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奥にアトリエスペース。こっちは整頓されず、絵の具やら彫刻刀がカラフルに散らかったままの空間が広がり、そこにも彼女はいなかった。
(また、か)
可笑しくなって、僕は少し苦笑い。
彼女らしい、いつもの光景なのだ。
それが、ハンナさんの愛する、枯れない日常。
僕はアトリエのテーブルの脚のあたりに荷物を置いて、慣れたようにそこから出入りできる裏手のドアを押した。
「ハンナさん」
「あ、倉田さん。そっか、もうそんな時間か」
果たして店主はやはり其処にいた。
海の見えるベンチに座るハンナさんが、少しだけ顔を僕の方に向けて言う。
今日もハンナさんは綺麗だった。
風に靡く短めの髪は彼女らしい自由さで舞っていて、午後の陽射しに乱反射するそれが、中心にある微笑みを輝かしく見せた。
でも、見惚れるより早く、僕はすぐに気付く。
彼女が僕を「倉田さん」と呼ぶ時、それは今僕と二人だけではないということ。
ハンナさんの陰に、低学年くらいの男の子が同じように並んで座っていた。その子は涙目をハンナさんの顔に向けて、じっと見つめている。
小さな両手を包むように、ハンナさんは緑色の絵の具が滲んだ自分の両掌を使って、そっと握っていた。
「いいですよハンナさん。続けてください」
ハンナさんが僕に小さく頷いた後、男の子に向き直る。昔話の続きを話すように、彼女は少し首を曲げて視線の高さを合わせて話し始めた。
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