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「そうなのかなぁ」
香奈はうんうんと頷き、沼の中から言葉で亜由美の背中を押す。
「その子、次のレースはいつなんですか」
「ん、まだ分からなくて」
「そっか……。未勝利戦、勝てるといいですね。わたしも応援しようかな」
職場でそんな話をしてから数週間後。
亜由美はテレビの前でスマホを握り締めていた。
テレビに映し出されているのは二歳未勝利戦の様子である。馬達がゲートに入る順番を待っている。その中にムジークヴィントの姿があった。鹿毛で、後ろ足の先だけが白い。顔に被ったメンコで隠れているが、額には楕円に似た流星と呼ばれる白い部分がある。赤い勝負服を纏って騎乗しているのはメイクデビューでも手綱を握った速水勇樹騎手だ。
折角応援するのだから馬券を買ってみたらどうかと香奈に言われ、亜由美はネットで馬券を買ってみたのだった。スマホの画面とテレビの画面を交互に見て表示されているゼッケンの番号を何度も確認する。
賭けて大勝負するのではなく応援する気持ち分だけならばほんの少しの額から買えるし、もしも当たったらそのお金でその子のグッズを買えばいい。自分はそうしているのだと香奈は言った。賭けるのも、応援するのも、楽しみ方は人それぞれだ。
すべての馬がゲートに収まった。そして、ゲートが開いて一斉に走り出す。
「頑張れ……!」
今日は四番のゼッケンを着けているムジークヴィント。真ん中よりやや後ろの辺りを走っている。そうして、その位置のまま最終コーナーに入った。
「この間より、遅い……?」
先団の馬達と距離が開いてしまったのではないかと亜由美が不安になった、その時だった。直線で突然加速したムジークヴィントが前方の馬達の間を切り裂くようにして馬郡の中から姿を現した。後ろの馬達との距離をどんどん広げて、ムジークヴィントは風を奏でて走って行く。
びりびりと全身に電気が走ったようだった。ムジークヴィントの走る姿から亜由美は目を離せなかった。自分はこの馬のことが好きなのだと確信した。
『一着は四番、ムジークヴィント! 速水勇樹! 見事な末脚でした!』
「勝った……」
嬉しいというよりも、ほっとした。亜由美は全身に入っていた力を抜き、クッションを抱えてテレビを見る。
速水騎手は笑顔でムジークヴィントを撫でていた。答えるようにムジークヴィントは尻尾を大きく揺らす。
「よかった……」
自分のことのように嬉しかった。亜由美は笑みを浮かべて、画面の向こうの「推し」に声をかける。
「おめでとう、ムジークヴィント」
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