5R 春嵐駆け抜けて

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「どうにかなっちゃいましょう! 推しはいいぞ、駒村さん」 「どうにかなってしまっていいのかな」 「なりましょう。わたしはアイドルのライブでも水族館のショーでもどうにかなってます。周りに迷惑かけない範囲ならどうなったっていいんですよ。愛ゆえなので」 「愛、か……」  厩務員に引かれながら歩いていたムジークヴィントが合図で立ち止まった。亜由美はスマホを下ろす。観客の方をちらりと向いたムジークヴィントと、目が合ったような気がした。  ぞろぞろと騎手が現れ、馬に乗ってパドックを出て行く。  ムジークヴィントに騎乗する速水騎手も姿を現した。香奈と同い年の速水騎手は甘いマスクで女性ファンからの人気がある。馬を驚かせてはいけないので黄色い声は上がらなかったが、登場と共に静かなどよめきが起きた。  パドックを後にする馬達を追い駆けて、集まっていた人々もコースの方へ移動して行く。人の波に乗って亜由美達も芝の広がる方へと歩いた。  中山十一レース、皐月賞。ファンファーレが鳴り、歓声が上がる。  ゲートに入る前のムジークヴィントは落ち着いた様子で立ち止まっている。鬣が風に揺れる。周りの馬が歩いているのも気にせずにただ立ち止まっていた。ゲートが嫌なのかと思いきや、速水騎手が指示を出すとてくてくと歩いて自分の意思で自然とそうしたかのようにゲートに入る。ムジークヴィントはいつもそうだった。  その名の通り風が似合う馬である。立ち止まって鬣や尾を風に揺らしている姿も、走って己で風を生み出している姿も、よく似合う。 「頑張れ、ムジークヴィント」  亜由美は人混みの隙間からムジークヴィントを見守る。  すべての馬がゲートに入り、そして、ゲートが開いた。勢いよく飛び出した馬達はそれぞれの得意な位置を取り、徐々に縦長の配置となる。ムジークヴィントは中団後方からの差しが得意なので、今日もその位置に付けて走っていた。  観客の声援。芝やダートの匂い。すぐ目の前を実際に駆けて行く馬達。テレビで見ているものとは違う、現地でしか味わえない臨場感。  観客席と反対側の直線である向こう正面を通って、コーナーを回って馬が戻って来る。十八頭の馬の中にムジークヴィントを探すが、どこにいるのかいまいち分からない。 「駒村さんっ、ヴィントくんあそこです!」  最終直線で加速したムジークヴィントがどんどん前に出て来た。静かな空間に音が突き刺さるように、風が吹き抜けるように。ただ一頭と一人で走っているかのように、周りの馬や騎手のことなど見えていないとでも言いそうなくらい軽やかに、そして力強く走っている。  人間が追い付けない速さで走っているのに、亜由美の目はその姿をしっかりと捉えて追い駆けることができた。まるでスローモーションのように、ムジークヴィントの姿がよく見えた。
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