二日目、午後

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 香本は隣にいた壮年の男性の胸ぐらを掴むと思いっきり地面に叩きつける。背負い投げでもするかのように男の体は宙を舞った。受け身を取れなかった男性は悲鳴を上げ痛さのあまり顔をしかめている。 「ギャーギャーギャーギャーうるせえな、デケエ声でしゃべらなくたってこの距離だったら聞こえてるよ。なんで年寄りって無駄に声がデケェんだ、耳が遠いからか」 「な、何をするの、やめて!」  どうやら男性の妻らしき女性は震えながらも香本を止めに入る。しかし真面目そうな見た目とは裏腹に香本は女性を思いきり睨みつけた。そのあまりの迫力に女性は息を呑んで黙り込んでしまう。 「ペットの躾ぐらいしておけ。次騒いだら殺すぞ」 「あ、あなた、こんなことをして」 「知り合いの警察や弁護士とやらに言いたいんだったら好きにしろ。それよりも人の話聞いてたか、次騒いだら殺すぞって言ったよな」  本当に今にも人を殺しそうな雰囲気でそんなことを言えば、女性は縋るように東雲を見る。これは傷害罪になるのではないか、早く取り押さえて欲しい、そう思っているのだろう。しかし東雲も警察官も動く様子がない。東雲に至ってはあくびをしている。 「あなた警察でしょ、早く何とかしてよ!」 「警察はボランティアじゃない。客同士のただの揉め事に首突っ込む気はないな。そんなくだらんことより、やらなきゃいけないことが山積みなんでね。たった今死んだこっちの捜査をほったらかして、こんこんと説教でもしてほしいのか? 捜査官の業務範囲にもめ事の仲裁、なんて書いてねえよ」  あまりの対応に客たちは言葉を失う。 「ニュースでやたら取り上げるから、勘違いしているようだが。刑事は犯罪が起きてからの対応が仕事だ。犯罪を抑制するのは仕事に入らんし、物事には優先順位ってものがある。お前ら自分でなんとかしろ」  軽く笑い飛ばしながら言った東雲だったが、大きな舌打ちが聞こえてそちらを向いた。香本だ。 「クソの役にも立たねぇ奴が何言ってもまるで説得力がねえよ。このジジイに言った事はそっくりテメェにも言ってんだよ、役立たずが」  香本の言葉に東雲の目つきが鋭くなる。誰一人、二人の会話に口を挟むことができない。 「あんまりお巡りさんに失礼な口きかんで欲しいね。公務執行妨害で逮捕されても知らんよ」 「公務執行妨害は一体何に適用されるのかも知らねえのか、ド低脳。そこの警官にルールブックでも貸してもらえ」  苛立った様子を消して、無表情になった香本は静かに言った。 「じゃ、次からはテメェにゃ公務執行妨害にならねえように手加減なしでどうにかすればいいってことだよな?」  それだけ言うと静まり返った玄関ホールを後にしエレベーターに向かって歩き出した。少し遅れて久保田が追ってくる。 「香本君」  驚いたり怯えた様子もなく久保田が話しかける。香本はそれには返事をしなかったが、右手で自分の頬をぱしんと叩いた。それほど強くない軽い音だ。 「……すみません」 「いや、あの。お前どうしちゃったの」  困惑した様子で梅沢が聞いた。落ち着いた久保田と違って梅沢は戸惑っているようだ。 「いや、ちょっと色々あって。……今後のことも考えて、話しておこうか。部屋にいる警察には聞かれたくないからちょっとこの場で良いですか」  今スタッフたちは皆玄関ホールに集まっているはずだ。盗み聞きされる心配は無い。 「昔から大きな音が苦手で。突然耳元で大きな音や声を出されるとさっきみたいに怒りが抑えられない状態になるんだ」 「だよな。いきなりブチ切れるからびっくりした」 「普通じゃないから何度も診察受けてみたんだけど。これといった病状があるわけじゃなかった」 「不愉快に思ったら言ってくれ。精神的なものではなく?」  久保田の言葉に香本はうなずいた。 「先天的な病気と、精神面どちらも診察を受けました。感情のコントロールができないのなら脳に何か異常があるんじゃないかと思って精密検査も。でも結局どちらも異常なしでした」  カウンセリングに至っては頑張って治していきましょうねと、どうしようもない人間を扱うような方向に持っていかれそうになったので馬鹿らしくなって通うのをやめたと言う。気を紛らわせるだけの処方なので根本的解決になっていないからだ。
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