第10話 ホストクラブ

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第10話 ホストクラブ

杏子はいつもの席に座って、カイトが戻ってくるのを待っていた。 目の前には以前杏子が入れておいたボトルが並ぶ。 杏子はそれをチミチミ飲みながら、ほとんど客の入っていない店内を見渡していた。 杏子には店に早めに入る理由がある。 それは早めに帰宅するためではない。 客が少ないうちに来て、少しでも指名ホストのカイトを独占するためだった。 しかし、なかなかカイトは来ない。 同伴で一緒に店に来たはずなのに、あまりに待たせ過ぎだと思っていた。 そんな時、横からやせ形のホストが現れた。 その男はホストとも思えない残念な顔立ちだった。 彼は膝をつきながらカイトが来るのが遅れることを丁重にお詫びし、別のお茶引きのキャストを連れてくることを説明した。 そして、やってきたのがサクヤと新人のカオルだった。 サクヤはカイトを指名する前のお気に入りホストだ。 杏子に会うと親しげに近づき、久々じゃない?と話しかけてくる。 慣れた要領で杏子の隣に座り、自然にソフトタッチしてスキンシップを取っている。 それを見るだけでカオルはイライラしていた。 サクヤがテーブルの上のお酒を用意している間に、杏子は横目でカオルを覗いて見ていた。 顔だけで言えば、ヒビキと対をはれるほどの美形である。 しかし、愛想というものがなく、慣れていないのか不穏な雰囲気を醸し出していた。 せっかく顔がいいのに勿体ないと杏子は内心思った。 「すいませんね。カイト遅くなっちゃって」 サクヤがついだ酒を渡して、カイトの代わりに謝った。 杏子は本音とは裏腹にいいのよっと寛大さを見せる。 じゃあ、俺もいいですかと言ってサクヤは自分の分のお酒をついだ。 カオルの分はいいのかと杏子が聞いたが、未成年なんでとボーイに代わりのお茶を注文した。 その頃、後ろの席でレンが別の客を相手していた。 メインはナンバー2のホスト、ミゲルだった。 その席の助人としてレンはついている。 ミゲルは見た目の良さよりノリの良さを売っていた。 ラフに相手に話しかけ、相手の懐に入り込む、彼の常套手段だ。 レンは正直なところ、目の前の客よりも後ろの席の杏子とカオルの方が気になっていた。 席に着いたのがカイトではなくサクヤというホストだったが、それでも十分親しげに話している。 杏子にとってこの店は自分の居場所なのだと実感しているようだった。 そんな時、後ろの方からカオルの話し声が聞こえた。 「杏子さんって子供さんいらっしゃるんですか?」 カオルの聞いたこともない優しい丁寧な言葉。 かなりぎこちなく言い慣れていない感じが伝わる。 隣にいたサクヤが少し不機嫌そうな顔をカオルに見せた。 現実を忘れるために来ている杏子に、そう言ったリアルな話は避けたかったからだ。 しかし、杏子は平然と答えた。 「ええ、いるわよ。息子と娘の二人。ここの子達に負けないぐらい美形だけれど」 皮肉なのか冗談なのかわからないような言い方だった。 隣にいたサクヤが話を変えようと再び杏子に話しかける。 「今日、カイトと同伴だったんですよね? どこ行ったんすか?」 「カフェとか、私のお気に入りのマッサージ店とかかしら」 「いいっすね。今度俺も――」 「お子さん、家であなたを待ってますよ」 サクヤの話を割って、カオルが杏子にハッキリ言った。 サクヤは気まずそうな顔でカオルを見て、いい加減にしろと口パクで伝える。 「すいません。こいつ新人で、礼儀がなってないんですよ」 杏子の機嫌を損なわないようにとフォローを入れるが、杏子の方は動じる様子もなく真っ直ぐカオルの目を見た。 「待ってないわよ。誰も私なんて待ってなんていないわ」 「どうしてそんなこと言えるんですか?」 カオルも聞き返す。 二人の間には不穏な空気が流れる。 もう、サクヤが入ってどうにかなるような雰囲気ではない。 「うちの子はね、ここにいるような子たちよりもずっと優秀なの。私がいなくてもなんでも出来るんだから、必要ないわ」 杏子は自信たっぷりに言った。 成瀬や葵が同世代の子よりも優秀なのは確かだ。 しかし、そんなことは関係ないとカオルは思った。 「何でもできたら、母親はいらないんですか? 母親の役割は子供の面倒を見ることだけなんですか?」 さすがに杏子も不快に感じ始め、眉間にしわを寄せる。 「何が言いたいの?」 「子供はどんなにダメな親にだって側にいて欲しいものなんです。何かしてほしいわけじゃない。ただ、自分たちに関心を持ってほしいんです」 杏子は黙ってカオルを見つめた。 後ろにいたレンも黙ってカオルの言葉を聞く。 「ここにいる奴らはみんなあなたが必要なわけじゃない。あなたのそのお金と自分をいいと認めてくれる承認欲求だけです。ここにはあなたが本当に求めるものなんてありません!」 「そんなのわかってるわよ!」 意外にも杏子はその事実を理解していた。 それでも彼女はこの幻想の世界に毎日足を踏み入れていた。 「わかって来ているの。ここは欲望だらけで愛なんてない。でも、それでいいの。本当に欲しいものが手に入らない事実を実感するぐらいなら、嘘で固められたこの場所の方がよっぽどマシなのよ」 レンはその意味を理解していた。 杏子の夫、成瀬の父はよその女を愛した。 妻である自分を捨て、他の女に走ったのだ。 杏子はその事実が許せなかった。 だから、こんな場所まで逃げて来たのだ。 真実から目をそらすために。 だから、彼は母親を攻めきれなかった。 きっとあの家に一人でいるのはとてもつらい事だったからだ。 そんな時、レオンに無理矢理引き止められていたカイトが杏子の元に帰って来た。 しかし、その場にはすでにカイトの居場所はなかった。 唖然として、その光景を見ている彼がいた。 「それでも、あなたを本気で求めて待っている人がいます。素直に口には出せないかもしれないけど、あなたが家にいないことを寂しく感じている。あなたの欲しい愛が何かは知りません。けど、あなたが与えられる愛はそこにあるじゃないですか!?」 何言っているんだよとカイトはカオルを止めようとしたが、その場をレオンが止めた。 「すべてに目を背けるなとは言いません。けど、自分を見返りなしに愛してくれる存在を無視するのはもう辞めてください。あなたが他の相手に気持ちを寄せていることで、あなたと同じように苦しんでいる人がいるんですよ」 その瞬間、カオルに誰かが駆け寄ったのが見えた。 レンも驚いて立ち上がる。 それは、杏子の娘の葵だった。 葵がなぜこんな場所にいるのか杏子には理解できず困惑する。 「もういい。もういいから!」 葵はカオルに向かって叫んだ。 レンもカオルの横に並ぶ。 「蓮君? 葵ちゃん? どうして?」 杏子は一気に気が抜けた顔をした。 それはまさに母親の顔だった。 この店で威勢よく話している杏子ではない。 「私、もうお母さんなんていらない。お母さんがそんなに他の男の人がいいっていうなら、その人の元に行っちゃえばいいよ。私にはお兄ちゃんがいるもん。だから、二人で大丈夫だから!」 レンはそっと葵を抱きしめた。 母親がいなくて一番寂しがっていたのは葵だ。 その葵がいらないと言うのなら、レンに言う言葉はなかった。 「いいわけないだろう!!」 今度はカオルの方が叫んでいた。 葵は驚き、顔を上げる。 「いなくていいわけない。そんなやせ我慢したっていい事なんて一つもないんだ。あんたらにはちゃんと母ちゃんも父ちゃんも生きているじゃないか。こんなくだらないプライドの為に捨てる必要あるのかよ!?」 カオルの言葉にはっとさせられる。 カオルにはもう母親はいない。 どんなに淋しいと思っても会うことすら出来ないのだ。 葵は嘘を付いている。 そして、杏子もそれに気が付いている。 だから、自分も逃げてはいけないと思った。 「お母さん、迎えに来たよ。一緒に帰ろう」 成瀬はそう言って杏子に手を伸ばす。 もう片方の手には葵の手を握った。 杏子は唖然として声が出なかった。 そして、その差し出される手を見つめる。 「俺たちにはまだあなたが必要なんだ。お父さんは帰ってこないけど、俺と葵はちゃんとお母さんのいる家に帰るから」 その言葉を聞いた瞬間、杏子は泣き崩れた。 カオルもそれ以上何も言わなかった。 葵は成瀬の胸の中で泣いていた。
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