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「俺、もう行きますね」
「もう……何も言ってくれないの?」
「俺は桃華さんのことが好きです。それだけは覚えておいてください」
自分の役目を見つけ出した桃華に捨てられた賢人だが、彼は本当に恨んだりしていない。
賢人は立ち上がり桃華に背を見せて、この店から出ようとする。
桃華は追わなかった、声もかけることもしない。
女と男の関係はここで終了だ、それだけのこと……
彼との思い出が桃華の胸から溢れ出してきた。
もう覚えてない印象の薄い何気ない思い出さえ、鮮明に脳裏に浮かび上がる。
彼の温もりと優しさと恋が押し寄せてきても、桃華は涙を流さなかった。
桃華にとってこれは自分勝手な別れだ。
賢人にも罪はない。
彼の絶望を取り除いてやれなかったことが、桃華にとって心残りだった。
だがもう呼び止めることは彼女にはできない。
それでも桃華は最後まで、賢人の姿を目に焼き付けたかった。
「また会ってくれません?」
桃華のほうを見ないまま賢人は言った。
数秒ポカンと口を開けた桃華は我に返り、瞳に光を宿す。
桃華は賢人と恋人にはなれない、彼とは別れるべきだと思った。
しかし賢人は桃華を求めている。
賢人の甘えに、桃華の母性が疼いた。
最初抱いていた信念からは大きく外れてしまう愚行ともいえる行為。
桃華は固く決意したはずだった、未来のことを1番に考えると。
賢人と繋がりを持ち続けることは希望の崩壊にも繋がる。
だが桃華は彼と過ごしてきた日々に嘘をつけなかった。
どれだけ自分を犠牲にしても、桃華は未来と賢人を幸せにすると覚悟を変える。
もう女としての欲は彼女にはなかった。
彼に恋する気持ちなど霧散した。
母親としてのまっさらな愛情を、桃華は彼のおかげで獲得した。
「いいよ、会おう」
「冗談ですよ」
「ううん、私たちはまた会うの。約束だから」
賢人は口を閉じたまま立っていた。
そして片手を上げて、ダラダラと桃華の前から去っていく。
賢人の言葉でほどけかかった糸は結ばれた。
桃華はやっと母親になれた。
そのことを理解できたからこそ、桃華はこの別れを惜しむことはなかった。
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