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第1話
煙草が切れそうだったので近所の自販機まで出向くことにした冬彦は、和服を脱いでドレスシャツとスラックス、カーディガンに着替えた。
そこで少し困る。和服のたたみ方が分からない。
そもそも着たくて着た訳でなく、取材と称して先程までいた一団の中のスタイリストに半ば無理矢理着せられたのだ。
当年とって二十七歳、幸いながら世間様のウケが良く、インテリアコーディネーターとして糊口をしのいでいる自分が何故、雑誌の取材で和服を着用しなければならないのか冬彦には激しく疑問だった。
だが妙に落ち着きがあると言われ続けた学生時代から、自分に和服が似合うのも承知している。それに職業にそぐわず古びたこの家の雰囲気にも和服は自然と溶け込んだ。
仕方ない、今日明日にでもスタイリストが取りに来るまでだ。何だかいやに高価な大島紬だとか言っていた茶系の着物には、現代のハンガーで我慢して貰うしかなかった。
件の大島と長襦袢に帯などを全て吊してしまうと小銭入れだけポケットに突っ込み、玄関で靴を履く。身内の誰もが相続を面倒がって更地にされる寸前に、住人として立候補した古びた家のドアは今時カラカラと横にスライドさせる引き戸だ。
さすがに基礎の腐食や水回りなどは手を入れたが、見た目は亡くなった大叔母が独りで護っていた頃と何ら変えぬまま、冬彦が暮らし始めてもう二年が経過している。
外に出ると板塀を巡らせた家は殆ど玄関しか見えない。
板塀沿いにぐるりと家を狭い庭が取り囲んで梅だの桜だのが生えているのだが、そろそろこれも手を入れないと近所の子供たちが『幽霊屋敷』などと仇名を付けそうな案配だ。
尤も秋も深まった今は木々も葉を殆ど落としている。
ぶらぶらと歩きながら青く高く晴れ上がった空や、余所の家の庭で実を付けた柿などを鑑賞して自販機に辿り着き、煙草三箱を手に入れた。あちこちのポケットに押し込んで帰路に就く。
そう焦らずともいいが放っておくことも出来ない仕事が一件入っているので、のんびりと散策に時間を費やすこともできない。子供たちはまだ下校前で通りは静か、不思議とご近所の奥様方にも出会わなかった。
そうして家に着いてみると客がいた。
玄関前で少々戸惑った目をした男は冬彦よりも若く、二十二、三だろうか。
「あのう、ここって『立川』さんのお宅じゃないんですか?」
珍しい客もあったものだ。立川は三年前に逝った大叔母の名字、大叔母は母方なので冬彦とは名字が違う。自分は守谷冬彦だ。何れにせよ表札を出していないので訪問者を悩ませることが多いのだが、今更『立川』を訪ねてくる者は殆どいない。
「立川は亡くなった大叔母、今は守谷だ」
最短で説明を終え、そろそろまた表札を出すべきかと冬彦は思う。二度ほどプラスチックのプレートを貼り付けたのだが、台風の折に飛ばされて何処かに行ってしまったのだ。
そんなことを考えていると、若い男は目的地を見つけてホッとしたらしく、気弱そうな笑顔を見せた。
「ああ、良かった。スタイリストの藤川さんから頼まれてきました」
「って、もしかして着物のこと?」
頷いた若い男はどうやらお使いに来たようだ。大きめのガーメントバッグを持っている。
「じゃあ、ちょっと上がってくれるかな?」
ハンガーに掛けたままでは返せず、高価らしいので丸めて袋に詰め込むなどという蛮行もできない。それを察して寄越したお使いだろうと、冬彦は鍵を開けると男を部屋に上げた。
みしみし軋む廊下を歩き、デスクトップパソコンと幾つもの書棚が席捲する書斎へと案内する。ふすまは開放したままでリビングと寝室が丸見えとなっているが、男相手に必要以上の気遣いはしない。だが自分が飲みたかったので書斎の隅のコーヒーメーカをセットした。
男は寝室のクローゼットの扉にハンガーで掛けてあった着物を見るなり小走りに近寄って、早速ハンガーを外している。やはりそれも蛮行だったかと思ったが、けれどそれしか手がなかった冬彦としては気がつかないフリだ。
寝室の畳の上で着物を広げた男はそれをたたみ始めるかと思いきや、バッグから棒のようなものを取り出すと両端をスライドさせて長くし、和服用のハンガーをこさえて着物と長襦袢を丁寧に掛ける。そうして和服一式を元あったクローゼットの扉にぶら下げた。
「今日、持って帰るんじゃないのか?」
「ええ。ずっと仕舞ってあった品ですから、虫干しも兼ねて風通しです」
ということは明日もまたこの男かスタイリストと付き合わねばならないらしい。仕事が詰まっているというほどではないにしろ、少々の面倒臭さを感じた冬彦だが顔には出さない。
その間も若い男は高価だという大島紬を愛しげに撫でている。まるで冬彦の存在すら忘れてしまったかのようで、もしかして伝統工芸に関わる仕事か研究でもしているのだろうかと冬彦は勝手に想像した。
放っておくといつまでも着物を撫でていそうだったので少し大きめの声を出す。
「ご苦労さん。コーヒーを淹れたんだが付き合わないか?」
「あ、すみません。頂きます」
やっと着物から離れてリビングにやってきた男に二人掛けソファを勧め、自分は定位置の独り掛けに身を沈めた。そしてカップを口にしながらロウテーブル越しに男に訊ねる。
「きみ、名前は?」
「あっ、自己紹介もしないで僕ってば! すみません、由良と呼んで下さい」
「ああ、それは気にしてない。ただ何と呼べばいいか分からなかったからな」
じつを言えば『由良』が名なのか苗字なのかも訊きたい気もしたのだが、安堵したらしい由良の微笑みに釣り込まれたかの如く訊けずじまいとなった。
由良がリビングにひしめく調度類を見回し始めたので冬彦は言い訳だ。
「和室の中に洋室用の家具を詰め込んだら、こんなにフリースペースのない部屋になってしまってね。元あったモノも捨てられずに……インテリアコーディネーターが、笑えるだろう?」
「いいえ、単なる和洋折衷っていうのとは違う、不思議な落ち着きのある部屋ですね」
「そうとでも言わないと褒めどころもないからね。皆がそう言うよ」
「嘘じゃないです、本当に暖かみがあって――」
「分かった分かった。そうムキにならなくてもいいから」
真剣な由良の目に笑いながら、冬彦は煙草を取り出すと一本咥えて火を点けた。カシャリとガスライターをロウテーブルに置くと、まだ室内を見回している由良を観察する。
和服に愛着を持っている割に、本人は長袖のプルオーバーとジーンズ、上着はコットンジャケットという無造作な格好をしている。冬彦は頓着しない上に自由な業界とはいえ、場所によってこの姿は眉をひそめられることもあるだろうと思われた。
いい大人がスタイリストのお使いなどというアルバイトのような仕事をしているのも、もしかしてそういった処に原因があるのかも知れない。
などと妄想の域まで想像が膨らみ冬彦は密かに苦笑した。だが悟られたか、気づくと由良はじっとこちらを見ている。その顔立ちは整っているが、やや線が細くて、いわゆる女顔だ。おまけに身も細く、このいでたちは体型を隠すためでもあるのかと思う。
「ええと、守谷さん?」
「何だ?」
「煙草、ひとくちしか吸わないで全部灰になっちゃったんですけど」
「あ、ああ。そうか」
妄想している間にフィルタだけになってしまった煙草を捨てると、もう一本点けて咥え煙草で立ち、コーヒーをサーバごと持ってきてカップふたつにおかわりを注いだ。更に貰い物のクッキーの缶を開ける。由良の方に押しやっておいて、また独り掛けソファに座った。
「あのう、ここにお一人で住まれているんですか?」
「ああ、今はそうだな」
「今は?」
「いわゆる『破局』を迎えたばかりでね」
「えっ……?」
ハッとこちらを見たのちに言葉もなく小柄な身を縮め、頭を下げた由良を冬彦は笑う。
「綺麗に別れて今はいい友人だよ。由良くん、あんたが凹むことは一切ない」
「そう、ですか。でも本当にごめんなさい。僕、そういう失敗が多くて……」
「なるほど。じゃあ、謝る代わりに何かして貰おうかな」
「掃除でも洗濯でも何でもしますから」
まるで下僕にでもなるかのような覚悟を決めた目に思わず冬彦は吹いた。
「洗濯は乾燥までオート、掃除は毎週土曜に業者を雇ってる。心配無用だよ」
「なら、どうすれば許して貰えますか?」
「許すも許さないもないが……そうだな、由良くんはこのあと予定があるのか?」
「いえ、何も。それとただの『由良』でお願いします」
「分かった、由良。なら晩メシに付き合って貰う。近くの中華屋が独りじゃ入りづらいんだ。テーブル席ばかりでね」
「あの、でも僕……じつはバス代しか持ってなくて」
「誘ったのは俺だ、由良におごらせるような真似はしないよ」
言いつつ二十歳を越えた男にバス代だけ持たせてお使いさせたスタイリストに、冬彦は内心酷く腹を立てていた。そんな気分は敏感に読み取るらしく由良は押し黙っている。
だがふいに挙手して見せ、頷いてやると由良は提案した。
「じゃあ晩ご飯、僕が作るっていうのはダメですか?」
「料理なんかできるのか?」
「まるで素人なんですけど、それなりには」
「ふうん、手料理か。久々だな。それは愉しみかも知れん」
「あんまり期待されても困るんですけど、できる範囲でリクエストに応えますよ」
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