胸の辺りがゴワゴワする。まさぐるとタバコがひと箱入っている。さきほど翔子さんが吸っていた銘柄だ。
餞別を上げるのはこちらの役目かと思っていたのだが。
やはり大人の女性は一枚上手だ。
タバコには翔子さんの甘い香りが移っていた。
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