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喫茶店のドアが開いた。
入店してきたのは賢人だった。
彼は先にテーブル席に座っている桃華を発見し、彼の正面に座る。
「こんにちは」
「うん、こんにちは」
桃華が雄二の元に戻り数日後、彼女は賢人をこの店に呼び出した。
桃華が去ったのだというのに、賢人はなんの嫉妬も見せなかった。
桃華に連絡してくることも会いにくることもなかったのだ。
「どうですか?」
先に会話を始めたのは賢人だ。
いつものように死んだ目で桃華を直視している。
「そこそこだよ。前と同じことしてる。家事とか未来の送り迎えとか」
「素敵ですね」
「普通だよ。賢人くんは?」
「俺も同じです。大学とバイトですよ」
「そっか……」
桃華は彼との関係を断つことに決めていた。
だからこそ話したいこと、伝えたい気持ちは山ほどある。
その中でまず桃華が口にしたのは謝罪だった。
「ごめんね賢人くん……また私わがままを言おうとしてる」
「言ってみてください」
「私たち……もう別れよう?」
賢人は小さく頷く。
まるで桃華の言葉があらかじめ分かっていたかのように。
「最後まで君には迷惑かけっぱなしだよ。ずっとわがまましか言ってない……」
「俺はそんな桃華さんが好きなんです」
「ねぇ賢人くん……私のこと本気で好きだった?」
賢人は微笑んで、テーブルから身を乗り出した。
そしてそのまま桃華の唇にキスをする。
桃華は嬉しくて涙を流してしまった。
「大好きです、桃華さん」
「私は賢人くんの恋人にも母親にもなれなかった……君を救いたかったけど、私には未来がいるの。本当にごめんなさい……」
「いいんです。未来くんはいい子です、ちゃんと見ててあげてくださいね」
賢人はあくまで正直だった。
自分の人生の価値を見失った彼は、自分より先に他人を優先する。
それが好きになった女なら尚更だ。
桃華は賢人の手を握り、口の近くまで動かした。
そして左手の薬指を甘噛みする。
「君とずっと一緒にいたかった。君と人生を生きてみたかった。君の奥さんになりたかったよ……でも無理なんだ」
「俺もですよ」
「私を責めてもいいんだよ?」
「どうしてあなたを責めるんです?桃華さんは素敵な人です」
桃華は彼の指を噛むのをやめた。
賢人の薬指には、かすかに赤い噛み跡が残っている。
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