7人が本棚に入れています
本棚に追加
「あっ! いたいた! 駒村さーん!」
「あぁ、よかった。ほしかったやつ買えた?」
親子連れとすれ違う形でやってきた香奈は満足げに袋を掲げる。香奈の推し馬、シュクルリーヴル。オークスの時の写真を用いた新作グッズが出たのだと香奈は熱く語っていた。
椅子に座って休憩したり、フードコートで食事をしたり。レースまでまだ時間があると思って亜由美がスマホを見ていると、香奈に手を引かれた。
香奈に連れられて辿り着いたのはパドックである。レース前の馬達が担当の厩務員らに引かれながら周回している。ある者はここで馬の状態を見てどの馬の券を買うか考えるし、ある者はただひたすらに推しの写真を撮る。
六番のゼッケンを着けた馬が亜由美の目の前を通って行った。パドックには大勢の人々が集まり馬とは随分と距離があったが、その姿ははっきりと見えた。前方にいる人々も柵も何もかもそこにはなくて、触れるくらい近くを歩いているかのように感じた。
声が出なかった。亜由美は息を呑んで、目を見開く。無意識に笑顔になる。写真を撮ろうと思って構えていたスマホを落としてしまいそうなくらい、全身が震え上がってしまいそうだった。
初めて生で見るムジークヴィントに、亜由美の目は釘付けだった。テレビや写真で見る姿もとても格好いいが、実物はさらに格好いい。艶々した鹿毛と呼ばれる茶色い毛に覆われた筋肉の塊が、勇ましい動物の姿をして歩いている。かわいらしい目できょろきょろと興味深そうに他の馬や観客のことを見ながら、首を振って鬣を揺らす。
「やっぱりお馬さんかわいいなぁ。ね、駒村さ……。……駒村さん、生きてる?」
「あっ……!? わ、分からない。一瞬どこかへ行っていたかもしれない」
「ヴィントくん今日も元気そうですね」
「あれが、ムジークヴィント……」
胸の高鳴りが抑えられない。これが現地参戦して生で見る推しの姿。
亜由美は己の内から湧き上がって来る喜びと嬉しさを内部で爆発させ、落ち着いた風を装ってスマホをムジークヴィントに向けた。荒れ狂う感情の中でひたすら写真を撮り続ける。レンズ越しだけではもったいないのでスマホを下ろすと、再びムジークヴィントの姿が何も通さずに目に突き刺さって来た。
「ま、眩しい……。これが、推し……」
「あはは、いいなぁ。いいですね、わたしも最初はそうでした。クルリちゃんにはまだ会えてないから、初めて会ったらやっぱりそうなっちゃうのかな」
亜由美は画面に表示されている写真とパドックを周回している実物を交互に見て、確かにそこに本物のムジークヴィントが存在しているという事実を噛み締める。
「わ、私、今日はもうこれで大満足……」
「この後レースですよ! そっちが本番ですからね!?」
「これ以上浴びたらどうにかなってしまいそう」
最初のコメントを投稿しよう!