5R 春嵐駆け抜けて

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 亜由美はスマホを向けるが、人と人の隙間からズームして撮った写真の画質はお世辞にも良いとは言えないものだった。立派なカメラを携えたファンの姿もあるが、馬を撮るためだけにカメラを購入する決断は亜由美にはまだできない。しかし、優勝レイをかけた推しの写真が自分のスマホに入っていると思うとそれだけで嬉しかった。画質など関係ない。  おめでとう、という歓声に速水騎手は手を振って応えている。 「お、おめでとうございます!」  亜由美の声は皆の「おめでとう」に紛れて届かないが、順番に目線を向けていた速水騎手がぴったりなタイミングでこちらを向いた。きゃあきゃあと黄色い声がちらほら上がる。 「速水ー!!」 「ムジークヴィントおめでとう!」 「速水! おめでとう!」 「きゃー! 勇樹くーん!」 「ヴィントー! よかったぞー!」  名前を呼ばれていることが分かっているのか、ムジークヴィントは詰め掛けたファンの方へ体を向けた。 「いっ、今、今、私の方を見た。芝崎さん、今、ムジークヴィントが私のことを」  動物の表情など分からないが、亜由美には自分を見たムジークヴィントが微笑んだように見えた。 「かっ、かわいい!!」  推しが尊いというのはこのようなことを言うのだろうか。亜由美は天にも昇る心地である。無意識に緩みまくった顔から笑みが溢れて零れる。もう写真を撮ることすら忘れて、そこにいる推しのことをただただ見つめた。  しばしファンからの祝福に応えていた人馬は、やがてその場から移動した。厩務員に引かれてムジークヴィントが歩き出す。 「ムジークヴィント!」  人々の見送る声に混ぜて、亜由美は推しに呼び掛けた。 「おめでとう! 次も応援するから!」  一瞬立ち止まったムジークヴィントが振り向き、ファンの方に耳を向けて誰かの声を拾った。厩務員に名前を呼ばれ、再び歩き出す。そういえば途中から写真を撮っていなかったな、と気が付いた亜由美のスマホには推しのお尻の写真が残った。  集まっていた人々が少しずつ散って行く。 「駒村さん、よかったですね。わたしも今日ここに来てよかったです」 「私……こんな気持ちになったの初めて……。これが推しなんだ……。これが、推しの力……。す、すごい……!」 「本物を見たらもっと好きになりますよね。やっぱりいいですねぇ、推し。わたしも推し見に行こう。水族館行こう。うん」  亜由美はスマホの画面に表示されるムジークヴィントの顔やお尻を真剣な眼差しで見る。今日は彼が目の前にいたんだ。目の前で走って、目の前で勝ったんだ。 「私……今日のこと、きっと忘れない……」
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