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2R 推し活が始まる
メイクデビューを見てから数日、亜由美の頭の中は茶色い馬でいっぱいだった。出勤中も、勤務中も、退勤中も、食事中も、入浴中も。寝ている時すら夢に見てしまいそうだ。
これは何か大変な事態になっているのではないか。そう思い、亜由美は高校の同級生にメッセージアプリで声をかけた。
『この間テレビで見た子のことが忘れられない。ずっと考えちゃう~』
ハートのスタンプを添えようとして、それは取りやめた。すぐに既読になり、返信が来る。
『は? 恋じゃね?』
『いや有名人だからさ。有名人? なんていうの。スポーツ選手? あのね動物なの』
『よくわかんないぞ~? 動物?』
『この間テレビで競馬やっててね、なんとなく見てたら出てた馬のことが気になっちゃって。もうその馬のことばかり考えちゃって』
『あー』
亜由美は同級生の言葉を待つ。
『それさ、やっぱ恋じゃね? 好きになっちゃったんでしょ』
『馬を?』
『そうそう。いるらしいよー、お馬さんが好きで応援してるって人。うちの職場の後輩とか、その子は男の子なんだけど、大好きな馬がいるから応援してるんだって。グッズも買ってさ。「推し活」ってやつ』
『そうなんだ』
『あゆもそれじゃね? うちはアイドルが好きだけどさ、馬が好きでもいいと思うよ』
「そっか……。そう、なのかな」
同級生からハートを飛ばしている猫のキャラクターのスタンプが送られて来た。そして間髪入れずに、「がんばれ」とペンライトを振る犬のキャラクターのスタンプが届いた。亜由美は「ありがとう」と熊のキャラクターのスタンプを返した。
推し活か……。と呟く。
亜由美は生まれてこの方、推しという存在がいたことがなかった。何かや誰かに興味を持って大好きになって応援したことなどない。ムジークヴィントへのこれまで感じたことのない感情は、推しというものへ向けられるものなのだろうか。
ぼんやりと馬のことを考えながら、またいつも通りの日々を過ごす。
夏の暑さに汗を流しながら労働し、ムジークヴィントの情報を検索する。これまで通りだが、これまでとは少しだけ違う時間。
馬達が入る柵のことはゲートで、上に乗っている騎手が着ているユニフォームは勝負服と言う。馬は二歳頃にデビューして、長く走る馬だと十歳くらいまで走る者もいるそうだ。基本的な用語や知識を調べながら、少しずつ分からないことを減らしていく。
「駒村さん、最近何かいいことありました?」
昼休み、お弁当を突いていた亜由美に後輩が話しかけて来た。
芝崎香奈。亜由美の一つ下の後輩で、基本的にいつも楽しそうにしている女性である。髪も爪も自由なところがいいと思ってここにしましたという志望動機が示すように、明るい茶髪を耳にかける香奈の爪は今日もマニキュアで彩られている。
「いいこと?」
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