第15話 一臣

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第15話 一臣

沈黙は長く続いたが、口を割ったのは一臣の方だった。 「ごめんね、蓮君。蓮君がずっとお母さんと葵を支えてくれていたんだよね」 成瀬は少しの間黙っていたが、首を横に振った。 「支えてない」 「え?」 「父さんの代わりなんて、俺には出来なかったよ」 成瀬は一臣に正直な気持ちを伝えた。 杏子がアルコールに依存して、父親が出て行った日から自分が家族を守らないといけないと思っていた。 しかし、結局は杏子がホストクラブに逃げ、葵も荒れてしまった。 葵はもともとあんなにきつい物言いをする子ではなかった。 よく笑うし、よく泣く、忙しない女の子で成瀬にもよく甘えていた。 お兄ちゃんと呼びながら、後ろからついて来ていた。 成瀬にとって葵は可愛い素直な妹だったのだ。 そして、母親の杏子も優しい人だった。 子供を蔑ろにして出て行くような人じゃなかった。 男に縋るような弱い女でもなかった。 父親が家からいなくなった事実を知った日から、すべてが変わってしまっていたのだ。 「お母さん、お父さんがいなくなってからもっとアルコールに依存するようになって、そのうち夜中まで帰って来なくなった。葵も笑うことが少なくなって、部屋に引きこもる時間が長くなっていた。その間、せめて家事だけでもって思って頑張って来たけど、俺だって限界だったんだ」 成瀬は苦しそうに答えた。 一臣も居た堪れない気持ちになる。 「そっか。本当にすまないと思っている」 「そうだよ。お父さんがいなかったら、誰がまともな料理を作ると思っているの? 誰がちゃんと洗濯物や掃除をすると思っているの? お母さんや葵が出来ないの知っていて、俺だけに押し付けるのなんてひどいよ」 一臣はくすっと笑ってしまった。 そうなのだ。 杏子は家の仕事をしないわけではないのだが、家事はあまり得意ではない。 料理も大雑把な物しか作れないし、洗濯物もすぐに服をダメにしてしまう。 アイロンだって苦手で、基本後片付けは全部一臣がやっていた。 それすら懐かしいと思えた。 「やっぱり、葵も苦手なのかな、家の事」 「自分のことすらまともにできないよ」 成瀬は拗ねるように言った。 今まで葵や杏子に不満がなかったわけじゃない。 けれど、何度成瀬が言っても2人は改めようとしないのだ。 「お父さんはやっぱりそんなお母さんが嫌で出て行ったの?」 成瀬はずっと心のどこかで思っていたことを聞いた。 杏子は美人だが手間もかかる女だ。 愛想つかして出て行ったとしても不思議ではない。 「違うよ。お父さんが弱かっただけなんだ」 一臣も素直に答える。 成瀬は一臣の意外な言葉に振り向いた。 「お母さんがアルコール依存症になったのは、ピアノ教室がうまくいかなかったことだけじゃない。教室の生徒さんが自殺したんだ。その子はね、すごくピアノにも一生懸命な子でお母さんはよく目にかけていた。だから、彼女が悩んでいたことに気づいてあげられなかったことが許せなかったんだよ」 「でも、それはお母さんの所為じゃないじゃないか」 「そう、お母さんの所為なんかじゃない。僕もそう言ったんだ。けど、あの人は責任感が強い人だから、きっと授業をするたびに思い出してしまっていたんだろうね。自信もなくなってきて、それを誤魔化すようにお酒に溺れた。僕はそれを知っても止められなかった。それどころか、そんなお母さんから逃げてしまった」 一臣は優しく成瀬を見る。 それは成瀬の知る父の姿だった。 「でも、その頃には今の人と付き合っていたんでしょ?」 「いや、付き合っていたとは違った。彼女は事務補助員でね、アルバイトの子だったんだ。僕が帰りたがらないのを知って、自分の家に来るように誘ってくれた。結果的に僕はお母さんを裏切るようなことをしてしまったけど、彼女には本命の彼氏がいたからね。ずっと彼女の側にもいられなかったんだ」 成瀬は引きつった顔を見せる。 W不倫ならぬ、二股不倫だったとは。 「それで、彼氏が来る日はこのネットカフェに来ていたの?」 「恥ずかしながらね。家に帰るのが怖かったんだ。帰る日が減れば減るほど、怖くなっていった。裏切った僕がどんな顔して君や葵に会えばいいんだろうって。今更、お母さんにどんないい訳をすればいいかわからなくなった」 成瀬は全てがわからないわけじゃない。 結城同様に不倫する男の気持ちはわからないが、何もかも逃げ出したい気持ちは知っていた。 杏子が飲んだくれた状態で家にいた時、葵がそれを見て悲しそうにしていた時、成瀬も逃げたかった。 これは現実ではないと思いたかった。 だから、父親がいなくなった時は心細かったが、逆に母親が他の男に逃げた時、一瞬ほっとした。 それは、母親の堕落していく姿をもう目の前にしなくてよくなったからだ。 悪態をついていても、葵は元気でいられた。 部屋に閉じこもることも減った。 母親が自分たちを裏切ったというのに安心するなんて、自分はどこまで最低なのかと思ったほどだ。 もし葵がいなかったら、成瀬は今のようには生活出来ていなかっただろう。 あの家にはきっと誰もいなかったはずだ。 ふと、結城の言葉を思い出した。 成瀬が最初の父親の理解者になってやれっと。 そうなのだ。 今、一番父親に寄り添えるのは自分なのだ。 「結城さんに言われたんだ。くだらないプライドの為に、生きている家族を捨てる必要はないって。最初は俺も葵もお母さんには怒っていて、お母さんが俺たちをいらないって言うならそれでもいいと思っていた。けど、そうだよね。それってただの意地だ。意地を張って拒絶したっていい事なんて一つもない」 だからと成瀬も顔を上げた。 「お父さんも帰ってきなよ。気まずいなら俺が一緒に謝るから。どんなにお母さんや葵が責めても、俺だけはお父さんの味方になるからさ。もう、一人じゃないよ」 成瀬はそう言って優しく笑った。 「蓮君……」 一臣も息子の大人になった姿に感動していた。 あの時、まだ息子は中学生だった。 知らない間にこんなに成長していたのだと実感した瞬間だった。 「でも……」 しかし、一臣は続ける。 「責められるのはいいんだ。むしろ攻められたいと言うか、罵倒されたいと言うか、しかも葵ちゃんにまで攻められるとか、考えるだけでお父さん、たまらないよ」 一臣ははあはあと息を荒くしている。 成瀬はこの状況に理解できない。 「お父さん?」 「僕ね、お母さんがアルコール依存症になってから、あまり家で攻め立てられなくなって、本当は淋しかったんだよ。元気な時はさ、笑顔で僕をよく罵倒してくれていたじゃない? お母さんって本当に気が強いからさ、何か気に入らないことがあると僕をよく攻めていたんだよ。それが嬉しくて、嬉しくて」 一臣の興奮は収まらない。 思い出しただけで体がうずいた。 「実はそのアルバイトの美香ちゃんもさ、すごく口が悪くて、何かと僕を罵倒してくれていたんだよ。もう、彼女の家では僕は犬でさ、少しでも機嫌を損ねると怒られちゃって。しかも、彼氏が来たら、一方的に追い出されるでしょ? もう身勝手すぎて、たまらなかったんだけど、最近その美香ちゃんにも誘われなくなって、僕はずっとここで静かに過ごしていたんだ。でも、そうだよね。そろそろ帰って、お母さんや葵ちゃんに罵倒されなきゃだめだよね」 彼は自分の身体を抱きしめ、くねらせている。 本当に気持ち悪いと成瀬は自分の父親ながら軽蔑した。 しかも、そのタイミングで外に出ていた2人も戻って来る。 2人とも汚物でも見るような蔑んだ目で見つめていた。 「お前の父ちゃん、むっちゃきもいじゃん」 浜内は引きつった顔で答える。 すると興奮していた一臣が結城に目線を向けた。 「結城さんだっけ? 君って昔の杏子さんに少し似ているんだよね。口が悪いところとか態度が悪いところとか」 結城はこれ以上なく真っ青な顔で一臣を見ていた。 そして、再びネットカフェに叫び声が響く。 「成瀬!! この気持ち悪い親父をどうにかしろぉ!!」 「お客様!! これ以上迷惑かけたら警察呼びますよ!!」 スタッフの怒鳴り声も再び響くのだった。
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