パンプスパンプス

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 ハイヒールは、地面に嫌われている気がする。  他の靴を履いているときに比べて、地へ沈む感じがない。ガラス板のテーブルにコップを置くように、靴とアスファルトの接している面が透けて見えるようだ。  エナメルのパンプスは傷一つなく、飴でコーティングされているのかと思うほど艶めいていた。太陽の光で溶けてしまうのではないかと心配になる。  私はいつもはバスで通る道を歩いて行く。信号が赤になればつま先を揃えて止まり、青になれば左足から踏み出す。馴染まない地面と靴裏の間に愛着を挟み込み、宙に浮いた心地で歩く。  すれ違う人が私の足元をちらりと見やる。紺色のスーツのサラリーマンは、すぐに視線を前に戻した。次にすれ違った女子大学生は、私に一瞥もくれなかった。  次の横断歩道の前に来た辺りで、私と同じ服装をした子たちが何人か固まって話していた。  彼女たちは私が横に立つと、示し合わせたように私の足を見た。「ハイヒール?」とささやく声がする。  私はブレザーのシワをぴんと伸ばして、青信号になった横断歩道をパンプスを履いた足で、左足から踏み出した。  体育の時間は持参したスニーカーを履いて参加する。  ソフトボールの打席の順番が回ってくるまで、緑色のネットにやんわりもたれかかっていると、春奈が横歩きで近づいてきた。  「今日、パンプス履いて登校してたでしょ」  「見てたの?」  「後ろ歩いてた。どうしたの」  彼女の目はピッチャーを見たままだ。腕を一回転させ、球が捨てられる。キャッチャーのずっと前で、鉛のように地面の窪みにはまる。ピッチャーが拾いに行き、再び構える。  私も試合から目を離さない。  「いたんなら声かけてよ」  春奈がすまんすまんと軽く返す。  「面白かったからさ」  ピッチャーの投げた球は、まっすぐにキャッチャーの噛まれたグローブへと飛び込んでいった。一球目はミスとして、この投手はとても腕がいいのだ。  「で? 何でパンプス履いて学校来たわけ?」  「買ったばかりだから、履きたくて」  「それで学校に履いてきちゃうわけ?」  その声には呆れも好奇心も含まれていなかった。彼女とは付き合いが長いがゆえに、だらだらとした絆を互いの片手で一緒に持ち続けている。いちいち相手の行動に大きな反応はしないが、無視もしない。  バッターが空振りをした。腰も肩も静止したままの、腕だけ降るスタイルだ。  私はスニーカーで地面をほじった。  「制服とハイヒールって、けっこう合わない?」  春奈が私の足を見る。視線を戻し、  「そうだね。似合ってた」  と言う。  「春奈もやるといいよ」  「じゃあうちはスカジャン羽織ってこようかな」  「背中に雷神が描かれたやつにしなよ」  「持ってねえよ」  結局、バッターは三振し、打席が回った。あと一人がアウトになれば私たちは守備につかなければいけない。  「じゃ、行ってくるわ」  春奈がシルバーのバットを受け取って打席に立った。  スニーカーのゴムがグラウンドの砂利と噛み合う音を聞きながら、私は美しい動作のピッチャーに視線を定めた。  校門に立っていた教師が私のパンプスに視線を落とした。  「学校にハイヒール履いて来たのか」  「はい」  「おしゃれでか?」  「気に入っているから……」  この学校は校則が緩いので、パンプスで登下校する生徒を取り締まるか、一教師では測りかねるらしい。服装検査だったらアウトだっただろうが、今日は何も言われなかった。  裏門から出て、歩きで駅を目指す。  学校には木々が多く、フェンス沿いに歩いていれば木陰にいる状態となる。見上げれば葉脈が波打つレントゲンのような葉っぱがきれいに組み合わさっていて、隙間からパンプスの表面にまだらをつくる。  私は少し走ってみることにした。  アスファルトと靴裏が反発し合う力で前へ進む。ヒールが笑う。  前を歩いていた知らない生徒を追い越すと、彼は私のパンプスを確かに見た。見たところで何もない。  横断歩道は青で、そこで走るのをやめて歩きに変える。駅まであと半分だ。  今日は脚に触れるスカートの裾にやたら意識がいく。一歩ごとに脚の裏側をくすぐるのだ。すぐ下で靴がいつもより高い音をたてているのを私に言いつけているかのよう。  靴の歌声とスカートの訴えを聞きながら、私は駅へと近づいていった。  パンプスで一番楽しいのは初めの一歩だ。  電車に乗るとき、左足から車内へ踏み込む。  やはり床もパンプスの靴裏と仲良くできず、ガラスの上に乗っている気分になる。  それでも足に伝わる感触は道とは少し違い、ほんの少し柔らかい。  脚を揃えて座る。一度だけ、かかとで床を小突いた。  私は眠くなる。降りる駅は五つ先だ。  電車を降りるときも、パンプスが地面を味わう様子をうかがう。歩いて家へ帰る。  さすがに疲れてしまった。かかとが痛い。帰ったら切れていないか見なければいけない。  つま先か、かかとか。  どちらに重心を置けばいいんだっけ、そう考えながら私は家へ帰っていく。  今度は春奈と遊ぶ休日に履いていこう。
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