1.きゃんぷ場

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1.きゃんぷ場

 もうすぐ日が暮れる。完全に夜になる。  「長い森」という身も蓋もない名前で呼ばれているこの森は、この大陸の端から端まで続いていて、まるで大陸をわざと分断するために作られたような形をしていた。  この森の一番細い部分を抜けようとしても、休みなしに歩き続けて丸1日は優に超えてしまう。だからよほどの用がない限りは人々はこの森の奥に入ろうとは思わない。動物を狩ったり、植物や鉱物を採取したりする人はいるが、そういう連中はごく浅い所までで探検を終えて引き返すのが常だった。 「……だからな」  年老いた商人は背中の荷物をちょっと背負い直した後で。 「『森の人』の存在すら昔は誰も知らなかったんだろうよ。そんな中でも商人だけは『森の人』と商売していた訳だな」 「ふうん」  隣を歩いていた若い商人はまだどこかあどけなさの残る少年だ。同じく背中に大きなリュックサックを背負っている。 「その『森の人』の集落はもうなくなってるが、その跡地に宿屋が出来た訳だ」 「師匠、こんな森の中で商売になるんでしょうか」 「なるからやっている。……というか、その宿のお蔭で、『長い森』を横断することが出来るようになったとも言えるな」 「なるほど、ほぼ独占商売ってやつですね」  年老いた商人は楽し気に笑う。若者も釣られたように微笑する。 「ほら、見えて来た」  木の間に見える建物は2階建てで、間口はそう広くはないように見えた。少なくとも王都などの都市部の宿に比べると。郊外に建つちょっと広めのお屋敷、程度だなと若者には見える。  街の建物は石造りが多いが、この宿は木造だ。もっと大きな建物を見慣れている若者の眼から見ると、立派な、とは言い難い。  それでも、何もない野外で野宿するよりは確かに心強いだろう。それまで未開の森だった「長い森」が、人が通れる場所になったのは、この宿という休憩地点があるためだというのも納得は出来た。  「師匠」と呼ばれた年老いた商人は、慣れた様子でその建物の扉を押し開く。外はもうすっかり日が落ちていたが、建物の中は明るい。部屋のあちこちにランタンが提げられている。  扉を入ってすぐ、奥に横長に延びたカウンターがあり、その後ろに、「師匠」と同年齢ぐらいに見える老婦人が見えた。 「あら、随分久し振りね」 「おう」  商人としてこの森を行き来するならこの宿は当然よく使うだろうから、常連なんだろうな、と若者は思う。 「さて。今夜はどっちにするの?」  宿の主人であるらしい老婦人がそう尋ねると、「師匠」は、 「今夜はこいつにきゃんぷ場を見せてやるつもりで来たんだ」 「あら珍しい。もう年だから外はきついと言っていたのに」 「そうなんだがな。まあこれも弟子の経験だな」  外、という言葉に若者は不思議そうに首を傾げる。 「それじゃあご案内しましょう」  老婦人はカウンターから出る。  カウンターの左に、奥に向かっている廊下があった。そのさらに左には階段があって2階に行けるようになっている。主に案内されて、階段ではなく廊下の方を進む。廊下の左手、階段下の辺りにいくつか扉があるが、その向こうが何なのかはこの時点では判らなかった。  廊下の突き当りにまた扉がある。それを老婦人が引き開けると、目の前には宿の裏庭らしきものが広がっている。短い芝は生えているが綺麗に整えられていて、子供の背丈ほどの木の柵でぐるりと囲まれている。端の方に木が1本。ただ、人が木登り出来るほどではない細い木だ。ネコぐらいなら楽しく遊べそうだが。 「今日はきゃんぷ場の客はいないのかい」 「ええ、どなたも」 「そうか」  「師匠」はその細い木の脇にリュックサックを下す。若者もそこにそろそろと歩み寄り、「もしかして、ここに泊まるのですか」 「そうだ。ここが『きゃんぷ場』だ」 「いや、でも、これでは野宿と変わらないのでは」  少しばかり怯えた色の混じる若者の声に、老婦人の穏やかな声がかぶさる。 「では説明させていただきますよ」  森の中には元々凶暴な動物や毒を持った虫などがいる。だからこそ、森の中で野宿をするなんてことは危険極まりない行動であり、よほどのことがない限りはやろうとは思わない。だからこそ──そう、「キャンプ場」のような商売は「この世界」ではそもそも成立していなかった。  それを成立させたのは、宿の主人である彼女が扱える「結界」のお蔭だった。 「結界、ですか」  若者は目を皿のようにして柵を凝視した。が、残念ながら目に見えるものではない、と説明されて見つけるのを諦め、頭を振る。  動物や虫たちにはそれぞれ苦手とする物事がある。恐怖を感じるようなものだったり、身の危険と錯覚させるものだったり。そういうものを組み合わせて動物などが寄り付かないようにしているのだと言う。  説明を受けても半信半疑だった若者の目の前で、程なくしてそれを証明する出来事が起きた。柵の向こう側にオオカミのような動物が近づいて来ているのが見えたのだ。森を歩いている時に出会ったらとりあえず逃げるしかない相手だ。  思わず足が竦んでしまった──が、その獣は何故か柵の近くまで来ると足を止め、それ以上は近づかず、何度か唸り声を上げた後振り向いて去って行った。 「これが結界ですか!」  感嘆した若者の素直な声に、 「ええ。実際に効果をお見せ出来ましたね、偶然でしたが。──こんな風に、動物や虫たちはこの場所を嫌がるように作っているのです。ちなみに、空にも結界はあるので、鳥にも効果はあります。だから、何の対策もなく森でただ野宿するよりは遥かに安全であることは保障出来ますよ。でも、屋根や壁がある訳ではないので、部屋に泊まるよりは安く、半額以下の料金で提供しています」  ちなみに、細い木は、空の結界が何処まであるのかの目印として植えてあると言う。その木の頭辺りまで結界があるのだそうだ。  その後、宿の主は2人を連れて一度建物の中に戻る。  先ほどもちらりと見ていた階段下にある扉を開けて見せる。そこにはトイレと水場があった。水場は、「この世界」でのバスルーム兼洗濯室という感じだろうか。水を使って体を洗ったり、衣類を洗濯したりすることが出来る場所だ。トイレの方は、まあ単なる穴に蓋がしてあるというだけだ。「この世界」では何処でもこんなものだ。  きゃんぷ場の客であっても、この部屋は自由に出入りして使って構わないのだと説明された。ちなみに庭に、建物に寄り添うような位置で井戸があり、水はそこで汲んで自由に使って良いと言う。 「…なるほど」  野宿と変わらないという怯えは、施設を案内されているうちにすっかり払拭されていた。獣への対策、それに水の確保。これは確かに野宿とは全く違う「施設」なのだ。 「そして最後に、これは、必要であれば、ですが」  老婦人は階段下の収納のような所から巨大な布の塊を抱えて取り出す。それをきゃんぷ場の木の近くに置いて広げ、何やら棒を使って組み立て始める。 「俺も手伝おう。借りようとは思ってたんだ」  「師匠」も一緒に作業が始まりしばらくして、若者の目の前に、布製の小さなドームが出来上がる。 「テント、というものだ。中に入ってみなさい」  若者が恐る恐るそのドームに入る。  中は人が横になって3人ほど並んで寝転べそうな広さがある。地面に接している部分はやや厚みがあり、柔らかい。壁と屋根にあたる所は布にしては妙につるつるした素材で出来ている。  若者は首をドームから出して、 「簡易的な家のようなものですか?」 「どちらかというと屋根付き簡易寝台と言った感じかな。その中で横になって眠る。外よりは暖かいだろう」  そして、このテントを借りたい場合は別に料金を払う必要があると説明された。それでも、建物の中に泊まる料金に比べたら半額近い額で済む。 「これが、きゃんぷ場ですか…」 「そういうことだ」  老いた商人と、宿の主の老婦人。2人の心の中では、元々知っていた「キャンプ場」とここが、全く同じではないことは承知している。でも、彼女がこの形式の「施設」を始めた時、キャンプ場という言葉以上にここを表現するのに相応しい名前を見つけられずに、そのまま使っている。  「この世界」の人々にとっては、どういう意味なのかまるで判らない謎の言葉であろうことは想像に難くないが。  3人は建物の中にいったん戻り、残りの施設についても説明を受ける。  カウンターの右にある部屋は食堂だ。と言ってもちょっと広い台所といった風な場所だ。辺鄙な場所であるが故に食材もほとんど入手出来ないため、レストランのようにお金を払って食事を作って出してもらう、というサービスはない。森で狩って来た動物や、採取した植物や木の実を持ち込んで、自分たちで調理して食べることは出来る。  宿の主自身も、森で取って来た植物でパンを焼いてスープを作り、それを食べて暮らしているのだそうだ。  建物中央のカウンターの後ろには荷物を預けられるロッカーがある。貴重品はここで預かって貰うことが可能だ。特にきゃんぷ場に泊まる場合、テントがあっても鍵がかけられないので、他の客とかち合った時など、疑いたくはなくても不安は残る。そんな時に、貴重品をカウンターに預けておき、鍵のかかる箱に入れておいてもらうことが出来る。  そうして説明が一通り終わって、老婦人は、ごゆっくりお過ごし下さい、という言葉を残して宿の中へ戻り、商人2人はテント近くで荷物を整理したりしながら、とりとめのない話をしていた。  その間に。 「そう言えば」 「うん?」 「『森の人』と商売していた人は、どうしていたのでしょう。宿は、当時はなかったのですよね」 「まあ、『森の人』の家に泊まらせてもらったり、だな」 「宿ではなく、普通の人の家にですか」 「そうだな」 「何かしら対価を払っていた訳ですね」 「いや。…というか、『森の人』は通貨を持っていなかったからな」 「──ええと」若者は遠慮がちに尋ねる。「『森の人』って、……人なんですよね?」  老人は笑う。「もちろんだ。獣ではないよ」 「お金を使っていなかったのですか」 「そうだ。お金もだが、数字以外の文字もほとんど使っていなかった。『森の人』は、この国の中でも、あまり国に属することの恩恵も被害も、受けていない人々だったと言えるかも知れないな」 「……何だか想像がつきません」 「だろうな」  今は、この若者のように「文明」に接して生きるのが「この世界」でも当たり前になりつつある。学校も病院もない、そんな集落で暮らしているような人々は、少なくともこの国では、もういなくなってしまった。  それ自体がいいことなのか悪いことなのかの判断はつけられない。ただ、『森の人』は、何も知らずとも不幸ではなかったのだ。少なくとも、あの時までは。  老人は少しだけ目を閉じる。既に思い出の彼方になってしまった彼らのことは、顔を思い出すことすら困難になってしまった。それが、あまりに遠くなってしまったからなのか、自分が年を取ったからなのか、どちらなのだろう。老人は、自嘲気味に苦笑いを落とした。
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