想う

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想う

 三河の大名・奥川将康(おくがわまさやす)の城で人質生活を送る織田島(おだじま)宗冬(むねふゆ)の元に漸く葛が戻り、宗冬が十三歳にして稲川照素を倒した喜井谷の戦い後は、驚く程に平穏な日々が訪れていた。  縁側で宗冬の髪を丁寧に()く葛は、秋めいた小袖に前掛け、紅を薄く刷いた腰元姿であった。 「良い香りがする」 「これにございますか」  葛は、帯に下げていた匂い袋を、宗冬の手に握らせた。 「桜の香りのように思えるが」 「はい。桜の幼葉を椿油に一年浸したものを綿に染み込ませたのだそうです。といいましても、年頃の娘達が市の露店で贖うようなものでございますから、香道で用いられるものとは雲泥にございます」  しかし、その袋を手に戻した葛は、愛おしそうに両手で包み込むではないか。頰をほんのり染めて送り主の姿を思い浮かべるなど、年頃の娘でなくて何と表現するのだろう。二十歳を超えたようには到底見えない。 「碤三の土産じゃな」 「え、あ……どうせ仕事のついでに拾ったものでしょう」  急に素気ない風を装って、葛はさっさと袂に収めてしまった。  照れる事でもあるまいにと、宗冬は心の中で笑いながら、「そうじゃの」と応じておいたのであった。    将康と碁に興じ、父子のように穏やかで満ち足りた時間を過ごした宗冬は、自室に戻り、初秋の涼風をいれるべく自ら障子を開けた。  すると目の前の縁台に、大胆にも碤三が背を丸めるようにして座っていた。 「碤三、葛は市蔵として表仕事に出ておる。(じき)に戻るであろう」  隆々たる筋肉の大男は、何とも情けない顔をして頰を掻いた。 「いいんだよ。お役目で明智領へ行く途路に立ち寄っただけだ」 「おかしな奴じゃの、直じゃと申すに」 「うるせぇな小童(こわっぱ)、じゃあな」  宗冬に対しては一切の主従の礼儀もとらず、いつも通り、近所の兄貴のような口ぶりでそれだけ言うと、風のように消えてしまった。    伊勢の加太峠を少し奥へ分け入った辺りに、藤森衆と称する忍の一群が集落を形成して穏やかに暮らしている。といっても、炊きの煙がたなびき、田畑の畔を子供が走り回るような当たり前の人の暮らしは、葛が頭となり、小頭である碤三と手を携えて必死に守り、皆の手を借りて作り上げたのである。  かつての、六歳の碤三が死臭だらけの城下町で拾われて、市蔵に連れられてきた頃の里は、もっと陰惨で救いのない場所であった。  阿鼻叫喚……それが、この里に響き渡る『音』であった。  年嵩の稽古相手にさんざんに打ち据えられ、腫れ上がった二の腕を冷やすべく、碤三は頭領が暮らす大きな館の裏手にある小川の辺りに転がっていた。  春を迎えたとはいえ、小川の水は冷たくて凍えそうだ。だが腕を浸すと、痛みが和らぎ、眠りに誘われそうになった。  ここに来て、いや連れて来られて、これで三度目の春だ。近江の小領主の城下に暮らしていたが、戦で親を殺され、焼け出された。橋の下を家代わりに、食うや食わずの暮らしをしていたところへ、黒革のブッ裂き羽織を着た長身の男・藤森市蔵が、手柄を立てれば城持ちにもなれる仕事をせぬかと、言葉巧みに連れ出したのだ。  しかし、手柄などとんでもない。忍になるための厳しい修行に堪え兼ね、バタバタと幼子が死んでいった。今、腕を浸している小川に、死体となって流された者もいる。十歳を過ぎた娘は多少の読み書きと護身を身につけさせるとすぐに、淫売宿に売られた。そこに集まってくる情報を掴むためであった。  弱い子供はすぐに命を落とす。故に、市蔵は3日と空けずに子供を連れてきては、欠けた破片を埋めるようにして頭数を補充するのであった。  強くなるしか、ここからは生きて出られぬと、碤三は一日で思い知った。幸いにも体は頑健で、同世代の子供たちより柄も大きい。元より九歳という年齢も本当かどうかわからない。一日一杯の麦飯では腹の足しにもならぬが、山にいる小動物を捉えて食らえば、何とかなるものであった。  腕の腫れが幾らかマシになり、碤三は館の庭先を通りがかった。  市蔵が暮らすこの館だけは、意匠が凝らされていて、ちょっとした豪族の屋敷のようになっていた。そして南側の客間の庭先には、立派な桜の大木があった。少し遅い春を呼び込むように、桜が咲いている。いや、咲いているのにも気付かなかった程なのに、何故か今日は、足を止めたのだ。 「そもじは」  桜の下には、お伽話から出てきたかのような水干姿の子供がいた。いや、子供かどうかも、男か女かも解らない。碤三が今まで目にしてきた子供といえば、泥と糞尿と垢にまみれているものと相場は決まっていた。目の前の童は、夢のように美しく、肌も白く透き通るようであった。後光に包まれたかのような美童に、碤三はもう魂を奪われてしまっていた。 「そもじ、名は」  桜の幹から聞こえるかのような、頼り無げな細い声がゆるりと問うた。 「えい……えいぞう」  まるで学とは無縁の生き方をしてきた碤三である。名とて、元は『えい』と呼ばれていたのを、語呂が悪いと市蔵が『碤三』と名付けたに過ぎない。だが、目の前の子供が、自分とはまるで違う世界からやってきたであろうことは、よくわかった。 「えいぞう、とな。私はここで市蔵の子として修行をするのだそうだ。よしなに頼む」  どこか感覚が途切れてしまっているかのように、美童はぼんやりと言った。 「子? そいつぁ生憎だ。ここは捨て子で代を継いできた忍衆だからな。子と言っても、お頭にとっちゃただの飯の胤でしか無ぇ。地獄だぜ」 「地獄か……もう、知っておる」  童はゆっくりと桜を見上げた。その横顔は、陶磁器の名工にも作れぬであろうほどに整い、神々しいまでの造形美である。その鼻先に、ひとひら、桜の花弁が舞い落ちてきた。「ははうえ……」と、童が唇を震わせたように、碤三には見えた。 「チビ、おまえこそ、名は」 「葛と申す。チビではない。もう五歳(いつとせ)じゃ」  かつら……そう口の中で反芻し、碤三は恐る恐る葛に手を伸ばした。 「十分チビだ」 「ほう、そういうものか」  丁度小川で洗ってきたばかりの碤三の手には、血も泥もついていない。葛は舞でも舞うかのような柔らかな所作で、その手に自分の小さな白い手を重ねたのであった。  その日から、葛を後ろに庇うようにしながらの修行の日々が始まった。しかし、僅か五歳だという葛は、既に刀を持つ体幹ができつつあり、基本的な扱い方はもう会得しているようであった。それでも、碤三はこの里の持つ死臭に葛を近付けたくなくて、葛の世話を全て買って出ていたのだった。  ある日、碤三が自分と同じ飯を食べさせようとして碗を葛に持たせたところに市蔵が現れ、葛の手から碗を取り上げると同時に碤三を蹴り飛ばした。 「この子は藤森衆の抱え主である三条橋家のお血筋、桜子様の忘れ形見にして儂の後継じゃ。狼藉は許さんぞ」 「痛えなッ、飯を食わすだけだッ」 「飯……そんな家畜の餌にもならぬものを食わせては腹を下す。葛よ、儂の元に参れ。おまえは全てにおいて極上でのうてはならぬ」  市蔵は下にも置かぬ可愛がりようで、猫なで声を出して葛を抱き上げたものだった。  
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