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『さあ、今年もやって参りました!』
テレビからは威勢のいいアナウンサーの声が聞こえて来た。何かのイベント会場だろうか、人々がたくさん集まって盛り上がっている姿が映っている。一見中年男性ばかりかと思いきや、親と一緒に来ているらしい子供や若いカップルの姿もある。
「え、何だろうこれ。サッカー?」
次に画面に映ったのは馬だった。十数頭の馬がぐるぐると回っている。色とりどりのユニフォームを着た人間が跨っており、中には時折馬を撫でている人もいる。
新聞に載っていた日本ダービーだ。亜由美はクッションを抱きかかえてテレビを見る。折角だからゴールするところを見よう。そう思ったのだ。
ファンファーレが鳴り、現地の大きな歓声が画面の向こうから聞こえて来た。馬が柵に入った。そう思った瞬間、亜由美の目の前でレースは終わった。
気が付いたらクッションのことを強く抱きしめていた。手にしたままのテレビのリモコンを握り締め、画面に見入ってしまった。ただ馬が走っているだけなのに目が離せなかった。二分か三分かあったようだったが、亜由美には一瞬のように感じられた。
何かすごいものを見たような気がする。しかし、亜由美にとってそれはその日だけの気持ちだった。どの人間が勝ったのか、どの馬が勝ったのか、週が明ければそんなこと忘れてしまった。
また、代り映えのない日々が始まる。
書類を纏めて、電話を取って、上司のお小言を聞いて、後輩を手伝って、同僚と居酒屋に行って。亜由美にとっての何でもない時間。特別好きなことも、特別嫌いなこともない。いつも通りの日々。
回り続ける時計の針と一緒に歩いて、二ヶ月ほど経った。
七月の週末。亜由美はスーパーに入っているパン屋で買って来たパンを食べながら何気なくテレビを点けた。お昼のワイドショーは芸能人のゴシップで盛り上がっているが、亜由美の関心は芸能界にはない。適当にチャンネルを変えて色々なものを画面に映していると、動物の姿が目に入った。
「お、動物番組やってるじゃん。見よ見よ」
チャンネルを動物の映っていたところに戻す。放送されているのは競馬の番組だった。アナウンサー曰く、この夏に初めてレースに出る馬達が走るそうだ。すなわちデビュー戦だ。
「メイクデビュー……っていうんだ」
落ち着かない様子できょろきょろしている馬や、緊張しているのか立ち止まったままの馬がいる。
「あ。あの子ちょっとかわいいかも」
亜由美が目を留めたのは五番のゼッケンを着けた馬である。茶色い体で、後ろ足の先だけが白い。馬上の人間は赤い色のユニフォームを着ていた。
ファンファーレが鳴る。馬達が柵に入り、そして走り出した。亜由美は五番の馬を目で追い駆ける。
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