AI

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づっと前に作った創作童話「大男の話」を子供にしてやった。ひそひそと泣く子があった。私はうれしくなった。私の頭が作りあげた話が、子供の美しい涙に価するのが。 新美南吉 (童話作家『ごんぎつね』) ********  私が小説家になったのは、小説家になるしかなかったから。  私は子供のころから一人で過ごすことが多かった。体も小さく、運動も苦手で、なおかつ、人と上手くコミュニケーションも取れない子だった。だから自然と、私は本を読むことが多かった。小学生の時は、男子はみんな休憩時間になると運動場に出て遊ぶのに、私は一人で、図書室で黙々と本を読んでいた。  そんな私が成長し、大人になった時、小説家を目指したのは必然的なことだった。  しかし、いくら大量の本を読んだからと言って、面白い小説を書けるわけではなかった。  私は小説家に成れるのは成れたが、あまり名前も知られていない小説家だった。ベストセラーと呼べる本など書けるわけでもなく、定期的に小説を出版するも、生活する分だけを稼ぐのがやっとであった。    それに私は、小説を書くことより、読むことのほうが好きだった。  小説を書くというのは、自分の頭の中でストーリーというのが、ある程度出来上がってから書いている。書いている途中、なんの目新しさもなければ面白味もない。だから私は、書くことより読むほうが好きだった。小説を書くのは、生活のためであった。  それでも私は満足していた。  元々趣味という趣味はなく、出掛かることもしない。お金を使うのは、生活費以外なら本を買う程度だ。そこまで稼がなくても生活はやっていける。  それに私が、普通の会社員になるのは無理。こんなコミュニケーションの低い私が出来る仕事なんて数えるほどしかない。小説家になれただけでも儲け物である。  しかし、そんな私の生活も、ある出来事により失墜した。それは、AIの進化である。  AIが世の中に浸透するにつれ、色々なことが自動化していった。買い物などのレジの支払いから、交通などの自動車の自動運転。それにより多くの仕事がAIによって失われていった。  それは私のような作家も同じだった。AIは単純な作業だけでなく、クリエイティブな仕事まで奪っていった。  AIだけで小説を書かせたなら、それほど脅威的ではない。が、アイデアはあるが、文章が書けない人。または、文章は書けるが、アイデアが出ない人。そんな人がAIを使えば、簡単に小説が書けてしまう。しかも、なかなか面白い作品が。  AIによって、誰でもが小説を書けてしまう。そうなると、小説の価値はどんどん下がっていく。需要と供給、書き手と読み手のバランスが崩れてしまったのだ。本当に小説家として食べていける人というのは、個性的で才能あふれた者だけになる。私のように、何の変哲もない小説家は淘汰されていったのだ。  私は、小説家としての職を失うことになったのだが、だがしかし、世の中の半数の人も、AIによって仕事を奪われ、職に就けないようになっていた。  そこで国が導入したのが、ベーシックインカム制度。国から生活費が支給されるようになった。  今の時代、国民は個人ナンバーでAIが管理しているし、生産や物流もAIとロボットに任されている。それに、住まいや自動車は、個人で保有しなくなり、シェアが一般的になっている。それにより、税金や物価も低くなり、生活費はあまり必要としない。最低限な生活するなら。  その最低限の生活を保障するベーシックインカム制度も、現金の支給ではなく、電子マネーのポイントだった。そのポイントで買い物ができるが、何を買ったかが国に把握される。生活費だけの援助なので、ギャンブルや娯楽に使うのを防ぐためらしい。  そうは言っても、娯楽に全く使ってはダメというわけでもなかった。生活費で使ったポイントが、キャンペーンなどでキャッシュバックされた分を娯楽に使っても、お咎めはなかった。  ベーシックインカム制度で、働かなくても生きていける世界になった。    しかし、働く側と働かない側で、多少の対立は起きていた。  働いている人は、働かずベーシックインカム制度だけで生活する人を、何が楽しくて生きているのか分からない。ただの国の家畜だ、と言って蔑んだ。  逆に、働かない人は、物欲や快楽のために嫌々働いている人を見て、お金の奴隷、と言って呆れていた。  私は、そんな対立なんてどうでも良かった。小説家としての仕事を失い、それでも生活できて本も読める。私は迷わず、働かずベーシックインカム制度だけで生きることにした。  図書館に行けば無料で本は読めるし、数冊程度なら毎月新刊も買える。それだけで、私は幸せな生活を送っていた。  の、はずだった。  毎月、毎月、本を読む生活は、実に味気ないものになっていった。  今まで、あれほど好きな時間だった読書が、待ち遠しく感じられなくなっていった。  結局、私にとっての読書は、現実逃避のための楽しみであった。勉強からの解放、仕事からの解放、現実から目を背けるために本があった。仕事がなくなった今、逃避する現実はないのだから、逃避した先の幸せもなくなってしまった、っと言うことになる。  私は考えた末、もう一度、小説を書くことにした。私に出来ることと言えば、それぐらいしかなかったのだから。  しかし、今までとは違い、仕事としてではない。それに、私程度の小説など、もう出版はされないだろう。私が小説を書く理由は、現実を取り戻すためのノルマだ。ノルマをこなし、再び現実逃避の楽しみに浸るためである。  私は小説を書いた。私は初めてかもしれない。私が仕事としてではなく小説を書いたのは。  もちろん作家デビューする前も、小説を書いていた。でもそれは、職業を小説家にするために小説を書いていた。何が言いたいかというと、私は今まで、小説を書くときは世間の目を気にしながら書いていた。こう書けばウケがいいのではないか?こう書くと不快に思われるのではないか?っと。そして作家デビュー後は、常に編集者の反応を気にしながら書いていた。  しかし今回の作品は、自分の想いを作品に転化させた。人目を気にせず書きたいように書いたのだ。  今までの私は、業務のように小説を書いていた。それは生活のためだったし、私には、これしかできないと思っていたから。今回、初めて、書く楽しみみたいなものを見つけた。悶々としていた気持ちを吐き出し、自分の中で鬱憤を整理するような感覚だった。  小説を書き上げると、私の気分はスッキリとした。書くだけで満足するつもりだったが、誰かの感想も知りたくなった。たぶん、元々職業として小説を書いていたので、ついつい、他者の感想が知りたくなるのは、習性なのかもしれない。  私は適当に、小説の投稿サイトを探し、そこに書いたばかりの小説を投稿してみた。  誰にも読まれなかった。  やはり、その投稿サイトでも、小説の投稿の数が異常に多いのだ。出版業界で小説が増えてだけでなく、AIの進化で、投稿サイトでも小説は増えていた。それは出版業界以上の飽和状態だった。作品は多いが、読み手がいないのである。  私は、読まれなくても仕方ない、と思った。そういう時代になってしまったのだ。  それでも私は小説を書き続けた。初めは、本を楽しく読むために書きだしたのだが、今では小説を書くことが生きる楽しみになっていた。これが自己表現の悦びなのかもしれない。  私は小説を書き上げるたびに、投稿サイトに投稿した。  投稿作品が二桁になったあたりで、初めて私の作品に、いいね、のボタンが押された。私は、それを見たとき感激した。小説で初めて本を出版した時より感動したのだった。  今まで出版した本も、書籍サイトのレビューで良い点数を貰ったことはあった。それも、それなりに嬉しかったが、でも今回の、いいね、のほうが特別感があった。  私は考えた、その違いを。    上手く言えないが、きっとこう言うことだろう。  出版した作品は、私の本心から出した言葉ではない。世間の嗜好を考えて出した言葉だった。でも、今、投稿サイトに投稿している作品は、偽りのない自分の本心で書いたものだ。  私の作品が褒められるのは確かに嬉しい。でも以前までの本は、私とは別物だという認識だったのかもしれない。でも今の作品は、自分自身と同一化をしている。作品を認められるということ、イコール、自分自身を認めてもらえている、そんな錯覚に陥っているのかもしれない。  私は改めて気づかされた。自己表現を認めてもらえるというのは、お金を稼ぐより嬉しいものだと。  それからというと、その読者は、私が投稿した作品に、いいね、を押し続けてくれた。  私は、その読者のプロフィールを確認した。アカウント名は凪。性別は男。年齢は十歳だった。まあ、インターネットの中なので、本当のことかどうかは確認しようがないが。  凪は次第に私の作品にコメントを残してくれるようになった。  十歳の割に読解力もきちんと備わって、コメントも的を射ていた。私は深く感心した。最近の子なのに、よく本を読んでいることが窺えたので。  凪は毎回、私の作品にコメントしてくれた。凪のコメントを読んでいると、ついついそのコメントに返事をしたくなる。  凪のコメントがあまりにも的確なので、自分の作品について、もっともっと深堀して、語り合ってみたいと思ってしまう。  私が小説家になった理由は、コミュニケーションが苦手だから。だから、私は人と繋がるようなことは、なるべく避けてきた。小説家をしていた頃、出版した本にレビューをしてくれる人、ごくたまにファンレターをくれる人もいた。しかし、私は、ことごとく返事を返さなかった。  それには理由があった。本の内容と私自身に大きな隔たりがあった。本を読んだ読者は、その本の内容と私の人格の違いを知ると、きっとがっかりするに違いないと思ったからだ。私のことを知ったら、もう次回作は買ってもらえない。そんなふうに考えていた。  でも今回は違う。投稿した作品と私の人格には違いがない。きっと凪は、がっかりすることはないはずだ。  私は小学生相手でも、いろいろ考え、思い悩んでいた。でも、自分の作品について、凪と語りたい、という欲求のほうが強くなった。  そして私は勇気を出して、凪のコメントにコメントを返した。  凪とは次第に仲良くなった。コメント欄だけでなくDMでのやりとりも行うようになっていった。私が思い悩むほどでもなく、意見の交換でギクシャクすることもなかった。それどころか、私に新しい視点を発見させてくれた。  凪と私は、年は離れているが、親友のような関係になっていった。  コミュニケーションが苦手で、人となるべく関わらなかった私だが、人と心が通じるというのは、なんと心地良いものだと理解した。どうして皆は、トラブルに発展する人間関係を増やすのか不思議で仕方がなかった。でも、こうやって心を通わす喜びを知ってしまうと、たとえ少なからず対立があっても、人と繋がっていたいと思ってしまうのだろう。  私は凪の悩みを聞くこともあった。  凪には学校には友達がいなく、いつも一人で過ごしている。勉強も運動も苦手で、何の取り柄もないと自分自身は思っている。だから、いつも投稿サイトで作品を読んだりしているそうだ。  私は凪に、幼いころの自分の姿を見ていた。  私は凪のための小説を書いた。  友達のいなかった主人公が、たった一人と分かり合える物語を。  何の取り柄のない主人公が、勇気を出して一歩進む物語を。  たった一人のためだけに書いた小説。凪のための小説。  私は、この小説を書いているとき、自分の作品が変化していることに気付いた。私は成長している。そう感じた。  それと同時に、小説を書くことこそが、私の生きがいだと確信した。 ~~~~~~~~
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