匂う

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匂う

 やがて、七歳になった葛は三条橋(さんじょうばし)家の姫・芙由子(ふゆこ)の輿入れに付き添い、話し相手として共に織田島家へ入ることとなった。三条橋からの付け人の一切を拒絶する当主・宗近だったが、女童に仕立てた葛の同行だけは許されたのであった。  織田島家での稽古相手として、もう十代半ばに差し掛かっていた碤三が時折城下外れで葛を待っていた。  付け人であれば厳しい城への出入りも、女中ならば然程目くじらも立てられぬ。葛は城を出るときは敢えて下女のような粗末ななりをするのだが、それでも十二歳になる頃には匂い立つような美しさで、襤褸を纏っていても、その気高いほどの美しさは隠しようがなかった。 「芙由子様のお仕込みは凄いな。お前、どんどん女になっていくじゃん」 「うむ……」 「気にいらねぇのかい」 「いや……ご嫡男の澪丸様のお世話も楽しいし、芙由子様が私に着物をあれこれ当てがったり化粧を施して笑っておられるお姿を見るのも、それはそれで嬉しい。だが、強くならねばならぬ。私は強くなって、あのお二人を守らねばならぬ。こんな、女の形で腰を振っている場合ではない」  碤三と葛は、既に木刀で何刻も仕合っていた。弱くなどない、むしろ、強い。葛の中には、戦の最中、父に母を殺された事で、この世への漠然とした恨みがあるように感じる時がある。その恨みが顔を出した時、碤三は決まって後ろを取られるのだ。何しろ、芙由子の仕込みで舞にも通じた葛は、身も軽い。  芙由子は公家の娘としての知識や教養を全て葛に与えようとしていた。そうする事で息子を守ろうとしていたのであろう。葛への情も深いと見え、葛も芙由子と澪丸への献身ぶりに拍車をかけてきている。  いつ、何が起こるか解らないのは、底辺で生きている者たちも、こうした大名家も変わらぬのだ。少しずつ、学のない碤三にも見えてきていた。いや、葛を通じて、碤三も多くを学んでいた。 「強くなりたい。そして、強くありたい」  強いけどなぁ、と呟く碤三に、葛は目を怒らせて声を上げた。 「私はまだ何者も守れてはおらぬ!! 」  こんな時、女装をしていても、葛の奥底からは年頃の少年らしい猛々しさが顔を覗かせる。いや、中身はどうしようもなく強い男だ。硬質で、クソ真面目で、融通の効かない、男なのだ。 「じゃ、やるか」  碤三は立ち上がった。次は実戦の型だ。スラリと腰の両刃刀を抜いた。 「怪我をしても文句言うなよ、葛」 「ぬかせ。貴様こそ、ベソをかくなよ」 「だからぁ、綺麗な娘の姿でそういう言い方すんなってぇ」 「私は男だ。己の芯を忘れたら、あのお二人を守れぬ」 「へいへい」  葛が抜いたのは、腰元が手挟む懐剣である。  碤三が体重を乗せた一撃を、敏捷な足運びに合わせて振り下ろした。葛は地面を転がって初めの斬撃を交わすと、起き上がり様に礫を見舞った。それを刀身で叩き落とす間に、葛は碤三のガラ空きの脇腹を撫でようとするが、咄嗟に鞘を左抜きにしてその斬撃をいなす。と、葛は飛来して体重が横に逸れた碤三の背中にタンと飛び乗って踏み台にし、前方宙返りで着地すると、それを待っていた碤三の水平に薙いだ刀身を弾いて懐に入り、その懐剣の刃先を碤三の首筋に当てた。 「くっそ……」 「お前がいない時も、こちらは修行を怠っておらぬ。これでは稽古相手にも役に立たぬな」 「う、うるせぇ……」  碤三の胸元に、葛の頰が触れる。髪からは芳しい髪油の香りが碤三の鼻腔を麻痺させ、思わず碤三は、その細い体に腕を回してしまった。  逃げもせず、葛は碤三の腕の中に収まってくれた。 「お頭が、呼んでいるのだな」  碤三が言い出せずにいたことを、葛は助け舟を出すようにして口にした。腕の中から、葛が上目遣いで碤三を軽く睨んだ。 「見たのだろう、碤三」  認めたくもない……だが、碤三はそうだと頷いた。  芙由子が施す女装は、日に日に葛を婀娜に艶やかにしていくばかりであった。本来、桜の精かと見紛うほどに清廉な美しさを持っている筈の葛が、まるで男の精を吸い尽くす魔性のように妖艶な雰囲気を纏っていくのが、碤三には耐え難かった。  その理由を知ってしまってから……。  つい先月の事である。既に部下を使う程までに腕を上げていた碤三は、越前の大名家に忍び込み、敵の内情を揺さぶって内部分裂を起こす細工を仕遂げて里に帰ってきた。葛も織田島家から帰っていると聞き、喜び勇んで館へと赴いた時であった。  ところが、声が、した。既に女を知り、探索の中で女を籠絡する術も知っている碤三には、それが睦事の声であることがすぐに知れた。  しかし、その声の主は、思いもよらぬ人物であった。  葉の落ちた桜の木の向こうで、開け放たれた障子の奥、葛が市蔵に組み敷かれていたのである。着物を剥がされ、女が男にされるように、葛は市蔵に嬲られていたのである。 「かつら……」  荒れた桜の幹を握りしめ、碤三は言葉を失った。  葛の華奢な両足を広げて貫く市蔵が、色に濁った目で葛に食らいつき、譫言(うわごと)のように名を叫んでいた。 「桜子(さくらこ)、桜子様……ああ、桜子さまじゃ……儂の、桜子……」  歯を食いしばって耐えている葛が、苦しそうに顔をこちらに向けた。 「えい……」  碤三、と口にする前に、その潤んだ唇は市蔵に塞がれてしまった。  葛の目が、絶望的な哀しみの奥にしっかりと怒りの埋み火を抱えているかのように、黒々と涙を湛えて碤三を捉えていた……。  もつれる足を何とか振り出して、碤三はその場から逃げた。  小川のほとりに額付き、碤三は吐けるだけ吐いた。  許せない……市蔵に対する怒りと同時に、抱かれている時の葛の妖艶さに一瞬でも目を奪われ何も出来なかった自分にも、激しい怒りを覚えたのだった……。   「碤三」  あの折の霰もない姿を思い起こして戦慄く碤三の拳を、葛はそっと包んだ。 「わかった、里に戻ろう。いつものように留守の根回しを頼む」 「行くな。頭の呼び出しなど放っておけ」 「どけ、今のお前に何ができる」  碤三の胸を突くようにして、葛が体を離した。  目の底に、あの時に見た怒りの埋み火を抱いている。何という昏い目をするのだろうと、碤三は思わず目を反らしてしまった。 「同情するなら強くなれ」 「え」 「力を持たぬ者に同情されても迷惑千万」  返す言葉のない碤三に、葛は真っ直ぐに言葉を投げた。 「お前が好きだ、碤三」 「葛……」 「兄のように思っている」  あ、そっちか……と、碤三はまともに落胆した。 「私を凌げ、そしてあの男を……」  それだけ言い残し、葛は踵を返して走り去ってしまった。  後ろ姿は、これから益々敏捷になっていくであろう山猫そのものだ。 「行くなって! くそう……何で行くんだよ」  碤三は両刃刀を地に突き刺した。  他の下忍を葛の影武者に仕立てて、あのまま葛はまた里に帰っていく。市蔵に体を蹂躙されるために……。  このままではダメだ、ダメだ……葛をこれ以上汚されてなるものか……ギリリと唇を噛み、碤三は顔を見せ始めた月に咆哮を轟かせたのであった。  
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